第4話 都内、宍戸クサリ邸
宍戸クサリと不田房栄治は、都内にある同じマンションの同じフロアで暮らしている。以前の不田房は都心部のマンションで暮らしていたのだが、生来の詰めの甘さが原因して一部の過激なファン、一緒に仕事をしたことをきっかけに不田房に執着するようになったスタッフ、過去の恋人などに自宅を特定・襲撃され、ノイローゼになりかけていたところに「うちのマンション、かなりセキュリティ固いよ」という宍戸クサリの言葉に縋るようにして引っ越しをしたのだ。今の住居に移動してからは、ストーカー行為は受けていないという。「お金貯めてこのマンションの部屋買いたいなぁ」と不田房は折に触れて言うが、必要なお金はなかなか貯まらないのが現実だ。
今日は、宍戸の部屋ですき焼き会が行われるのだという。愛用のショルダーバッグに財布とスマートフォンを放り込み、レザージャケットを羽織った鹿野素直は、ウキウキと軽やかな足取りで宍戸邸に向かった。実家の外の空気は、すっかり冬だった。
「何か必要なものありますか」
とメッセージアプリで連絡をすると、
「酒」
と返事があったので、マンションに向かう途中にある業務スーパーで缶ビールと缶チューハイを買い込んだ。エコバッグを肩から下げたままでエントランスに立ち、オートロックを解除してもらう。それからエレベーターに乗って、宍戸の部屋があるフロアまで。
「鹿野でーす。すき焼きー!」
「鹿野! もう始まるよ!」
チャイムを押した鹿野の前に顔を出したのは、案の定不田房栄治だった。稽古中は丸く結い上げている黒髪を肩口に流し、黒いノーカラーシャツに色褪せたデニムという格好でドアを開けている。
「お腹空きました! あ、これお酒です」
「うおーありがと! 領収書もらった?」
「もちろん」
「経費で落とすね〜」
言葉を交わしながら、歩き慣れた廊下を行く。宍戸の家に上がるのは今日が初めてではない。不田房ほどではないが、宍戸との付き合いもそれなりに長いのだ。宅飲みだとか、今日のようにすき焼き、それに鍋をするからといって部屋に招かれたことは何度もある。
「鹿野さーん!」
「あ、
宍戸邸は、鹿野の知らないあいだに冬仕様になっていた。リビングからは背の高いテーブルが消え、大きなホットカーペットが敷かれ、その上にこたつテーブルが置かれている。
「すっき焼き、すっき焼き!」
「優華さんおるんじゃったらもっと色々買ってきたら良かった! お酒、ビールとチューハイだけじゃけどええですか?」
「全然大丈夫〜! うちもデザートのプリン持ってきただけやし、ほらほら、鹿野さんも座って座って!」
手洗いうがいをし、優華の隣に滑り込んだ。良く見ると優華の膝の上では、宍戸の愛猫・ヴェンが丸くなっている。白い毛皮が冬毛でふかふかだ。
「これで全員か」
使い込まれた卓上コンロの上に鍋を置きながら、家主である宍戸が言った。「全員だね〜」と取り皿や箸を手に不田房が応じる。
「うち、宍戸さん家来るん初めて! 猫ちゃんもおるんですね」
「そう。保護猫」
はしゃぐ優華に穏やかに応じながら「何から行く?」と取り箸を手に宍戸が鹿野に尋ねる。
「お肉……」
「言うと思った。
「うちもお肉! あとお酒ー!」
「不田房、ホットワイン追加」
「オッケ〜」
立ち上がりキッチンに向かう不田房が不意に足を止め、
「鹿野って卵ふたつの人だっけ?」
「あ、はい」
「割っちゃお〜」
取り皿とは別の更に卵をふたつ割り、優華の方にはひとつ割って、その殻を持って不田房はキッチンへと去って行った。「至れり尽くせり! 最高!」と優華はすっかり上機嫌だ。
