元最推し主人公が少々一癖ありそうな件につきまして。


 ◇



 飼い犬に手でも噛まれたような気分とはまさにこのことだろう。

 ひりひりとした唇に唖然としていると「痛みますか」と声を掛けられた。

 はっとして横を見ると彼は少し間を開けた後、今一度「痛むのですか」と私に訊ねた。


「ま、まあ……」


 そりゃ、あんな風に唇を噛まれてしまっては痛むに決まっている。

 というか、なんでよりにもよって口……ああ、いやソルフィナならあり得るか。

 そういうキャラだもの。小説では、軟派者で優男。何にも本気になれないサイコパス。

 女の扱いだって、きっと私が眠っている間にたくさん学んできただろうに。

 なのに、あんなにも私をいじめ倒したいのであれば、未だに私のことを舐めているのだろう。計画に沿って、そんな風に刷り込んだとはいえ、あんな風に反撃してくるだなんて……。


「先生は、何も思われないのですか」


 暗めの赤色の下、翠色の目がじっと見つめている。

 光の少ない冷めた眼差しに、私は「え?」と瞬きを繰り返した。


「そ、そりゃあ、何するんだって、憤っています……けど?」

「それだけですか」

「……申し訳ありません、ユル様が何をおっしゃりたいのか………」

「先生にとって、キスは大した価値ではないのですね」

「……は?」


 き、き……。


「これのどこがキス⁉ 歯でかみ千切られるかと思ったのに⁉」


 何ふざけたことを言っているんですか⁉ と言いかけた私に、彼は『何か間違ったことでもいいましたか?』とばかりに首を傾けた。


「違ったのですか?」

「っ、違います!」


 大きく否定をしながら立ち上がると、ユルもまたゆっくりと立ち上がって見下ろした。

 ルスエルやソルフィナのように顔の位置が高くなったなと、見上げていると「先生」と。


「さっきの言葉は本気ですか?」

「え?」

「自分がここからいなくなっても困らないって」

「ああ……」


 本気かどうかと聞かれれば本気だけど、わざわざここで訊ねてくるってことは……。

 ユルの中で、そんなに引っ掛かることだったのかな……?


「だって、これ以上ここで私を囲っていただく理由がそこまでないなと……」

「城で囲うような大義名分が必要ということですか?」

「いや、そうことでもないというか……」

「それならあるじゃないですか。あなたはあの黒龍を封印し、一時的でも帝国の脅威を抑え込んだ。それだけで、あなたが我々の保護下に入るのは至極当然のことだと思います」

「そ、そんな私は、別に何も……」


 というより、別に国のために動いたことは一ミリもないのだけど。すべて私利私欲のためで、そしてその延長線上で、私はあなたたちから逃げたいのですが。


「とにかく戻りましょう。ルスが……ルスエル様が心配しています」


 ユルはそう言って、部屋から出て行く。

 私は足首についた枷を眺めながら、溜息を吐いた。 

 私の少し斜め前を歩いているユルは、国王陛下の弟、グルーヴァ―公爵の息子であり、私を死に至らしめる主人公のひとりだ。

 赤紫色の髪に、翠色に光る切れ長の目。

 凹凸のはっきりした横顔が、ここからははっきりと見える。

 子どもの頃から感情の起伏が一番なかったように思うこの子は、原作でも表面上ではヒロインに対して、一歩引いて見えるんだけど実はその腹の奥底では激重感情を……。


「なんですか、そんなに人の顔をじろじろと見て」


 横目に見られて、「えっ」と私は肩を揺らした。


「も、申し訳ございません……」


 自分の読んでいた小説の主人公たちがこんな見た目をしていたんだと思うと、興味深くなるのは当たり前なんだけど、気を付けないと……。

 いくら私の推しだったとはいえ、今は一応、私も彼も〝生きている人間〟なんだから。

 手のひらを眺めると、唇を押さえたときについた、血が付着していた。

 その赤を見ながら、不思議に思うことがいくつもある。

 前世や現世という言葉で区別していたけど、この世界は本当に存在しているのか。


 もしもここが小説の世界なら、一種の仮想空間のようなものではないのだろうか。

 そしてその場合、憑依という言葉が一番しっくりくるのではないだろうか。

 正直、疑問はずっと尽きなかった。

 いくら考えても答えは見つからなかったので、私は考えることをいつしかやめた。


 とにかく運命の日を無事やり過ごしてから、その後のことは考えようと思ったのだ。

 そういえば、昔、一度、死んでみようと試みたこともある。

 だけど傷つけば普通に痛みは伴うし、身近な人が亡くなった時は、もう二度と戻ってこなかった。

 つまり今の私にとって、この世界は小説の中ではあるけれど、現実ということでもある。

 はあ、と溜息を吐けば、唇を怪我して憂鬱になっているとでも思ったのだろうか。

 ユルは「部屋に戻る前に王宮の医務室に行きましょう」と提案した。


「塗り薬ぐらい、あるでしょうから」

「そんな、悪いですよ! このくらい舐めておけば治りますから」

「余計悪化するだけです。さっさと行きましょう」


 方向を変える。どうやら本当に医務室に向かうらしい。


「あ、それよりお時間は大丈夫ですか? 私になんか構っている暇などないのでは……」

「気にする必要はありません」


 ユルの着ている黒い服がその白い肌とコントラストを描き、窓から漏れ出る光に時々照らされている。


「あなた以上に大事なことなんてありませんから」


 当然のように言い退けて、彼は足を止めた。


「だからあなたも、あなた自身を大事にしてください」


 陰りのある場所で立ち止まり、ユルは振り返る。

 どうにもその言葉を無視するわけにもいかなくて、私も立ち止まった。

 いつもなら笑い飛ばすところが、反応に遅れてしまって、すぐに言葉出てこなかった。


 だって彼がどうしてそんなことを言うのか、身に覚えがあるにはあったからだ。








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