20 江郷逢衣は立ち止まる。

 六月の停滞前線が雲散し、七月へと突入する。あれから一ヵ月経つが、麻里奈は何の変化も無かった。一方で逢衣の、否、逢衣の日常は変わりつつあった。


「江郷、お前勉強ばっかで疲れてるんじゃないのか?」

「私が疲れる事はありません」

「そうかぁ~? 無理はしない方がいいぞ~? ほら、先生が肩を揉んでやるから」

「……? 有難うございます」


 恰好の獲物を見つけてしまった河原教諭は露骨に逢衣に対して頻繁に接触するようになった。逢衣は嫌がる素振りも見せずに無表情で対応しているが、傍から見る分には気分の良いものではなく、嫌悪感しか湧かなかった。


「おい待て江郷! お前何だその髪は!」

「……髪? 髪がどうかしましたか?」

「ちょっと長過ぎやしないんじゃないのか! ちょっと来い! 先生がみっちり指導してやる!」

「分かりました」


 昼休み。体育の授業から終わり教室へ帰ろうとしている最中に逢衣が河原に指導という名の呼び出しを食らってしまっていた。度が過ぎている横行に対して我慢の限界に達していた沙保里達は昼食の最中に作戦会議の様な何かを始める事となった。


「河原の奴、調子に乗り過ぎっしょ! 何で江郷さんは何も言わないんだよ!」

「ウチらで何かやれる事無いかな~?」

「私達も河原に目を付けられてるし、下手に手を出したら私達に向かってくるかもしれないし……」


 そういう所だよ。そういう所がアンタらの限界なんだよ。どんだけ友情に篤い感じを装ったとしても結局自分の身が危なかったら及び腰になって日和見で居る、所詮は口先だけの偽善者でしかないんだよ。


 三人寄れば文殊の知恵と言うことわざがあるが、今の沙保里達の会話を聞いててそんなのは真っ赤な嘘だと麻里奈は確信した。

 本当に助けたい気持ちなんてこれっぽちも無いからいまだに菓子を持ち込むし、アルバイトも退職しないし、髪も黒に戻してないんだろう。とどのつまり、対岸の火事とか思っていないのである。


「麻里奈は何かいいアイデア無い?」


 役立たず共がいつもの様に話を振ってくる。案を出した所で結局は実行に移さなければ何の意味も為さない。どんな事を言ったって無駄だとはなから分かっていたので、麻里奈は適当に話を合わせる事にした。


「う~ん……。ゴメン、全然思いつかないや」

「何とかしてよ麻里奈。アンタはっしょ?」


 ノーマーク? 河原に因縁付けられてないから何とか出来るだろって? このクソ居眠り女、自分の無能さ具合を棚に上げて言う事がソレなら無能にも程があるだろ。

 莉奈が悪気無く言ったのは重々承知の上だった。けれど、彼女の怒りの火種を起こすのには十分な失言だった。


「今のウチらじゃどうしようもないから、逢衣ちゃんが改めてどうするか考えてみない~?」

「……そうね、今は様子見するしかないわよね」


 助けを求めてきたら? 現状の問題から目を逸らして、本当に助けを求めてきたら本当に助けるつもりなんだろうな? やっぱ無理ですじゃ済まないって事を分かってるんだろうな? この馬鹿食い女と色ボケ馬鹿女は。


 三人の何の意味も無い話し合いで、忘れようとした過去がまた蘇ってしまった。麻里奈にとってそれは古傷の様なもので、それがうずくと常に完璧な立ち振る舞いを築き上げている為の思考回路が途絶えてしまう程に心が乱れてしまう。


「……何ぼーっとしてるのよ麻里奈。江郷さんの事心配じゃないの? 


