第2話 うどん粉



「あぁ、そう言えば、これを見てくれる?」

 派手な美女はスマホを小麦の前にかざした。

「!」

 画面に映る動画にはベッドの上で、聖司と絡み合う彼女の姿が映し出されている。いつの間に、こんな撮影をしたのだろう?

「ウチらに何か絡んできたら聖司の顔だけ消して、この動画をネットに放り出すから」

 それだけ言うと美女は踵を返し、玄関から離れて行く。聖司もヘラリと笑うと、捨て台詞を残して小麦の前から姿を消した。


「今まで俺みたいなイケメンと、付き合えて良かったじゃん。お前みたいな奴じゃ、一生味わえないような経験が出来たんだ。これまでの曲の著作権は、俺の時間の拘束料金な」



 全てを信じられなくなった彼女。


 引き籠っていて外部との接触が、ほとんど無い小麦。それでも動画の流出は彼女にとって、致命的なダメージになるだろう。法的に訴えた所で動画は陰に陽に、あらゆる手段を使ってネット世界を漂い続けるに違いない。

 ため息を付き、部屋に戻る彼女。両親を頼って外資系弁護士を使っても、本質的な問題解決にはならない。

 聖司がまた小麦の部屋に戻り、ショートブレッドの活動を行う事は、もう無いのだから。


 押し付けられた書類に署名を行い、封筒に入れる小麦。少し多めの金額の切手を貼り、ポストへ投函するために部屋を出た。


 「あれ?」


 気がつくと彼女は、夜の地方在来線に揺られていた。どうしてこの路線に乗ったのかも記憶が無い。手元に封筒が無いので、どこかで投函したのであろう。別にどこかに落としていても構わない。小麦は急激なショックで、自分の感情をどこかに置き忘れてしまっていた。


 一両編成の列車が、軋んだ音を立てながら停車する。放送で終点である分かり、フラフラと列車を降りる。すでに折り返しの電車は終電となり、帰る手段も無い。無人の駅構内で、しばらく呆然としていた。

 空腹も覚えず、寒さも感じない。しかし駅の照明は自動で切れ、居座る事も難しそうだ。仕方なく小麦は、外を歩き始めた。山深い町で街灯も少なく、ビジネスホテルなども見当たらない。


 当ても無く歩き続けると、ついに街灯も無くなる。呆然と立ち尽くす彼女の横を、古い軽トラックがガタピシと通り過ぎた。車を避けて道の端に寄った瞬間に、側溝に足を取られる。スニーカーは水に浸かり、転んだ身体の左側は泥だらけになった。

 これ以上は無いほどの絶望的な状況。彼女は口元に冷えた微笑を浮かべる。


「……このまま、死んでしまっても良いかも」



 その時、先ほど通り過ぎたはずの軽トラが、彼女の横に停まった。

「若い娘が夜中に、こんな所で何をしとるんじゃ?」

 帽子を被った痩せぎすな老人が、ニカリと笑いながら小麦に声を掛けた。しかし呆然としている彼女は彼の声が聞こえているのか、どうかも分からない無反応である。


 老人は車から降り、小麦の前に立つ。所々、泥で汚れているが服装は悪くない。恐らく都市部からここへ来たのだろう。

 しかし彼女は小さなポーチなども持たず、完全に着のみ着のままである。観光でこの辺りを散策する人々は少し大きめのリュックを背負い、水や携帯食なども持ち歩くのが常道だった。大抵は二~三名程度のグループで行動する。単独でこの時間に歩く者はいない。


(これは非常事態じゃな)


 老人は肩を竦め、軽トラの助手席ドアを開けた。

「何か訳有りそうじゃが、儂の家で休んで行かんか? 儂の名は桑原美紀くわはらよしのり。お前さんは、何と呼べばいい」

「……小麦」


 この老人との出会いにより、彼女の未来は大きく開かれるのであった。だがその事を小麦は知らない。



 考える事を放棄している彼女は勧められるまま、軽トラに乗り込み彼の家に招かれた。古くから続く農家の大きな建屋の中では、美紀の妻である老夫人が待っていた。

「あら貴方、こんなに若い娘さんをどこで拾ってきたの」

「あぁ、朋子ともこさん。こんな時間に夜道を一人で歩いておって、物騒だったから声を掛けたんじゃ」

 パタパタと小麦の服に着いた泥を叩き落とす朋子。されるがままの彼女を見て、眉根を寄せた。

「こんなに汚れて、足元が濡れているじゃない。寒かったでしょう?」

 そういうと、小麦は暖かい浴室に導かれた。



「着替えは此処に置いておくから。汚れた服は洗濯しておくけど、良かったら今晩は泊って行きなさいな」

 大きな脱衣場で朋子に声を掛けられる。湯船などは旅館並みに大きい。後で知る事になるが、桑原家は日本でも有数の篤農家であり、地域の有名人なのであった。泊まり込みで研修を受ける客も多く、急な来客にも楽々対応可能だったのである。


 入浴を終え用意されていた、彼女の身体には大きめのジャージを羽織る。すると朋子は彼女を自分の部屋へ案内した。

「スキンケアに何を使っているか分からないから、ここに有る物を適当に使って」

「……」

 小麦は安価な保湿剤の瓶を選ぶ。乳液を身体に塗り込むと、ドライヤーを使い始めた。


「あらあら。そんな簡単なケアで、そんなに綺麗な肌が維持できるのねぇ。若いって羨ましいわ」

 小麦の行動を見て、ため息を付く老婦人。自分の肌が綺麗なのは、部屋に閉じこもって日光を浴びる事が少ないから。外出しないので化粧もしない。それで余分なケアをしなくても済んでいるだけなのだ。

 それに聖司を失った今、綺麗な見た目など全く必要に感じない。ドライヤーを使っているのも習慣であり、乾かさなくても気にはならなかった。


 髪を乾かし終わった頃、部屋の扉がホトホトと叩かれる。朋子が扉を開けると、美紀がニカリと笑って立っていた。

「腹が減っていないか? 夜食が出来たぞ」


 大勢の人間が座れる食卓に、湯気の立つうどんの丼が置かれる。関西人が見たら裸足で逃げ出す、真っ黒で濃い味付けの出し汁に、刻み葱が大量に振りかけられた一品だった。

「夕食の残りの麺で悪いが、食べてくれ」

 機械的に箸を持ち上げ、丼に手を伸ばす小麦。正直、自分が空腹なのかも分からない。


 濃い鰹節の香り。ボソボソとした麺は讃岐うどんとは、対極の触感だった。しかし、しっかりとした本物の食べ物の味がする。呑み込んだ瞬間に、身体中に生命力が行き渡るようだ。

「……美味しい」

「あらあら、どうしたの?」

 うどんを噛み締めながら、透明な涙をポロポロと流し始める。老婦人に背中を摩られながら小麦は、うどんを啜り続けた。


「どうじゃ、家で取れたうどん粉こむぎで作ったから、美味いじゃろ」

 老人はニカリと笑うと、作物である小麦の生態について話し始めた。曰く、


 この辺りは降水量が少ない為、昔は麦が主食であった事。麦は秋口に種を蒔き、冬に芽を出し、寒さを耐え凌ぐ事。厳冬期に強く踏み付けられるが、それに負けず分げつや根張りを良くして行く事。そして春になれば、立派に花を咲かせ実をつける事。


「お前さんの名前が小麦なのも、何かの縁じゃろ。辛い事が有った様じゃが、植物の小麦のような生き方も有るんじゃないかの」



 彼女は、いつまでも丼を見つめ続けた。

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