SS3 野上麻里奈は復讐者である。

 奈津季は通っていた小学校で発見された。それはとして。そして彼女の身体には暴行を加えられた痕があった。奈津季はいじめに耐え兼ねて自ら命を絶ったという事は明白であった。彼女の死によって野上家は大きく狂い始める事となる。


『調べによりますと、学校側はいじめがあった事を否認し――』

『クラスメイトの山下です。その、野上さんは明るくて、優しくて……自殺したなんて、今でも信じられなくて――』

『母親のお前が奈津季の事を見ていなかったからこうなったんだ!』

『貴方が今まで奈津季に父親らしい事した事何かあった!?』


 学校は奈津季がいじめに遭っていた事を隠蔽いんぺいしようとしていた事、首謀者と思われる山下やました海亜あくあとその一家は大企業の娘であり、人知れず転校していた事。父と母が責任を擦り付け合い、家庭が崩壊してしまった事。

 麻里奈は何もかもどうでも良くなってきた。大好きだった妹はもう存在しない。生き返らせる事なんて出来ない。生きる意味なんて無いに等しかった。


 無気力のまま、奈津季の部屋で遺品整理をしていると、麻里奈は勉強机の裏側に隠されていたノートを見つけた。


「これは……?」


 奈津季が日記をしたためていた。ゆっくりページを捲ってみた。どのページを見ても、奈津季の悲痛な声を鮮明に残していた。


『六月十一日。わたしはお姉ちゃんと初めてケンカした。お姉ちゃんは私のことを心配してくれておこっていた。けど、言えない。だって言ったらお姉ちゃんをいじめるって……。それだけは絶対イヤだ』

「奈津季……!」


 何かが込み上げてくる。それでも麻里奈は次の日の出来事を見る事にした。どんどんと奈津季の書いていた文字が弱々しいものとなり、ページの至る所に水滴が落ちていた痕跡があった。そして奈津季が最後に記した日記を見てみた。


『七月一日。山下さんがもういじめないって約束してくれた。本当にうれしい。もうイヤな思いをしなくていいんだ。明日、学校から帰ったらお姉ちゃんにあやまろう。ケンカして、話しにくいけど、やっぱり大好きなお姉ちゃんがいないとわたしはダメダメだから――』

「何で……何で奈津季が謝んのよ……!!」


 日記を胸に抱え、麻里奈は蹲りながら号泣した。そして何度も、何度も何度も謝った。今更謝ったってもう奈津季は帰って来ない。けれど、麻里奈はそれしか言えなかった。


「――七月一日って、奈津季が亡くなった日の前日……」


 暫く泣きじゃくった後、何とか平常心を取り戻せた麻里奈は決意した。山下海亜コイツだけは絶対許してはならない。奈津季の仇を取らなければ自分は前に進めないと考えた。


 こうして麻里奈は泣き寝入りしているだけの自分を戒め、復讐心を原動力にして生きていく事となった。


「野上さん……。妹さんの事なんだけど、その、もう……大丈夫なの?」

「……うん! 平気! 心配してくれてありがとっ! それよりもごめんね、バドミントン部辞めちゃって」


 麻里奈は何もかも捨てた。奈津季の為に。


「……日野君。あたしにも剣道、教えてくれないかな」

「……分かった。父ちゃんの道場まで案内するからついてこい」


 麻里奈はひたすら鍛えた。奈津季の為に。


「山下海亜の家族構成……、父は大企業の社長で母は専業主婦……。仕事人間の父親はあまり家に帰っておらず、元キャバ嬢の母親は夜な夜な何処かへ出掛けている……」


 麻里奈は逃がさないとばかりに追跡した。奈津季の為に。



 月日は過ぎ、春休みに突入した。麻里奈は今日の稽古を終えて座礼した。剣道の修行は一年にも満たなかったが、有象無象うぞうむぞうの連中相手なら圧倒する程の実力を身に着ける事が出来た。


