第6話 渋谷区、歌唱稽古スタジオ③

 シャンシャンシャン、という鈴の音が断続的に聴こえてくる。異変に気付いたのは、どうやら鹿野だけではなかった。眉根を寄せた不田房が、「なんなんだ?」とでも言いたげな視線を寄越してくる。


「今日のお稽古は、ここまでにしましょうか!」


 鹿野が、宍戸が声を発するより先に、穂崎ほさき星座せいざが明るい声を上げた。露骨に安堵した様子のアンサンブル・キャストたちを宍戸が呼び止め「念の為だけどこれ持ってって」と手のひらサイズのジップロックを配っている。


「ちょっと……あんたんとこの舞監、キャストに渡してるけど?」


 不田房に絡む檀野だんの創子つくるこの言葉に、


「あ、あれは、お清めの、しお、だと思います」


 と、舞台監督・鈴井すずい世奈せなが小声で応じた。


「お清め? ……ああ、前の稽古場でも、鹿野」


 長いまつ毛を揺らめかせた檀野の目が、真っ直ぐに鹿野を見下ろす。


「毎日盛り塩置いてたよね、あんた」

「お気付きでしたか」

「お気付かないはずがないでしょうが。──でも」


 鞄の中に台本や煙草、他にもメモ帳やボールペンといった私物を放り込みながら檀野は小首を傾げる。


「盛り塩の皿、毎日割られてなかった?」

「檀野さんが踏んでたんじゃ……」


 和水なごみ芹香せりかが声を上げる。心底驚いた、とでも言いたげな響きだった。

 いかにも嫌そうに眉根を寄せた檀野は和水に体ごと振り返り、


「何それ、濡れ衣!」

「だって素直のこと、迷惑がってたし」

「あのねえ! それこそ公私混同でしょうが。これでも私はイナンナに所属している俳優で、今はどこで油売ってんのか知らないけど演出助手の大嶺おおみねまいは私の後輩です。その現場にどこの馬の骨とも分からない若いのが突然現れて『こっちが不田房栄治の正式な演出助手』って紹介されたらそりゃ……腹も立つでしょ!」


 朗々と述べられて、和水が珍しく身を縮めている。檀野の言い分は、間違ってはいない。間違えたのは、大嶺舞という『』をやる気などない、現場に関わることであわよくばキャストとして抜擢されることを期待する──舞台の稽古場でスタッフがキャストに抜擢されるなどという事件、鹿野は一度も目撃したことがないのだが──タイプをスタッフとして投入したエグゼクティブ・プロデューサーの灘波なんば祥一朗しょういちろうだ。灘波が全部悪い。

 はあ、と嘆息した和水が肩を落とす。


「檀野さん。今のは、ごめん」

「……別にいいよ」

「アンサンブルの皆さん、全員送りのバスに乗ってもらいました。檀野さん、外にマネージャーさん来てます。和水さんは今日も俺の送りでいいですか? 窪田さんも乗りますよね? 穂崎さんも助手席で良ければ乗れますが、送ります?」


 見送りを終えた宍戸がスタジオに戻ってきた。歌唱稽古用のスタジオから退出したアンサンブル・キャストは全員、株式会社イナンナが出しているシャトルバスに乗って帰って行った。一応皆都内近郊在住とのことなのだが、何せ人数が多く、また会社や劇団に所属してはいるもののマネージャーはいない、自分のスケジュールは自分で管理している、というタイプの俳優が大半だったため、宍戸がイナンナに交渉してバスを出させるようにしたのだ。そのバスにももちろん、例の稲荷神社のお札と、『交通安全』と書かれたお守りが常備されている。

 どの程度の効果があるのかは分からない。だが自身を「見える人」だと告白してくれた和水は、今のところ変なものを見ていない──


「っ……!!」


 その和水が、急に顔を顰めて両手で耳を押さえる。「大丈夫ですか」と駆け寄る鹿野と優華に、


「だいじょぶ……なんか、耳鳴りが……」

?」

「!」


 口を開いたのは檀野だ。その場にいる全員の視線が、檀野創子に集中する。


「聞こえる、んですか。檀野さん」


 鈴井が問う。ということはつまり、鈴井世奈にも聴こえている。

 檀野は小さく頷き、


「私霊感とかないつもりだけど、これは分かるよ。シャンシャンシャンシャン、何のつもり……」


『のーーーーーーーーーがみじーーーーーーーーーんじゃのーーーーーーーーーお』


 声が響いた。

 ひどく間伸びした、嫌な耳触りの声だった。

 片頬を引き攣らせた宍戸が、檀野、和水、優華に加えて鹿野を自身の背後に庇い、穂崎と鈴井と窪田は自発的に不田房を盾にした。

 鞄の中から大量のお札を鷲掴みにして取り出した宍戸が、目標も定めずに白い紙をその場にばら撒く。


 ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!


 悲鳴だろうか。笑い声だろうか。響き渡る。

 和水は無事か。この中でいちばん、そういうものに遭遇する機会が多く、に耐性がないのは和水だ。鹿野は横目で様子を伺うが、


『はーーーーーーーーーづきおーーーーーーーーーどりでごーーーーーーーーーざいますーーーーーー』


 大勢いたアンサンブル・キャストが引き上げたことでぽっかりと広がる空間に、その声の主はいた。

 小豆色の和服に身を包んだ、すらりと背の高い女性。差し出した両手には漆塗りの弁当箱のようなものを持っている。

 癖のない黒髪を赤い紐のようなもので結え、額には朱色の墨か何かで紋様が書かれている。切長の目。長いまつ毛。何者か、と誰何できれば良かったのかもしれない。


 できない。


 女の口は裂けている。両方のくちびるの端が、耳まで引き裂かれている。

 目尻もまた、裂けている。こめかみの辺りまで高く、高く釣り上げられ裂かれた目尻から涙袋にかけて、やはり鮮やかな朱色で彩られている。


『のーーーーーーーーーがみじーーーーーーーーーんじゃのーーーーーーーーーお』


 ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!


『はーーーーーーーーーづきおーーーーーーーーーどりでごーーーーーーーーーざいますーーーーーー』


 ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!


『のーーーーーーーーーがみじーーーーーーーーーんじゃのーーーーーーーーーお』


 ガタン、と大きな音がする。「和水!」と檀野が悲鳴を上げる。和水芹香が檀野創子の腕の中で気を失っている。


『はーーーーーーーーーづきおーーーーーーーーーどりでごーーーーーーーーーざいますーーーーーー』


 ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!


「野上神社はもうないし、今は八月でもねえよ。年末だクソが!」


 宍戸が低く怒鳴り、目の前に立つ異形が微笑む。


「おにいさん、おにいさん、おはぎを、お召し上がりになりませんか?」

「それっ、……!!」


 鈴井が叫ぶ。和水を抱きかかえたままの檀野がふところから煙草の箱を取り出し、一瞬の迷いもなく火を点けた。


「メイドインあの世のおはぎなんか頼まれても食べないっつってんでしょ! 今からここは喫煙所だから、消えて!」


 ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!

 ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!

 ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!

 ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ………………………………


 始まった時と同じぐらい唐突に、すべてが終わる。


 鈴はいつの間にか、鳴り止んでいた。

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