19 江郷逢衣は濡れる。

 逢衣は女子部室のシャワールームに連れていかれ、其処で汚れた身体を洗う事となる。麻里奈は難攻不落の強敵だと思っていた彼女の言動全てが理解出来ずに混乱していて、何故か敵に塩を送る様な真似をしていた。


「……江郷さーん。タオルと着替え置いておくよ?」

「有難うございます」


 シャワーの音から微かに逢衣の返事が聞こえてくる。タオルと体操着を入口付近に置いて、その隙に麻里奈は忍び足で彼女のスカートの中に入ってみたスマホを手に取り、中を見てみる事にした。


 ダメ元で手に取ってみたけどロックは掛かっていない……。何なの? 手の内見せない素振りしておいてこんなにも隙だらけなのは。意味分かんないんだけど。……サケニギリマンの待ち受け? 意外とガキみたいな趣味してるんだね。ちょっとラインのトーク履歴でも――

「野上さん」

「な……何かな!?」


 声を掛けられるとは思わず、急いで逢衣のスマホを戻して麻里奈は上擦った返事を返した。


「野上さんは凄い人です」

「凄い? ……あたしが?」


 急に何を言ってるんだコイツは、と麻里奈はいぶかしんでいた。それは嫌味のつもりなのか、とひがんでもいた。


「クラスの皆や先生にも頼られていますし、私が困っていた時にも野上さんは助けてくれました。……私も野上さんみたいになりたいです」

「……あたしみたいに、ねぇ?」


 それは昔の自分の事を差しているのか、それとも今の自分の事を差しているのか。忘れようとしていた過去の記憶が思わず蘇ってしまい、麻里奈は言葉を詰まらせていた。


「——後悔するよ、きっと」

「後悔?」

「何でもない」


 聞かれない程度でぼやいていた筈なのに、相槌を打たれてしまい慌てて誤魔化した。コイツと居ると調子が狂う。弱みを出しそうになってしまい、彼女は自身の頬を平手打ちして自戒した。


 そう、あの時後悔したからあたしは此処まで来れた。その事を今更後悔したって遅い。あたしは一人で生きていくって決めたんだ。結局最終的に頼れるのは自分しか居ないんだしね——

「……野上さん?」


 物思いに耽っていると後ろから呼び声が聞こえてくる。振り返ると、綺麗に汚れが落ちた代わりにずぶ濡れになっていた逢衣の姿があった。白く極め細やかな肌は同性でありながらも見惚れてしまう程の美しさであったが、肉付きは栄養失調を疑う程に貧相であった。


「……やっぱ細いよね江郷さん。ご飯ちゃんと食べてんの?」

「食事は必要ありません」

「意味分かんないよ。……タオルそこにあるでしょ、早く拭かないと風邪引くよ」

「風邪も引きません」


 だから意味分かんないって言ってんだよ。頓珍漢とんちんかんな返答をする逢衣に思わず苛立ち、そう口走りそうになった。

 コイツと会話していると疲れる。麻里奈は平常心を保つべくポケットのガムを噛み始めた。背を向けて視界から彼女を消して只管ひたすら噛み続ける。


「……タオルと着替え、有難うございます」

「別にいいよそんなの——」


 丁度ガムの味が無くなったので彼女が声のする方へ振り返ると、まだ滴る程に濡れていた身体でインナーを着終えており、丁度体操着を着用しようとしていた。これには驚きを通り越して寧ろ怒りが芽生えてきた。


「……あぁもう!! 幼児かアンタは!?」


 同じ女としての行為だとは全く思えない。あまりにも杜撰過ぎるので麻里奈は見ていられなくなり、何故か着替えの介護をする事となった。


「身体と髪はちゃんと拭く! でないと服が濡れるし全身雑菌まみれになるでしょうが!?」


 着てしまった体操着を再び脱がせるが時既に遅し。折角綺麗に用意していた筈の着替えは随分と濡れてしまった。近くにあった扇風機で気休め程度に乾かしつつ麻里奈はタオルを手に取り、逢衣の髪や身体を拭いていく。


「アンタ今まで何考えて生きてたの?」

「……申し訳ありません」

「申し訳ありませんじゃないって! もう! ハイ次!」


 水分を吸収し終えたタオルを洗濯機の中へ放り込むと次は洗面所の方へと連れていき、麻里奈はドライヤーの電源を入れて逢衣の髪を乾かしていく。


「野上さん。拭き終えたのですからそこまでしなくてもいいのでは――」

「ドライヤー掛けないとかマジでありえないから! あたしだってお風呂上がって真っ先に髪の毛乾かしてるんだよ!?」


 寧ろ今までドライヤーしてこないでこの綺麗なキューティクルを維持出来ているのは化け物の類だろう。何でこんなに適当なのにこの容姿を保てるのかが本当に理解出来ずにいた。


