第4話 西バージニア
『種をあやす』
これは九州で現在も営農している、著名篤農家の名言である。この篤農家は古来から受け継がれてきた、固定種の野菜の種子を育成し保存していた。固定種とは在来種とも言い、育てた野菜から種を取り、同じような野菜が作れる品種をいう。現在は雑種強勢の種子が幅を利かせており、固定種の野菜生産は減少傾向にある。
『これは俺の大好きな言葉なんだ。知り合いの農家が、本まで出したんだよ』
この土地で美紀も、固定種の野菜栽培を行っている。さらに無農薬・無化学肥料を実践し、経営を安定させている稀有な農家である。
彼の種に対する接し方は、手早いが優しい。まるで子供をあやすように、丁寧な作業を行う。それは今も昔も変わらない。
『もっと適当にやっても同じでしょう? その方が早く終わるのに』
初めて種取りの作業を見た朋子に言われた時も、彼はニカリと笑って答えた。
『こうする方が、種が喜んでいるように思えるんだ』
「本当に気障な事を平気で口にするんですよ、この人は」
種取り作業を行いながらの雑談。老婦人の溜息に、研修生たちの爆笑が重なる。彼らの言葉は小麦の精神に、ゆっくりと染みるように入って来た。
「コムギサンハ、ナニカ得意ナコトハアリマスカ?」
リュカが声を掛けて来た。彼女は肩を竦める。
「私は生粋の引き籠りです。皆さんにお目に掛けるような物は何も……」
「この娘はねぇ、音楽が得意なのよ」
「ちょ、朋子さん!」
ザワザワと盛り上がる雑談。その内、十二時の昼休憩となった。ウーバーイーツの出前と、出来合いのスーパーの総菜で生きて来た小麦。朝食もそうだったが桑原家では、肉と魚以外はほぼ自給している。米にしても汁物やおかずにしても、ビックリするほど美味しい物だった。
食事の後、一時間ほど休憩時間となる。こんなに長期間、太陽の下に居たのは久しぶりだ。日陰で日光を避けてグッタリしていると、リュカがギターを持ってやって来た。小さな音で調弦をしていると、それを見た研修生たちが様々な楽器を持ち寄って来る。
「ワタシノ故郷ノ音楽ヲ、キイテクダサイ」
大男は微笑みながら、小麦に声を掛けた。それからヒョイとギターを構える。
スキップが出来そうな軽快なテンポに、物悲しいマイナーコードの旋律。それに合わせて周りの研修生たちも、手拍子を打ったり楽器を鳴らし始めた。
女性たちは両手を上げて、踊り始める。リュカは地面が震えるような低音で歌い始めた。寂しい様な悲しい様な歌声は、やがて何かを訴えるような力強さを加えて行く。
「……ロマの音楽」
ロマとは北インドに起源を持つ移動型の民族である。東欧、中近東、北アフリカ等に広がって生活している。彼らの生活に音楽は欠かせない。彼らの音楽や踊りは、ヨーロッパの音楽文化や、フラメンコダンスの原型となっている。
彼らはジプシーと混同されることが多いが、厳密には異なる民族であるとも言われていた。リュカが演奏するロマ音楽は、少しぐらいリズムがズレても、多用するグリッサンドの音階が狂っても構わない。歌う人、踊る人たちの表情が明るく輝き、生命力に溢れていた。
小麦が作っていたDTMの音楽とは、根元が異なる演奏である。彼女はここ数年、楽曲をいかに流行に乗せるか、タイムパフォーマンスを上げ再生回数を効率良く上げるかしか、考えていなかった。
それで楽しいのかだって?
彼女にとっては聖司が喜ぶ事が全てだった。彼の笑顔を得る為だけに、作曲へ全精力を注ぎ込んでいたのである。
「アナタモ、ドウデスカ?」
小麦が呆然としていると彼らの演奏は、いつの間にか終わっていた。大男はニコニコしながら、ギターを彼女の膝に置いた。
「あらあら、彼女はパソコンで音楽を作るって言ってたわよ。ギターなんて弾けるのかしら」
「……弾けます」
DTMを行う作曲者は、初めからコンピュータで曲を作る人間と、楽器演奏の素養がある人間に分けられる。どちらが優れているという訳ではないが、楽器を弾くことができる人間の方が、オリジナルティや編曲の才能を持ちやすい傾向がある。
小麦は幼い頃から、ピアノとギターの個人レッスンを受けていた。両親の贔屓目では無く、彼女には楽器演奏の才能があった。
ギターを構えた彼女は、聴衆を確認する。日本人よりは海外からの研修生の方が多い。日本語の歌よりは、英語のポピュラーソングの方が良いだろう。しばらく考えてから、西バージニアを歌った、カントリーウエスタンを選択した。
金属弦でツービートのベースラインを刻み、ナイロン弦でコードを奏で始める。
「あらあら」
朋子は目を丸くした。抑えた声量で歌い始めた小麦。しかしギターに歌を乗せ始めた途端、彼女の周りの空気がガラリと変わった。
簡易な英語であるから、研修生は内容が分かる。日本語でも歌い継がれている曲であるから、リフが流れるだけで全ての聴衆が口遊む事が出来た。しかし先ほどのように、楽器を持つ者や手拍子を打つ者はいなかった。
彼らの耳目は小麦の歌声に縛り付けれらた。彼女の吐息、目線の動き一つ一つから目が離せない。気がつけば最後のリフレインが終わり、歌声と弦の音が途切れた。
ウワァー!
気が付けば小麦は、興奮した研修生たちに囲まれ、揉みクシャにされる。
「……キュウ」
引き籠り期間が長く、人混み慣れしていない彼女は、人酔いで目を回した。
この演奏から小麦は桑原家の正式な一員として認識される。農作業や食事の手伝いなど、賑やかな日々が続いた。未だに人とのコミュニケーションは苦手であるが、必要十分な意思疎通は出来るようになった。
桑原家の生活にも馴染んで来たある日、小麦の携帯が震える。画面を見た後、ため息と共に着信拒否の操作を行った。
「誰から電話だったの?」
朋子の質問に、肩を竦めた彼女。
「聖司からです」
捨てられた直後には死ぬほど待ち侘びた彼からの連絡を、あっさり無視している自分に驚いた。恋愛に依存していた精神が、健全な労働と食事で回復したのかもしれない。彼女は肩を竦めると、中断していた農作業を再開した。
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