「野上!!」


 に移そうと道場を後にしようとした時、神妙な面持ちをした雄太に引き留められた。


「お前今日で剣道辞めるってどういうつもりだよ!! ……もしかしてお前!!」


 言おうとしている事は大体察しがついた。鬱陶しいとばかりに麻里奈は先回りして喧しい口を塞ぐ事にした。


「……日野君の言おうとしてる事、当てよっか。“復讐なんてくだらない”ってとこかな?」

「分かってるなら!!」

「……分かんないよね、日野君には。大切な人を殺されてないんだから」


 言ってしまえば終わりだとは理解していた。けれど苛立ちのあまり口を滑らせてしまう。案の定、雄太はこれ以上何も言えずに茫然としていた。



「貴方にこれを見て欲しいんです」


 春休みも中盤に差し掛かった頃。麻里奈は山下の父親と喫茶店で会う約束をしていた。目的は、とある写真を見せる為に。


「これは……!」

「貴方の奥さんがホテルに入っていく所です」

「……やはり、か」


 テーブルに撒かれた十枚弱の写真には、女が男と親しげにホテルへと入っていく光景が写し出されていた。これは全部麻里奈が春休みを利用して海亜の母を尾行し、盗撮していたのである。薄々感じていたのか、これを見た男は納得とばかりに声を漏らしていた。


「……それで? この写真で君は私にどうして欲しいんだ?」

「……強いていうならば、これを使って離婚をして、むしれるだけむしり取って欲しいんです」

「何が目的なんだ?」

「将を射んとする者はまず馬を射よ。って事です」

「……もしや君は!」


 何も言っていなかったが、男は麻里奈の正体を察した。あの去年の夏の事件、その被害者の遺族だと。

 元々家族間も冷え切っていた事が幸いして麻里奈の要求は快諾され、離婚は成立。夫の稼ぎを頼りに生活していた妻と娘に蓄えなんてものはなく、泣きっ面に蜂とばかりに慰謝料も請求されて忽ち困窮する羽目になっていた。


「くそっ、あのババア勝手に消えやがって……! どうやって生きろってんだよ……! ジジイも番号変えやがって……!」


 元々ロクでもなかった海亜の母は直ぐに娘を置いて蒸発。社長令嬢だった彼女は何もかも失い、宛ても無く彷徨う事に。こんなにも早く孤立するとは思わなかったので、僥倖とばかりに麻里奈は口角を吊り上げて笑った。


 仕上げとばかりに麻里奈は凋落ちょうらくして見窄らしい恰好のままスマホを弄っている海亜に急接近した。


「アンタに話があるんだけど」

「あぁ!? んだよ――っ!?」


 機先を制すべく、麻里奈は彼女の両頬を鷲掴みにし、大声を出されない様にそのまま人気の無い所まで拉致し、そのまま地面へ叩きつける様に放り投げた。


「何すんだよ!? 私が誰だか知らないのかよ!?」

「アンタこそあたしが誰か知らないの? 一度だけ会ったってのに、寂しい事言うんだね」


 海亜がじっと麻里奈を見つめる。そして思い出したのか、彼女は目を丸くして驚いていた。


「もしかして……!!」

「あたしは野上麻里奈。此処まで言えば……もう、分かるよね?」

「……はっ! 何だ何だ? 今更妹の敵討ちって? お前もアイツが死んで清々しただろ?」


 まだ状況が把握出来ていないのか、海亜はほくそ笑みながら麻里奈を挑発し始めた。


「死んで清々?」

「そうだよ! アイツは姉のお前に守られてるクセにいい気になって良い子ちゃんぶりやがってよ! なんだから私が遊んでやったんだよ!」


 ――嗚呼、コイツは何も分かってないんだな。今置かれている立場も、奈津季の事も。バカも此処まで達していたら怒るどころか、寧ろ哀れに思えてきたよ。


「にしても小さい子供が好きなオッサン使って一緒に遊んだ時はケッサクだったよなぁ~?」


 それでも海亜はべらべらと喋り始める。麻里奈の掌で踊らされている事も知らずに。


「助けてお姉ちゃん、って何度も泣きながら言ってたよ! だから黙らなかったら次は姉にも同じ事をするって言ったら、アイツ馬鹿だから真に受けてやがんの! チクれば良いのに自殺してやがんの! お姉ちゃん思いの良い子ちゃんで感謝してるよ!」


 麻里奈はようやく理解出来た。何故奈津季が自殺してしまったのかを。不思議と怒りは感じなかった。一ミリの善意すら無い屑を存分になぶる事が出来ると知れたから。


「……にしても、随分と麗しいお召し物ね。まるで父親と母親に捨てられて無一文になった奴の恰好みたい」

「……何でその事知ってんだよ!?」

「さぁ、何でだろうねぇ?」

「コイツ!!」


 逆に麻里奈は煽り立てた。するとまんまと逆上し、怒り任せに殴り掛かってきた。だが、腰の入っていないひ弱なパンチなんて軽く受け止められる。


「あたしを殴ろうとしたな? 今からだ」


 渾身の一撃を顎に当てる。ふらついている所に更に一発。へし折れた鼻っ柱から血を垂らして倒れ込んだ。


「立てコラ。奈津季が受けた痛みはこんなモンじゃないから」


 最初の一発でもう戦意は喪失していた。けれど麻里奈の猛攻は続いた。何十発か痛めつけていると、この期に及んでも海亜はあざこぶだらけになった顔と共に虚勢を張り続けていた。