このメンバーで食事会を開始して、最後までこの穏やかな空気が続くとはとても思えないのだが、という気持ちで鹿野は箸を手に取る。脳内にはシリアスな空気が漂っているが、それはさて置き空腹ではあった。宍戸お手製のすき焼きが、美味しくないはずがない。
「いただきます」
「いっただっきまーす!」
声を揃えた鹿野と優華が、猛然とすき焼きに取り掛かる。それを宍戸が楽しげに眺めている。「ホットワイン追加だよ」と不田房が耐熱グラスを手に戻ってくる。普段はあまり酒を飲まない鹿野も、ホットワインは嫌いではない。
しばらくは、和気藹々とした時間が続いた。白猫のヴェンは宍戸を含む人間四人の膝の上を点々とし、肉は食べても食べてもなくならず、野菜も大量に投入され、〆は宍戸邸の定番・うどんだった。部屋は暖かく、満腹で、アルコールも入って少し眠い。優華に至っては、既にホットカーペットの上に横たわっている。傍らにはヴェンが当たり前のような顔をして寄り添っていた。
「
鍋を片付けながら宍戸が尋ねる。ふにゃふにゃした声で「プリン〜」と繰り返す優華は、しかし眠気に完敗の気配だ。
取り皿や箸も片付け、テーブルの上をさっと拭いた不田房が、
「コーヒー淹れよっか!」
「ああ、じゃあそれは私が」
「俺ん家だし俺が淹れる。座ってな」
立ち上がりかけた鹿野を制して、宍戸が再びキッチンへと消えていく。こんなに何もかも面倒を見てもらうのは本当に久しぶりだな、と鹿野はぼんやりと思い、小さくあくびをする。
やがて、テーブルの上にコーヒーカップが四つ置かれる。
何かと動き回っていた宍戸が、ようやくこたつに落ち着く。「煙草吸いたい」と呟く不田房は「ベランダ」と短く返され、「じゃあいいや」と両手をこたつ布団の中で擦り合わせた。
本題。
本題はまだか。
このままでは寝てしまう、と思いながら鹿野は再びあくびをする。宍戸が、少し笑った。
「じゃあまあ、打ち合わせといきましょうか」
「うちあわ、せっ」
優華が勢い良く体を起こそうとし、腰か背中を捻った様子で「あああ」と声を上げる。慌ててその身を支えながら、
「宍戸さん、『花々』の現場に入るんですか」
と鹿野は尋ねる。
「まだ分からない。
少し悩んで、首を縦に振る。何という名前だったか──正直、名前だけではなく顔も思い出せない。鹿野が最初にスタジオに足を運んだあの顔合わせの日以来、舞台監督はスタジオに現れていない。
「
不田房が言う。鈴井。そういう名前だったか。
「女のひとでしたっけ?」
「いや男」
「なんも記憶に残ってない…」
頭を抱える鹿野に、不田房は明るく笑う。
「俺もぜーんぜん。だからたぶん、今回は俺から宍戸さんに個人的に依頼出す感じになると思う」
不意に声音が真剣なものになる。腰を摩りながら座り直した優華がコーヒーカップを手に取り、
「うちはまあ脇役やけど、正直宍戸さんがおってくれた方が安心ですわ。だって今のスタジオ、立ち稽古始まった〜って言うても今自分がどこで何しとるかも分からん状態で」
「全貌が見えないんですよね」
「鹿野さんほんまそれ。それに歌? の稽古? も始まるみたいやけど、それやったら余計に早めに舞台装置のイメージ図だけでも欲しいわ」
優華の言い分はもっともだ。宍戸は小さく息を吐き、
「何の話から始めようかな」
と呟いた。不田房は黙って宍戸の横顔を見詰めている。
「まず、あのビルが霊道になってるって話から、いこっか」
舞台装置と何の関係もない話が、始まってしまった。
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