31 江郷逢衣は味わう。
七月二十一日。午前八時三分。逢衣は長期休暇の初日を早速満喫する……事はなく、夏休みの宿題をやっていた。記録や知識を保存出来るAIに勉強はあまり意味はないものではあるが、彼女は律儀にも解答欄を埋めていた。
「アイは休み最初の方で宿題終わらせるタイプか」
「タイプ、ですか?」
「あーそうそう。夏休みに出される宿題をどう終わらせるかで個性が出るんだよ。僕はどーしても残り一週間切った辺りで全部片づけるパターンになっちゃうんだよね」
「そもそも俺は手をつけない」
「それはどうかと思うよ?」
そんな雑談を繰り広げて逢衣の筆記の手を止めていると、彼女のスマホに通知が届く。ラインを起動してみると、麻里奈からトークが来ていた。
『今日の九時にあたしの家に来れる? 沙保里達が早めに宿題終わらせたいんだって』
『分かりました。行きます』
「なんだ遊びに行くのか」
「遊びには行きません。宿題を終わらせに行きます」
「あ! それならアイたんコレ使ってよ!」
琢磨は部屋の奥からリュックサックを持って来て逢衣に渡す。高品質なネイビーブルーの革を惜しみなく使っている逸品だが、ただの鞄ではない。逢衣が使うならではのポイントがあった。
「! サケニギリマンが入っています」
「そうなんだよ! さり気ないデザインになってていいでしょ? アイたんにピッタリだなって思ってつい買っちゃったんだよ」
誰もが一度は聞いた事があるであろうブランドメーカーとサケニギリマンがコラボレーションして発売されたリュックであり、ファッションの一部として使っても違和感が無いものである。逢衣は何処か嬉しそうに掲げてまじまじと見つめていた。
「それとこれ着ていけ。夏なのに春物着てたら笑われるかもしれないだろ?」
大助はゴールデンウィーク前に買った物は別の夏用の衣服を逢衣に渡した。どうせ着るならなるべく動きやすい服が望ましいという逢衣のリクエストを反映した結果、薄手のフードジャケットとTシャツ、それにハーフパンツを合わせたアクティブ寄りなコーディネートとなっている。
「有難うございます。マスター、琢磨様」
「遅くなる前に帰ってこいよ」
「もし帰りが遅くなる場合は僕か大ちゃんに連絡ね!」
早速とばかりに逢衣は大助から貰った服を着用し、琢磨から貰ったリュックに宿題と筆記用具を詰め込み、研究所を後にするのであった。
※
「え〜!? 解答欄にある答えが出てこないよ〜!? 莉奈ちゃんこの問題分かる〜?」
「そんなの私が分かるワケないっしょ」
麻里奈の家で沙保里達が集まり、彼女の自室で課題を広げていた。成績優秀な逢衣と麻里奈、授業をちゃんと聞いていた沙保里は順調に進めているが、元々勉強が苦手である美也子と授業中寝てばかりいる莉奈は苦戦を強いられていた。
「最初の方で宿題全部終わらせたいって言い出したのアンタらでしょ? 口じゃなくて手を動かしなさいよ」
「だって分かんないんだもん~!」
「ああ、駄目。問題見てるだけで眠気がするっしょ……」
目の前にある数学の問題集に阻まれ、すっかり意気消沈する言い出しっぺ達。すると逢衣が二人の間に入り、ノートを開いた。
「この問題はこの法則を使って——」
自前のノートに数学の方程式の順序や解き方を書きながら、懇切丁寧に教え始める逢衣。彼女の解説を真摯に聞き終えた二人がペンを持ち直して問題を解こうとするも、力及ばず筆が止まってしまっていた。
「う~全然分からない~!」
「江郷さんが分かりやすく教えてくれてる筈なのに申し訳無いっしょ……」
「問題ありません。私で良ければ何度でも、分かるまでお教えします」
当然と言えば当然であるが、理解力に乏しい二人に対して逢衣は嫌な顔をせずに根気良く、更に解説を噛み砕きながら教えていく。美也子と莉奈は彼女の優しさに打たれて甘える様に身体を寄せた。
「逢衣ちゃんが先生だったらいいのに~!」
