第5話 何も望まないです
自分の住むアパートはなんてことはない、ごく普通の二階建てアパートの二階だ。一応、清掃員という仕事上、自分の家だって綺麗にしているつもりだ。
(でもまさか、悪魔を連れ帰ることになるとは思わなかったなぁ)
すっかりふてくされたバエルは唇を尖らせながらもテーブル前のイスにちょこんと座り、室内を見回している。
「……何か飲むかい?」
悪魔でも来訪者は来訪者だから機嫌を損ねないように聞いてみた。悪魔に飲める物があるのかわからなかったが。バエルは「水でいい」と普通に答えた。
(こうして会話をしていると、ただ見た目が変わった子供みたいだ。最初の威勢は……格好つけていただけなのかな。そう思うと実はおちゃめな悪魔だったりして)
バエルに水の入ったコップを手渡し、自分も水を飲んでから少し離れたイスに座った。
「……半年間だ」
突然、バエルが言った。
「半年? 何がだい」
「アンタの命を奪うまでの期間」
あどけない様子なのに、言うことはとても物騒で、どう解釈していいのやら。とりあえずそれがなぜなのかを聞いてみた。
バエルは不本意そうにフンと鼻を鳴らす。
「魔力なしのアンタ……つーか、魔力のない人間は取り込むのに時間がかかる。その代わりゆっくりジワジワと腹に入れた食い物を消化するみてぇに取り込んでやるからな」
ではもし魔力がある人間なら。それをたずねるとバエルは「即座に喰える」とほくそ笑んだ。
「魔力はすぐ身体に吸収できる。なぜならオレの身体も魔力でできてるからだ」
しかし“魔力なし”の自分はすぐに取り込むこと――喰うことができない。だからゆっくりジワジワ、半年かかるというわけだ。
「……僕は半年の命、そういうことかい?」
バエルは躊躇なく「そうだ」とうなずく。きっと彼の言うことに嘘はない、だって悪魔だ、力のある存在だ……駄々っ子だけど。
急に決まった自分が生きられる期間、この現実をどう受け止めるべきか。普通の人ならこの悪魔に懇願して「お願いだから助けて」と言うのかもしれない。
(でも、僕は――)
それでもいいか、と……自分でも不思議と妙に納得できている。目を閉じて「そっか」とだけ、つぶやいておく。口元が自然と笑っていると、バエルは「は?」と拍子抜けしたようだ。
「な、何笑ってんだよ? アンタ、半年の余命宣告されてんのに、怖くねぇの?」
バエルの方が慌てている。さっきから自分とバエルの反応が真反対な気もするが、それすらもおもしろいなぁと思えるから不思議だ。
「ふふ、そうだよね。普通なら、みんなもっと長生きしたいって思うもんだよね。でも僕はいいんだ、人間だし、いつかはそうなるってわかっているつもりだよ。それが半年と決まっただけのこと。僕には失うものは何もない。だから学校の若い誰かが死ぬなんて結果にならなくて良かったと思う」
「……マジで言ってんのかよ? どんだけお人好し?」
「マジだよ?」
自信満々に言い切るとバエルは何も言えなくなったのか、ため息をついた。
「ところでバエルくんはそれまでの間、どうするつもりだい? ずっとこのままくっついているわけじゃあないでしょ」
「まぁ、な……別に今すぐ、どうこうしようとは思ってねぇよ」
「ふふ、じゃあ残りの半年間はとりあえずのんびりできそうだね」
と言っても特別に何かする予定もない。きっと毎日同じように、これからも過ぎていくのだと思う、期限付きで。
「バエルくんは何か食べたりはするのかい。お腹空いていたら何か作ってあげるよ」
バエルは再びため息をつき「アンタって絶対変わってる……」と全身全霊で呆れているようだった。
翌日、いつものように“ただの清掃員”をしていた。モップで生徒達が頑張った後の魔法の跡を拭き取り、また綺麗な床に戻していく。その繰り返しだ。
バエルは自分に“取り憑いて”はいるが、常にずっとくっついているわけでもない。学校では「魔力の高いヤツには気配がバレる」らしく、姿を現さなかった。
(……今日一日が終わったら、半年はもう切っちゃってるってことか)
半年、長いようで短いのか、よくわからない。これまでもそうだったように気づけばもう明日で終わり、なんてことになっているのかもしれない。
教室の床を磨きながら考えてみる。
(僕は、何かやり残したことってあるのかな)
三十二年、静かに過ごしてきた。目立つこともなく、恋人を作ることもなく。自分はずっと生まれた時から“魔力なし”だった。この世界では異質と言われている。みんなそれぞれ少なくても魔力は存在するからだ。
魔力なしの自分は進学も希望の仕事を目指すこともできなかった。だからこうして偶然に気に入った仕事をこなせるだけ、幸せだ。これ以上は何も望まない。
「な、なぁ、アンタ……」
……何も、望まないんだ。
「お、おい、なぁってばっ!」
「……へ?」
びっくりしてモップの柄を手放したら、モップがカランと床に倒れた。誰もいなかったはずの空間に、ふと聞こえた誰かの声。
振り返ればそこには黒い制服に身を包む容姿の整った、自分より少し背の高い少年がいた。
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