「あーあー全然乾いてない……。取り敢えず昼休みも終わりそうだしこれで何とかしてよね」


 生乾きに近い体操着を逢衣目掛けてぶっきらぼうに投げつけた。まだ昼の時間なのにどっと疲れた気がした。何でコイツにこんな事をしなくてはならないんだと麻里奈は大きく溜息を吐いた。


「……やはり野上さんは頼りになります」

「こんなので賞賛されたってちっとも嬉しくないんだけど」


 本当に何なんだろうコイツは。益々訳が分からなくなり、情報収集どころじゃなくなっていた。



 麻里奈と逢衣がシャワールームを後にして校舎に戻ろうとしていると、心配していたのか沙保里達が渡り廊下の所まで来ていた。


「江郷さん大丈夫?」

「問題ありません」

「何で体操着濡れてるの~?」

「……私のミスです」

「どういうミスっしょ」


 説明するのも面倒だ。敢えて麻里奈は四人の会話に入らないで静観する事を決めた。校舎の玄関をくぐり、廊下を歩いている頃にはいつもの他愛無い会話が繰り広げられていた。


「あ、そういや麻里奈聞いてよ。美也子ったら江郷さんの頭に落ちたお弁当のおかずを食べようとしてたのよ? 信じられないでしょ?」


 何でこんな時に限ってあたしに話を振るんだよ。ただでさえ江郷逢衣コイツのお守でヘトヘトになってるってのに。


「――えぇ? 美也子マジなの? 流石にそれはどうかと思うよ?」

「だって~、美味しそうだったんだもん」

「いつもの重箱平らげてたっしょ。どんだけ食えば気が済むのよ」


 それでも麻里奈はまだ平然を装えた。さっきまでの逢衣との会話に比べれば支離滅裂な内容は返ってこないからだ。寧ろ此れが普通の会話なのだと再確認出来て安堵すら覚える始末であった。

 午後の授業は話半分位に聞いて、さっさと家に帰って寝るとしよう。麻里奈は適当に話を合わせながら一緒に廊下に歩いていると、とある人影が視界に入って来てしまい、思わず眉をひそめた。


「げ、河原カッパっしょ」

「噂をすれば何とやらね」


 カッパこと河原教諭の評判は非常に悪い。露骨に男子と女子とで態度が違うし、学年主任という肩書を使って色々と難癖を付けてくる上にセクハラ紛いの事もするしで蛇蝎だかつの如く生徒から嫌われている。


「――何だお前、何で制服を着ていないんだ?」


 なるべく目を合わせない様に素通りしようと思っていたが、体操着姿の逢衣が目をつけられてしまった。

 本当に何でこんな時に限って河原教諭クソカッパに引っ掛かってしまうんだよ、と麻里奈のはらわたは煮え繰り返っていた。


「制服が汚れたので着替えました」

「……ふぅん? そうか、汚れたのか。……それは本当か?」


 麻里奈は、否、恐らく全員は見逃さなかった。河原は逢衣の僅かに透けている胸元へ目線を落としていた事を。そして僅かに口角を吊り上げていた事を。

 江郷逢衣は間違いなくこのエロ親父の標的にされた。麻里奈はそう邪推した。


「本当です~。逢衣ちゃんの頭にお弁当が落ちてきたんです~」

「ちゃんと葛木先生にも事情を伝えてますっしょ」

「……本当かどうか知りたいなら葛木先生に聞いたらどうですか?」


 他の三人も同じ考えらしく、透かさず逢衣の前に立ち塞がって彼女の代わりに弁解した。獲物を前に舌舐めずりをしていた河原は邪魔をされたからか明らかに面白くなさそうな顔をしていた。


「……飯田美也子。菓子の持ち込みは禁止だぞ」

「はわっ!?」

「茨木莉奈。アルバイトは禁止だぞ」

「うっ!?」

「武田沙保里。髪染めは禁止だぞ」

「なっ!?」

「全員校則違反だな。改善しなければどうなるか……分かってるよな?」


 下衆た笑みを浮かべながら河原は去っていった。全員、と言っていたが模範生の麻里奈だけが何のお咎め無しで済んだ。

 河原が気に食わないのは当然だとして、三人がお粗末すぎて仲良く弱味を握られている事に心底呆れていた。


「う~いいじゃんお菓子くらい別に持って来たってぇ~」

「ちゃんと先生に許可貰ってバイトやってんのにそれは無いっしょ!」

「マジムカつくわ河原教諭クソカッパ! 早舩達が髪染めてた時はビビッて何も言わなかったクセに!」


 三人はそれぞれ愚痴を零しながら教室に入っていく。またしても何が起きたのか分かってなさそうな逢衣もそれに追従する形で教室に入る。


先が思いやられるよ馬鹿共。河原に目を付けられてしまった彼女達を、麻里奈は内心小馬鹿にしていたのであった。

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