 沙保里の何気無い発言に何かが。フル回転で稼働していた自制心が消え去り、麻里奈は込み上げてくる笑い声を抑えるだけで精一杯になっていた。俯いて震えている彼女を三人は怪訝そうに覗き込んでいた。


「ま、麻里奈ちゃん?」


 真剣に話を? 何でこんな馬鹿馬鹿しい話を真剣に聞かなくちゃならないの? アンタらはと同じだよ。一人だと弱っちいクセに群れを成して強くなったつもりでいる。長い物に巻かれるだけで相手側の心も気持ちも分からない様な生きる価値の無いゴミだ。汚染を撒き散らかすゴミは処理しなきゃだね、の様に。さっさと処理しておけば今頃は――!


「はははははははは!! あはっ! あははっ!! あははははは!!!」

「ま、麻里奈!?」

「どうしたっしょ!?」


 堰が切れた様に麻里奈は大きな笑い声を上げた。それは教室に居るクラスメイト全員の耳に入ってしまう程であり、忽ち視線を掻っ攫っていった。大笑いを済ませると、途端に彼女は真顔になって前を見据える。そして呆気に取られている沙保里達へと反撃を開始した。


「下らない! 下らない下らない下らない! アンタらの下らない御託なんて沢山なんだよ! どうせ他人事としか思っていないクセに心配だって? 笑わせんな!」

「たっ……、他人事じゃないわよ――!」


 即答せずに言葉を詰まらせたな? それは図星だからなんでしょ? ならせめてどうブザマに足掻くか見せてみてよ。


「じゃあ注意されても菓子を持って来てるのは何で? バイトを辞めないのは何で? 髪の色を元に戻さないのは何で?」

「それは――!」


「本当に助けようって気持ちが無いからでしょ? 無駄なんだよ! 無ー駄! 無駄なアンタらが無駄な事したって無駄に終わるんだよ! 馬鹿馬鹿しい! あたしにどうにかして貰おうって思ってるだけでも烏滸おこがましいんだよ!」

「ま、麻里奈ちゃん……」


 思いの丈をぶつけ終わった時、教室内は静まり帰っていた。一年間上手くやり過ごそうと思っていた筈なのに、台無しになった。今更取り繕うとしたって後の祭りだろう。


「……? どうか、されましたか?」


 何も知らない逢衣が河原の呼び出しから戻ってきて呑気に訊ねて来た。この騒動の元凶だと考えると余計に腹が立ってしまい、睨みつけながらわざと彼女の細い身体をぶつけながら教室から出て行ってしまった。事情を知らない逢衣は直ぐに麻里奈を追い掛け始めた。


「野上さん、どうかしたのですか」

「ついてこないで」

「野上さん、喧嘩でもしたのですか」

「話し掛けないで」

「……野上さん。もし何かお困りのようでしたら私も手伝います――」

「お願いだからあたしの目の前から消えてよっ!!!」


 歯車がどんどんと確実に狂っていく。早舩織香、布江黒子、安藤紗仁と言う手駒を失ったのも、城戸隆司が登校してきたのも、武田沙保里、茨木莉奈、飯田美也子の発言に我慢出来なくなったのも、忘れておきたい過去を思い出してしまった。もうあたしに何も残っちゃいない。全部この江郷逢衣がこの学校に来てからだ。


「全部アンタの所為なんだよ!!」


 でも本当は分かってる。この子は何も悪くない。全部あたしが自分で蒔いた種なんだ。この子が責められる様な事は一切してないし、あたしが責める資格なんて無い。なのにあたしは今、感情を抑えられる自信が無い。八つ当たりしか出来ない。


「……これ以上、あたしを困らせないでよ」

「……野上さん」


 一筋の涙が麻里奈の頬を伝っていた。彼女自身泣いていたのも自覚していた。だからせめてもの虚勢として笑って見せた。

 涙を隠す様に麻里奈はそのまま背を向けて去って行ってしまう。逢衣は其処から一歩も動かず、去り行く彼女の背中が見えなくなるまでまでじっと見ているだけであった。

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