「それは言えてる。江郷さんが先生なら眠くても真面目に授業受けるっしょ」
「私が先生、ですか?」
「いいから早く手を動かせっての! 逢衣も二人を甘やかさない!」
一向に宿題を終わらせる気配が無い二人に痺れを切らした麻里奈が一喝する。そして間に挟まっていた逢衣を元の位置に戻して勉強会は再会するのである。
「麻里奈ってさ、変わったわよね」
「は? 何が?」
「前は何かこう、一線を越えないでナアナアな関係のまま付き合ってた感あったからさ」
「前の方が良かったって事?」
「まさか。今のアンタの顔、サイッコーにイケてるわよ。心の底から楽しんでる感じ」
「何それ……意味分かんない」
麻里奈は少し気恥ずかしそうな表情を浮かべながら、宿題を黙々と解き始めるのであった。
※
「もう限界! 頭がパンクするっしょ!!」
「……丁度お昼だし休憩にしよっか」
時刻は十二時三分。漸く数学の問題集を終わらせた莉奈は机に突っ伏したまま起き上がろうとしないので、逢衣達は休憩する事にした。
「今日はお礼も兼ねてウチがケーキ焼いて来たんだよ~! 皆食べて~!」
「……これ美也子が作ったの!?」
「しかも結構本格的なヤツっしょ!」
美也子は勉強道具を入れたバッグとは別に、紙袋からドライフルーツを混ぜ込んだパウンドケーキを取り出した。
麻里奈がそれを五等分にし、皿に盛って配膳していく。そして全員がほぼ同時にフォークで一口大に切ったケーキを口に入れていった。
「……何これ
「パウンドケーキって美味しく作るの結構難しいんじゃなかったっけ!?」
「そうでもないよ〜。卵とバターを乳化させるのにちょ~っとコツがいるだけ〜」
「美也子、アンタ食べるだけが専門じゃないのね……滅茶苦茶意外だわ……」
「ひどい~! 確かに作れるのはデザートだけなんだけどさ~!」
どうやら美也子の洋菓子作りはプロ顔負けの腕前らしい。麻里奈達が舌鼓を打ち、
自分にもし味覚という機能があれば皆と同じ感覚というものを共感出来るのだろうか、と逢衣は切り分けられたケーキをじっと眺めていた。
「折角だし逢衣ちゃんも食べて~!」
「……いただきます」
アンドロイドは食事が出来ない。機体の稼働に必要なのは電気エネルギーのみ。けれど彼女の厚意を無下には出来ないと判断した逢衣は一口大に崩したケーキを口に放り込んでみた。
見様見真似で
「美味しいっしょ?」
「……分かりません」
「もしかして甘い物苦手だったり~……?」
「……申し訳ありません。私には味覚が有りません。ですので飯田さんが作ってくれたケーキが美味しいかどうか、口に入れても分かりません」
不安そうな目で見つめる美也子に対して逢衣が弁明する。一瞬呆気に取られていたが、麻里奈達は何かに気付いたのか思わず声を漏らしていた。
「だからお昼ご飯食べないワケね……」
「味覚が無いとか想像つかないっしょ……」
「何でそんな事早く言わないの! 毎回お昼ご飯付き合わせてしまったじゃない!」
「ごめんね逢衣ちゃん……! ウチら何にも考えてなかった……!」
各々が次々に口に出していく。それを遮る様に逢衣は掌を突き出して彼女達を黙らせた。
「確かに私には美味しいが分かりません。……ですが、皆さんの表情を見ればしっかり伝わります。宜しければ、皆さんの美味しいをこれからも私に見せてくれませんか?」
美味しい物を食べれば人間は笑みを浮かべる。気分が昂揚する。生きる糧になる。だからこそ逢衣は見ていたい。美味しいと感じる人間の姿を味わいたいのである。
「……じゃあ食レポでもしてみる?」
「面白そう~! やるやる~!」
一本目を食べ終え、美也子は次にナッツを混ぜ込んだパウンドケーキを取り出した。勉強会はそっちのけで、今度は逢衣にしっかりと伝わる様にと様々な
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