「お前……こんな事をしたらパパが……!」

「だからアンタはそのパパに捨てられたんでしょうが。あたし知ってるんだから」

「何で……!?」

「まだ分かんない? ほんっとバカだね。アンタの母親の浮気を父親にチクったのもそれでアンタと縁を切る様に唆したのも、全部あたしがやったから」


 絶望に打ちひしがれているその顔、それが見たかった。麻里奈がこれでもかとばかりに嘲笑を上げていると、海亜は息を荒げながらポケットから何かを取り出してきた。


「殺してやる……! 殺してやる……!!」


 震える両手で握られたのは刃渡り十数センチはあるナイフだった。一突きで致命傷は確実であろう凶器を前にしても、麻里奈は顔色一つ変える事無くゆっくり近付いていく。


「殺してやる……!!」


 一足一刀の間合いに自分から入っていく。威嚇いかくを続ける海亜はナイフをを構えたまま動かない。間近まで迫り、麻里奈はそのまま刃を握り込んで完全に攻撃を封じた。


「……殺せるワケないだろ。アンタみたいななんぞに」


 掌から鮮血が滴り、左手は真っ赤に染まっていく。それでも彼女の鋭い眼光はを逃そうとしなかった。海亜は恐怖のあまり冷汗と共に顔を歪ませていた。


「奈津季がアンタが殺した。アンタが殺した様なモンだ」

「ご、ごめんなさ――」

「……ならあたしに殺されても文句無いよなぁ!!?」


 今日一番の麻里奈の怒声がつんざく。完全に精神が崩壊した海亜は泣き喚きながら得物を捨てて彼方へと逃げていった。その背中を見た復讐者は、左手の傷を抑えながら力無く膝を着いた。


「野上!! 大丈夫か!!」


 雄太が直ぐに駆け付けてくれた。どうやら追って後をつけてきたらしい。痛みで呼吸を乱していた麻里奈は乾いた笑みを零していた。


「直ぐに救急車呼んでやるから待ってろ!!」

「……日野君」


 麻里奈は笑いながら涙を流していた。湧き上がってくる左手の激痛によるものと奈津季の此れまでの事を思い返した事によるものの涙であった。


「日野君の言う通りだったよ……。復讐なんて、くだらないや……」


 身も心も完膚無きまでに叩きのめして復讐を果たしても、奈津季は決して帰って来る事は無い。そう理解した時には一層喪失感が増していたのであった。



 奈津季の仇を取った野上麻里奈が次にやるべき事。それは奈津季が目指していた理想の姉、つまり一番になる事であった。


「野上さんまた学年一位? 凄いなぁ」

「ありがとっ! けどあたしまだまだ頑張らなくちゃ!」

「野上が生徒会長になってから一気に学校良くなってきたよなぁ」

「皆の学校だもん。どんどん良くしなきゃ!」


 そしてこれ以上奈津季の様な犠牲者を出さない為にも、蔓延はびこる悪を潰えさせる事であった。


「い、言う事聞くからもういじめなんかしないから……ゆ、許して……」

「クソ野郎。死んで詫びとけ」


 生徒どころか教諭までもが麻里奈を頼り、誰もが麻里奈の味方であった。誰も彼女を止められる者は居なかった。


「……なぁ野上、お前その、無茶していないか?」

「何が?」


 あの出来事を知っている雄太が話しかけると、麻里奈は張り付いた様な笑みを浮かべて振り返った。皆は気付いていないようだが、彼だけは彼女の目がドス黒く濁っている事に気付いていた。


「……用が無いならあたしもう行くね。日野君も剣道ばっかしてないでちょっとは勉強しなよ~」


 今日も麻里奈は優等生の仮面を被り、学校を裏から支配していく。心が壊れた彼女にはもう雄太の声なんて届きやしない。


「……アイツを助けられる奴は、もう居ないのか?」


 どんどんと遠ざかっていく麻里奈の背中を、雄太は指を咥えて見る事しか出来なかったのであった。



The End...?

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