第3話 渋谷区、稽古場②

「ねえちょっと、オモテに警備員ひとりもいないんだけど!!」


 真っ直ぐに飛ぶ矢のような声が、スタジオ内に響き渡った。


「おお、お出ましや」


 ヨガマットを片付けながら、きさらぎ優華ゆうかが薄く笑う。


「お出まし? ……あっ、あの人」

「鹿野さん、よコーヒーメーカー置いて来た方がええで。今んとこ鹿野さんまだ部外者やから、目ぇ付けられたら何言われるか分からんし」

「りょ、でっす」


 優華の声に背中を押されるようにして立ち上がった鹿野は、声の主の視界に入らないようそそくさとスタジオ右奥の給湯室に駆け込んだ。一応確認したが、冷蔵庫の中身は空。まだ誰も飲み物も食べ物も持ち込んでいないようだ──別に今日が稽古初日というわけでもあるまいに、という違和感がほんの少しだけ浮かぶ。だがどうでもいい。最寄駅の前にあったコンビニで買ってきた2リットルの水のペットボトルを冷蔵庫の中に入れながら、スタジオ内で起きている悶着に耳を澄ます。


「ああ、和水なごみちゃん。何かあったの?」

「何か、じゃないですよ灘波なんばさん。私言いましたよね? ビルの前に変なおばあさんがいて、食べ物をすすめて来るから困るって、そしたらあなた警備の人を増やすからって……言いましたよね?」


 ──和水なごみ和水なごみ芹香せりか


 仮チラシにも名前が入っていた。今回の舞台に参加する女性俳優だ。「ああ〜」と和水の怒りが少しも響いていない様子で声を上げた灘波は、


「それねぇ。和水ちゃんがそう言うから、ボクだって上に頼んで警備員を増やしたんだよ? でも誰も、そんなおばあちゃんなんて見てないって……」

「いたんですよ! 今!!」


 和水はキレていた。給湯室で耳を澄ましている鹿野にも分かるほどに、ブチ切れていた。


 和水芹香。直近では、つい二ヶ月前まで放送していた月曜22時台放送のドラマに出演していたのを思い出す。鹿野はドラマには興味がないのだが、父親・迷宮が筋金入りのテレビっ子なので、実家に戻る度に録り溜めているドラマやバラエティ番組を一緒に見るというイベントが発生するのだ。ちなみに迷宮は、時間があるときにはリアルタイムできちんと鑑賞した上で後日録画も見直す、そういうタイプのテレビ好きである。

 スタジオに向かう道中、不田房から配役については薄っすらと聞いていた。和水芹香はアパッシュの女性リーダーだ。復讐者であり、復讐される側でもある。タイタス・アンドロニカスを例に出すならば、ローマ帝国に討伐されたゴート族の女王・タモーラ役。主演の片割れと称しても過言ではない。


「いないいないって言うなら、灘波さんが見て来てくださいよ。ああ、そっちのスタッフでもいいから」


 そっちのスタッフとは演出助手、大嶺おおみねまいのことだろう。和水芹香に名指しされた大嶺は、


「ええ〜……だってぇ私、不田房先生の助手なんですよ? なんで不審者を確認しに行かなきゃならないんですか?」

「とにかく! 誰でもいいから!」


 大嶺の甘ったるい声によって、和水の怒りがどんどん膨らんでいく。「あのー」と鹿野は給湯室から顔を覗かせ、挙手した手をひらひらと揺らした。


「良く分からないんですが、私、確認して来ましょうか?」

「……えっ誰!?」


 和水の裏返った声を受け、鹿野はへにゃりと笑顔を作る。


 「一緒に行こうか」という不田房をパイプ椅子に座らせ、スタジオを出、エレベーターに飛び乗った。1階まではあっという間だ。

 俳優、和水芹香は、スタジオが入っているビルの前で数回に渡って不審な老婆に遭遇しているのだという。小豆あずき色の着物を来た白髪の小柄な老婦人で、最初はこの辺りの住人だと思って挨拶などをしていた。だが、次第に挨拶だけでは済まなくなった。老婦人──老婆は毎回同じ色の着物姿で現れ、手には四角い弁当箱のようなものを持っている。それを和水に差し出して「おはぎを作ったから、食べて頂戴」と言い募るのだ。


