紡ぎ手

 未だに腹部をさする不審な男性が、よろよろと椅子へ座る。驚いた私が、殴りつけたせいでもある。

 祖父母からずっと、『もし誰かが訪ねてきたら逃げなさい。それでもエレナを捕まえようとするのなら、遠慮なく戦いなさい』と教えられてきたからだ。

 斧は当たらなかったのに、なぜ私の拳が当たったのかは、謎だ。


 私達の一族は力が強く、扱う物の重さも変えられる。それに、自然からの恵みを十分に受け取れる。それは全て、精霊のお陰だ。

 そして十六歳になると約束の力、すなわち、精霊の姿が見え、会話できるようにもなる。

 けれど、私が見えるのは彼しかいない。周りには気配を感じるのに。


 そして、冬の精霊と自己紹介をしてきたこの男の名は、キオン。

 青年と言っていい面影。薄い布切れを身にまとっているが、汚れ一つない真っ白な生地は上等で特殊なものなのだろう。

 そして白銀の長髪と瞳のせいなのか、冷酷そうに見える。

 けれど、私を見つめる目はとても優しい。


「怒って、いるのかな?」

「怒るというか、家族以外の人と初めて会話するので、観察しています」

「観察……」


 ベッドに座る私へ、困惑したように眉を下げた彼がおずおずと話しかけてくる。だから、簡潔に答えた。

 それなのに、彼はさらに困り顔になった。


「何か問題でも?」

「怒っていないのであれば、話をしよう」

「特に話すことはないです」

「どうして?」

「十六になれば精霊の姿が見えて話ができるのは、教えられてきましたので」


 私の返事に、何かを飲み込むように言葉を詰まらせた彼が頭を振る。

 そしてまた、優しい眼差しを向けてきた。


「そのことについて、もう少しだけ詳しく話そう。エレナには知る権利がある」

「そういえば、私は名乗っていません。どうして名前を知っているのですか?」


 呼ばれるたびに違和感があった。でもよく考えれば、家族の誰かが話していたに違いない。それに気付けば、彼の口が動いた。


「僕はエレナが生まれた時からずっと、冬の間だけは見守ってきたからね」


 ふと、彼の表情が緩んだ。精霊だとしても、とても人間味にあふれた反応。だからこそ、人はこんな風に微笑むものなのを思い出し、少しだけ心が騒ついた。


「エレナにも僕の名を呼んでほしい。ずっと、願ってきたことなんだ」


 外はまだ雪もちらついていないのに、静まり返った。居心地が悪い。一人の時とは違う空気。彼の期待が混じっているのを感じる。


「……キオン」


 ためらいながらも、早くこの時間が終わってほしくて応える。

 その瞬間、キオンの顔が綻んだ。


「ありがとう」


 キオンの微笑みに目を奪われる。罪悪感が生まれたのがわかる。

 もっと心を込めて呼べばよかったと、そんな風に思えたから。

 でも私はキオンを知らない。だからどう接すればいいのか、わからないままだ。


「もっと呼んでほしいところだけれど、話を進めよう」


 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、キオンが空気を変えてくれた。それにほっとすれば、キオンの笑みは消えていた。


「エレナは紡ぎ手。精霊と人を紡ぐ者だ。とても素晴らしい存在だよ」


 言葉とは裏腹に、キオンは痛みに耐えるような顔をする。けれど、彼は話し続けた。


「そんな紡ぎ手を利用する輩が後を絶たなかった。君達のことがようやく夢物語のようになってきたのに……」


 キオンが胸元を握る。布のしわが一気に深くなる。だから、かなりの力を入れているのがわかった。


「そんな輩が消えることはなかった。それでも君達一族は諦めることなく、また人の世に戻る努力をしていたんだ。結果――」


 キオンが息を深く吸う。反対に私は呼吸を止めた。嫌な予感しかしない。


「エレナ、君が最後の紡ぎ手になってしまった」


 両親や祖父母は他界している。他の人も隠れ住んでいるはずだとは聞いていた。でも、やはり私には孤独しか残されていなかった。

 胸が苦しい。それは息を止めているからでもある。だから呼吸する。

 その時にはもう、私の心はいつも通り、動かなくなっていた。

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