うっかり敵に助けを求めてしまっていた件につきまして。




 

『―――だのか』


 真っ暗闇の中、微かに声がする。

 深淵に落ちていくような。

 それでいて、真夜中の空気のように透明度のある不思議な低音だった。


『死んだのか、黒い魔女よ』

「……っ?」


 黒い魔女とは、私のことだろうか。

 薄っすらと、瞼を開けば、目の前を黒い影が覆っていた。


『これほどまでに膨大な魔力は初めて見た。器が素晴らしいのだな』


 だ、誰……?


『それとも、中の魂が奇妙だからか』


 漆黒の、艶やかな長い髪が、私の眼前で揺れているような気もする。


『実に興味深いな』

「……だ……っ」


 訊ねたいのに、声が上手く出ない。


『脆いものだ。この程度のことで、音を上げることすら出来ぬとは』


 頬を撫でるように指先が当たる。氷のようにひんやりとしていて、ぞっとする。

 その瞬間、この場所に蔓延していた瘴気を思い出した。

 この声の主はまさか……。


「……こっ」

『話すな。寿命を縮めたくないのであれば』


 頬に触れていた指先で、息を確かめるために唇を押される。

 そして喉を掴み、そう思えば鎖骨に降りて、最終的に心臓の音を確かめるように、指先が胸元で止まった。


『黒い魔女よ、生きたいか』

「ぁ……っ」

『お前が望むのであれば』


 未だに霞む視界の中で、赤色に光る双眸が見える。


『そなたの膨大な魔力と引き換えに、命を助けてやろう』


 魔力と引き換えに……?

 本気で言っているの? もしそうなら、ぜひお願いしたい。

 私が魔法さえ使えなければ、きっと。ルスエルたちの敵にならずに済むかもしれない。

 とにかく生きていられればなんだっていい。


『どうする、黒い魔女よ』

「……ねが、ったす、けて」


 縋るように、必死で願う。

 私だって、この世界に来てから血反吐を吐く思いで頑張ってきたこともある。

 苦汁を飲んだことだってあるし、悔しい思いも、惨めな思いもたくさんしてきた。

 大して面白くも、楽なこともなかったけれど、ここで簡単に諦められるほど、浅い人生を送ってない。


「生き、たいの……!」


 ようやく明瞭な声が出て、辺りに響いた時。


『そうか』


 と、相手は頷いた後『わたしは寒さを好む』と彼は私の顎先にその冷たい指先を当てた。

 水が落ちるような冷ややかさに、「ぅっ」とうめく私を、赤い目は楽し気に見下ろしていた。


『世界がわたしにふさわしい季節になった頃、そなたを奪いに行こう』


 顔の表面に冷ややかな空気を感じて、私はびくりと眉を顰めた。

 瞬間、額に柔らかな何かが触れて、全身の痛みがみるみるうちに引いていく。


『この契約、忘れるなよ』


 心地のよい水の音と共に、吸い込む空気の鮮度が一気に変わったような気がする。

 そして、薄っすらと瞼を開いた時にはもう誰もそこにはいなかった。

 あれ……。

 私、今……と身体を起こす。潰れていた筈の足は、元に戻っていて、一瞬全てが夢だったのかと思う。

 治癒魔法なんて使えないはずのに、どうして……?


「先生っ!」

「……ユル?」

「ルーナさんっ!」


 遠くから駆けてくるユルとライリーの声にはっとする。

 地面に滴っていた筈の私の血も全て消えている。

 そして一瞬ぼんやりとしていたけれど、さっきまでここに誰かがいたことを思い出した。


「……待って、さっきの、声って」

「ルーナ先生っ」

「わっ、ユル様?」


 私の身体に飛ぶように抱き着いてきたユルに、後ろに倒れそうになる。


「っよかった、先生が無事でいてくれて……っ」


 泣きながら必死にしがみついて来るユル。そんな姿は初めて見たので、思わず笑いながら「ユル様、大丈夫ですよ」とその背中を擦ってあげた。


「言ったじゃないですか、先生、強いんですって」

「っだからって、だからって……」


 ユルは翠色の目からぼろぼろと涙を流す。しゃくりながら泣いているユルを頭を撫でながら、ライリーを見上げた。


「すみません、ライリー様。お手数をお掛けしました。向こうも大変でしたよね?」

「そんな……僕は平気です、それより公子様に言われて、皆をこの場所から退避させました。ルーナさんは本当に大丈夫だったのですか? 死にかけてるって……」

「ああ、なんか……平気みたいです」


 答えながら、自分の身体を改めて見直す。

 やっぱり、どこも怪我していない。


「黒龍が出たのかと思いましたが、何事もなくてよかったです」


 ライリーの言葉に、私はぎくりと肩を揺らした。


「先生……?」


 私の微細な反応に、腕の中にいたユルが不思議そうに顔を上げた。


「……まさか、本当に遭遇していたら殺されているところでしたよ」


 答えながら、内心は冷汗を掻いていた。

 姿かたちをはっきり見たわけではないから、確信を持って言えないけれど。

 あれは、もしかしたら……。


「しかし、さっきの揺れは、なんだったのでしょうね」

「……黒龍が移動したのだと思われます、この近くから気配が消えましたから」

「なるほど……そう言うことだったのですか」


 ライリーは頷きながら、魔塔主のピアスを差し出した。


「魔塔主様に連絡をしたのですが、もう戻るようにとのことでした。ルーナさんのことや、この鍾乳洞で起きた出来事を説明したら、黒龍の状況についてはおおむねわかったと」

「そうですか。それなら、もう私たちがここにいる理由はないですね」


 ぐっと足に力を入れて、ユルを肩を抱いたまま立ち上がる。

 さすがに私の腕じゃちょっと耐えられず、よろけそうになったけれど、そのまま持ち直すようにして腕に抱えた。


「わっ、ちょっ……!」

「帰りましょうか、ユル様」


 微笑むように言えば、彼は赤い鼻をすすりながら「お、おろしてくださいっ」と慌てていたが、「いいえ、おろしません」とそのまま笑顔で返した。


「頑張ったユル様の足を労わろうと思って、これはお礼です」

「すごくいやなお礼だ!」


 かっと顔を赤くしていたけれど、「まあまあ」とその身体を抱き締めてあげると猫のように暴れたので、さすがに腕が限界を迎えて下ろしてあげた。


「ユル様、私は強いと言いましたが、腕も肩も軟弱なので……もっとお手柔らかにお願いしますよ」

「っ知りません! かってに俺を、抱き上げた罰です!」


 ふんっと顔を背けて、先を歩いて行こうとするユルに笑ってしまう。

 なんだ、ルスエルたちみたいに、ちゃんと怒れるんじゃないの。


「る、ルーナさん、大丈夫ですか?」


 そうライリーが心配して声をかけてきたけれど、私は「平気です、あのぐらい怒ってくれるほうがちょうどいいですから」と笑顔を返した。


「はあ……」


 よくわからないとばかりに、眼鏡をかけ直すライリー。

 そんな彼に「さ、行きましょう」と言って、私はユルの後を追った。


『世界がわたしにふさわしい季節になった頃、そなたを奪いに行こう』


 あの言葉、どういう意味だろう……?


 不穏な予感がしつつも、あの邂逅が死へのカウントダウンを再び進めてしまったことに、この時の私は気づいていなかった。


 再教育二年目、私が私を封印するまで、もう三〇〇日を切っていた。






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