「そんな訳の分からないもの、食べられるはずないでしょう」


 薄いくちびるを引き攣らせる和水の言い分はもっともだ。最近では、観客からの差し入れ、中でも食品を断っている現場は多い。異物を混入されたり、薬でも盛られたら洒落にならないし、実際にその洒落にならない事態に陥ったケースが数えきれないほどにあるからだ。

 申し訳ないけど気持ちだけもらっておく、とやんわり拒否する和水に、老婆は食ってかかったりはしなかった。「そうなの。美味しいのにねえ」と言って引き下がった。

 それが、先週、『花々の興亡』の制作会見を行うまでは二回に一度(和水は映像作品の撮影を行っている関係で、週に三日ほどしかスタジオに来ることができない)。会見後は毎回のように「おはぎ、食べて頂戴」と近付いてくるようになったという。


「なるほどです。おはぎ……怖いですね」

「ところであなたは誰なの?」

「一応不田房さんの助手ですが今回どうやら仕事がなさそうなので……せっかくなので鉄砲玉として不審者チェック、お任せください!」


 和水にとってはおはぎをすすめてくる老婆も、突然給湯室から現れた鹿野も同レベルの不審者だろう。であれば、敢えて不審者がいるかどうかをチェックしに行くことで、不審者レベルを少しでも下げたい。そんな下心を抱えて、鹿野はエレベーターの外に出た。


 誰もいない。


 そのはずだった。


「喫煙所だ! ラッキー」


 現在渋谷区内では、歩きタバコはもちろん、公共の場での喫煙も禁じられている。だがスタジオが入っているお洒落ビルの前には、お洒落な喫煙所が設置されていた。エグゼクティブおじさんこと灘波が喫煙者なのだろう、と当たりをつけた鹿野は、一瞬も迷わずに黒い灰皿スタンドの前で紙巻きを取り出した。

 火を点ける。煙を吐く。

 青い空に紫煙がゆらゆらと揺れて消えていく。快晴だ。


「あらぁ……」


 声。

 声が聞こえた。


 灰皿の中に紙巻きを放り込んだ鹿野は、小首を傾げて声の主の方に視線を向ける。


 老婆が立っていた。

 小豆色の着物を着た、美しい銀髪の品の良い老婦人だ。

 その老婦人が、眉根を僅かに寄せてこちらを見ている。


「そんなところでけむりを吸うもんじゃあ、ありませんよ」

「あ、すみません。なんかでも、たぶん許可取って喫煙所にしてるんだと思うんですが……」

「──あたしは」


 優しげだった老婦人の声が──変わる。

 地の底から這い出るような、ひび割れた音に。


「許可をした覚えはないんだけどねえ」

「……っ!!」


 これだ、と何の根拠もないけれど理解した。

 和水芹香を困らせているのは、今目の前にいる、この老婆だ。


「それよりあなた、おはぎを、」

「うわーっおはぎ大好き! でも仕事があるので、失礼しますっ!」


 差し出された弁当箱の中を覗く気にもなれなかった。その代わり新しい煙草に火を点け、それを握ったままで喫煙所を飛び出した。

 紫煙が老婆の方に流れ、老婆が数歩後退りをする。

 逃げるように、エレベーターの中に飛び込んだ。ふと見ると、先ほど火を点けたばかりの煙草が1分も経たないうちに灰になっていた。

 手のひらに、小さな火傷が残った。


 スタジオに戻った鹿野を、不田房栄治と和水芹香が迎えた。灘波祥一朗、大嶺舞はまるで興味がなさそうな顔で視線だけを鹿野に向けている。

 手のひらの火傷を示して、鹿野は言った。


「いました、変な人」

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