SS2 野上麻里奈は救えない。

 麻里奈は中学一年生となり、奈津季の居ない学校へ通う事となる。別の小学校から来た生徒も多く、戸惑う事もあったが、彼女は新天地でも皆から頼れる存在として活躍していた。


「野上さん、一緒にバドミントン部に入ってみない?」

「部活かぁ、そうだねぇ――」


 中学生になって初めて部活動という存在を知った麻里奈。楽しそうだと思い、配られた入部届に名前を書こうとした時、頭に浮かんで来たのは奈津季の顔であった。

 もし自分が帰るのが遅くなってあの子一人で寂しく待っていると考えると、即決出来なかった。


「あー……、ごめん。あたし、部活は無理かも。家の用事あるから」

「そうなんだ。大変だね」

「おーいそこの!! どうだ!? お前達も剣道部に入らないか!?」

「……日野君話聞いてたの?」


 中学の部活動なんてたかが知れているが、麻里奈にとって優先すべきは家の事であった。それ以外はどうだって良かったので全然苦では無かった。


「ただいま」

「お姉ちゃんお帰り!」


 家には奈津季が待っている。早出のシフトの時は母も家に居る。時々父も帰って来る。麻里奈はそれだけで十分だった。


「お姉ちゃん、聞いて! 教室でね! 山下さんがね!」

「口の中のもの全部食べ切ってから話しなさいよ」


 夕食。いつもの様に二人で食卓を囲んでいると、奈津季がご飯を口に頬張りながら興奮気味で話し掛けてきた。麻里奈はというと、行儀の悪い妹に辟易しつつも冷静に叱った。


「……山下さんっていう子が居るんだけどね! その子が無視するからね! 私、無視しないでって言ったんだよ! そしたら――」


 無視? 無視されてるって事? 何で無視されてるの? この感じだと理由なんて奈津季自身分かってないだろうし、中学のあたしが奈津季のクラスを見に行くなんて出来ないし、どうしたら――


「……お姉ちゃん聞いてる!?」

「え!? う、うん。聞いてるよ。……ていうかアンタ何で山下さんとやらに無視されてんのよ? 何かした?」

「何にもしてないよー! 山下さんがクラスの女の子の悪口言って泣かせてたからそれを止めただけだよ!」


 奈津季が何気なく放った言葉で麻里奈は一瞬で察した。そしてどう言えばいいのかが分からずにいた。

 確かに奈津季は間違った事はしていない。けれど大事な妹が傷付く事になっても正しい事をしたのだからそれは仕方の無い事だって片付けられる話ではなかった。


「……取り敢えず何かあったら直ぐあたしに言いなさい。分かった?」

「うん! 分かった!」


 答えを見つける事が出来ず、という愚策を弄してしまった。これが野上家にとって道を違える第一手になるとは、この時は思いもしなかったのである。



 その日からだった。奈津季の表情に違和感を覚えたのは。他の人には誤魔化せている様だが毎日顔を合わせている麻里奈にとっては僅かな機微だとしても見逃す筈が無かった。

 何かあった? 事ある毎に麻里奈が執拗に聞いても帰ってくる言葉は唯一つだった。


「何もないよ!」


 不器用で思った事が直ぐに顔に出る奈津季が隠し事をしていた。逐一報告する様にと言っておいたのに嘘を吐いてでも異変を誤魔化そうとする妹の姿に麻里奈はショックを受けた。本来であれば問い質している所であったが、これ以上何も追求出来なかった。


「野上さん、どうかした?」


 奈津季の事が心配で終始上の空であった。机で頬杖を突きながら大きな溜息を吐いていると、クラスメイトが心配して話し掛けてきた。


「あー、ううん。ちょっと些細な事なんだけどね」

「何だ何だ!? 取り敢えず何でもいいから言ってみろって! スッキリするかもしれないぞ!!」


 学級副委員長であった雄太がお節介とばかりに首を突っ込んでくる。正直、身内の事を話すのは抵抗があった。しかし、退きならない状況で藁をもすがりたい思いだったので、思い切って話してみる事にした。


「野上! そういう時はな! やっぱり答えてくれるまでしつこく聞いた方が良いと俺は思うぞ! やらない後悔よりもやる後悔ってヤツだ!!」

「うん。私もそう思う。野上さん、妹さんに嫌われたくないって思ってるんだろうけど、ただ見てるだけなのはもっと嫌でしょ?」


 最後まで耳を逸らさずに話を聞いてくれたクラスメイトは茶化す事無く背中を押してくれた。

 今日は何としてでも答えを聞こう。そう強く決心し、麻里奈の心を覆っている霧は雲散した。


「小泉さん、日野君……。ありがとう。私、聞いてみるよ!」


 放課後、麻里奈は一直線に家へと戻った。家に帰ると、いつもの様に奈津季が先に帰っていた。


「……あっ、お姉ちゃん、おかえり!」


 いつもの様に奈津季は微笑んでいた。しかしそれは誤魔化しで塗り固めた偽りの顔である。麻里奈はそれをもう見たくなかった。白々しい表情を浮かべている妹を見つけるや否や、姉は真っ先に近寄り両肩を掴み、至近距離で目を合わせた。


「奈津季。何かあったんでしょ。正直に言いなさい」

「な、何言ってんの? 何にもないよ――」

「もうそんな言葉聞きたくない!! 他の人には分かんないんだろうけどね! あたしにそんな嘘、通用すると思ってんの!?」


 露骨に奈津季の目が泳ぐ。そして言葉を詰まらせる。それでも麻里奈は目を逸らさない。納得のいく答えを出してくれるまで逃がさない。


「……本当に、何も――」

「奈津季!! あたし言ったよね!? 何かあったら直ぐあたしに言いなさいって!! そしてアンタは分かったって言ったでしょ!? 何で言わないの!?」

「な……何でもないったらぁ!!」


 逆上した奈津季は麻里奈を思い切り突き飛ばして逃げていった。尻餅を着いた瞬間、何かが切れた様な気がした。


「待ちなさい奈津季!!」

「嫌!!」


 家から逃げようとする妹を捕まえ、拘束しようと床に組み伏す麻里奈。必死に抵抗しようと姉の顔を引っ掻いてでも藻掻く奈津季。最初で最後の本気の喧嘩だった。取っ組み合い、容赦無しの力でお互いぶつかり合う。その最中、麻里奈はが視界に入り、動きを止めた。


「奈津季、何、それ……」

「み、見ないで……!」


 奈津季の服の下に隠れていたもの。それはあざ。それは切創きりきず。それは火傷やけど。まるでバレない様にと刻みつけられた傷を見つけた一方は言葉を失い、見つけられた一方は隠そうとしていた。


「アンタ……!!」

「ち、違う――」

「違わない!! 山下って奴に何かされたんでしょ!? 何で早くから言わなかったの!!」


 おびただしい傷を負った奈津季を見た麻里奈は確信した。奈津季は学校でのだと。そしてこれはいじめで済む程の仕打ちでない事を。


「お姉ちゃん……」

「こんなのはもうって言いなさいよ!! あたしでもママでもパパでもって言いなさいよ!!」

「……そんな事言ったって。どうせ私は、要らない子だから余計なお世話だよ——」


 その言葉を聞いた瞬間、麻里奈は奈津季の頬を叩いた。それでも奈津季の態度は変わらなかった。今まで過ごしてきた事は無駄だったと悟り、麻里奈は力無く彼女の元から離れていく。


「……もういい。あたしは奈津季の力になりたかったのに。……あたしが今までやってきた事、無駄だったみたいね」


 それ以降、麻里奈と奈津季は話さなくなったし、目も合わさなくなった。麻里奈は家の事も放り出し、本当はやりたかった部活動に専念する事になった。まるで、奈津季の事を忘れる様に。


「やっぱ凄いよ野上さん! これなら大会優勝も狙えるよ!」

「ホント? じゃあもっと頑張ろっと!」


 放課後、バドミントンの練習に夢中になり、時刻は十七時五十二分。そろそろ下校時間だったので帰る支度をしていると、母から電話が掛かってきた。面倒だな、と思いつつも通話ボタンを押すと、母は酷く焦燥した様子で話し掛けてきた。


『麻里奈! 奈津季そっち来てない!?』

「奈津季? ……来てないけど。どうかした?」

『下校時間はとっくに過ぎてるのに帰って来ないのよ!!』


 母の言葉が一瞬理解出来なかった。そして思考が追いついた瞬間、麻里奈の血の気が引いた。急いで家に帰ると、母が誰かに電話を掛けていた。


「この時間になっても家に帰って来ないのよ!? 心配じゃないの!? ……貴方それでもあの子の父親!?」


 母は気が動転しているあまり単身赴任中の父親に電話を掛けているらしい。自分も何か出来る事は無いか。一縷いちるの望みを掛けて、奈津季に電話を掛けてみた。

 コールが一回。二回。三回…………。鳴り響く度に麻里奈の焦りが徐々に増していく。

 やはり出る筈が無いと考え、切ろうとした瞬間、奈津季と繋がった。


「もしもし奈津季!? アンタ今何処に居るの!?」

『……お姉ちゃん、ごめん』

「……あぁ、分かった! アンタもしかして迷子になってんでしょ。それで遅くなったからママに怒られると思ってんでしょ」

『……』

「あたしがママに上手く話つけて、その後迎えに行くからアンタは動かず待ってなさい。周りには何が見える?」

『……ごめん、お姉ちゃん』


 奈津季は暗い声でただ只管謝るだけであった。麻里奈はに陥る事を想定してしまい、頭の中はもういっぱいいっぱいで、どう説得すればいいのか分からなくなっていた。


「……全く、やっぱアンタはあたしが居ないとダメダメよね」

『……ごめん』

「……言ったでしょ? あたしも、アンタが居ないと、ダメになっちゃうってぇ」

『……うん』

「だからぁ……!! 帰ってきてよ……!! 奈津季!! あたしはっ……!!」


 今までの事を謝りたい。もう一度やり直したい。全てを捧げてでも救いたい。だから――。


 懸命に有りっ丈の想いを伝えようとしても、涙が邪魔をし、これ以上言葉が出なかった。しゃくり上げて泣く事しか出来ない。


『……お姉ちゃん』


 大好きだよ――。震えた声で奈津季は確かに告げた。此方も言わなければ後悔する。きっと後悔する。絶対後悔する。言わなければならない。麻里奈は大きく息を吸い、呼吸を整えた。


「……あたしも大好きだよ、奈津季」


 そしてこれが麻里奈と奈津季のの会話となるのであった――。

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