悪魔のような主人公に噛みつかれてしまった件につきまして。
◇
「そ、ソルフィナ様……も、やめ……っ」
「もう、ギブアップなの? 本当、堪え性がないね」
「だっ、だめ……」
「ほら、俺はこの十一年でこんなに硬くなったんだよ。触る?」
「っそ、そんな……」
「恐れ多いですから!」と叫んだ瞬間、ソルフィナの部屋にノックの音が響いた。
舌打ちしたソルフィナが「誰も近づけるなって言ってたのに」と扉に向かって文句を吐き捨てる。
「ソルフィナ様、俺です」
扉の向こう側。この声は……。
「ユルー? 何の用」
「先生の声がしたので、匿っているのかと。ルスエル様が探していましたよ」
「……はあ、開けていいよ」
ソルフィナが少しつまらなそうな顔をして、私の足首から手を離した。
ああ、ようやく解放される。この地獄のような……。
「失礼しま……何してるんですか?」
「ああ、秘密の特訓だよ。ね、ルーナ?」
急に肩を組まれて、私は睨むようにソルフィナを見た。
「やだ、どうしたの? そんなに睨まないでくんない?」
「睨んでませんよ」
まさかここに来て、急に筋トレを強いられるとは思いもしなかった。
部屋に連れ込まれるやいなや「ルーナって、確か筋トレ大っ嫌いだったよね」とかなんとか言い出して、急に腹筋やら腕立てを強要されたのだ。
なんたるいじめ、ソルフィナは相変わらず私のことが嫌いなのだと再認識した。
汗が滲んだせいで、頬には髪の毛がはりついて、頬も不本意ながら真っ赤になった。
そんな私を見て、ソルフィナは満足気だし、ユルは訝し気に見つめている。
ソルフィナの服の裾からほんの少し肌が露出していて、これは見方によってはあらぬ誤解を生みだしそうだと思った。
大体、腹筋自慢までしてこようとした時はどうしようかと思った。たまたまユルが来てくれたからもいいものの、危うく私のぷにぷにお腹まで曝け出さねばならないところだった。
「……それにしたって、封印中ってやっぱり筋力は低下しないんだ。てっきりそういうのは退化するものかと思ってたけど」
この人、さてはそれを知るために実験的に私に筋トレさせたな?
「封印は凍結と一緒ですから、老化や退化はありません」
「ふうん。いいね、俺もやってみたい」
敷物を敷いているからとはいえ、床に普通に腰をつけているのは些かどうなのかと思う。
立てた膝に頬杖を突きながら、「ねえ、ルーナ」と彼は首を傾げた。
「俺を封印はできないの?」
「……え?」
「ちょっとやってみてほしいんだよね、なんていうか興味あるっていうか」
「何を馬鹿なことを言っているんですか」
目を丸くする私と、部屋の中央にいる私たちに近づいてくるユル。
「そんな怒るなよ。っていうか、ルーナを探しに来たんじゃないの?」
「ああ……」
ユルはちらりとこちらを見る。
その赤紫色の長い前髪から覗く翠色の瞳が、何の感情もなく私を見下ろしていた。
幼い頃から大人っぽい雰囲気の子だったけど、今はさらにそれに拍車がかかったような気がする。
「ど、どうしましたユル様」
「どうしてソルフィナ様の部屋にいるんですか、先生」
「どうして、と言われても……」
「そりゃ、逃げようとしてたから捕まえといたんだよ。ど? えらいでしょ?」
にっこりと笑顔を作ってソルフィナが言うので、「ご、誤解ですよ! 誰が逃げ……」とそこまで口を開いたところで、ユルが私の目の前にしゃがみ込んだ。
「先生」
「あ、は、はい……?」
「逃亡なんてしないのが身のためですよ」
冷めた口調で告げるので、「や、やだなぁ」と笑い飛ばした。
「逃亡なんてしてませんよ! ソルフィナ様がオーバーに言っているだけですって」
「ルスエル様が足枷程度で済ませましたけど、今後、先生も手足は大事でしょう?」
「…………」
ぶ、物騒なことを言われたような、気がするような。
「あんまり驚かさないであげてよユル。ルーナだって一応、女性なんだから」
「先生が女か男かなんて関係ありません。重要なのは、俺たちの目の前から去らないという確証です」
淡々と告げて、彼は私をまっすぐと見つめた。
「どうなんですか、先生」
目が覚めてから、よくわからないことが続いている。
「……あの、ひとつ聞いてもいい……?」
あと一年後に殺される予定だとして、ここからの日々は一体なんなのだろう。
「なんでしょう」
「私が、ここからいなくなっても……別に困らないですよね?」
ルスエルもソルフィナも、そしてユルも。
ちょっと親しかった先生が、死にかけましたって話だったら、まあ、心配して多少怒る気持ちはわかるけど、だからって監視下に置く必要なんてないじゃない。
「私がいない間、別の王室魔法師がいたでしょうし。ここにいる理由が、然程ないのですが……」
「……本気で言っているんですか?」
表情は一つも変わっていなかったけれど、ユルの口調は鋭く悲し気だった。
「ルーナは酷い女だよ」
すると、ソルフィナがゆっくりと立ち上がった。
「俺が見てきたどんな女よりもね」
そうして向けられた遣る瀬無い眼差しに、どうしてが罪悪感が湧く。
「あはは、ソルフィナ様。いくらなんでも、それこそ酷いですよ」
理由はわかってる。
きっとほんの少し間でも、幼少期の頃に、彼らを世話してしまったからだ。
だから愛着が湧いていて、傷ついた顔をされると、申し訳ない気持ちになっているだけ。
彼らも同じ理由で、私の『ルーナ・オルドリッジは害のない王室魔法師だった』という刷り込みが、ちょっと行き過ぎて、親しみを持ってしまっただけ。
わかっているのに、そんな風に傷ついた顔をされると胸が痛いな。
「……ウニ先生、ちょっと上向いてくれる?」
でも、冷静にならないと。将来は敵同士になる関係なのだから。
同情心は命取り。
一年で、彼らの目の届かない範囲に行かなくてはならない。
そして、小説で殺されるタイミングさえ逃れることが出来れば、きっと。
ルーナにも未来が切り開かれるはずなんだから。
この先、絶対に私の選択が間違ってなかったって、そう思えるはず。
「なんですか、ソル……」
と、そう思って上を向いた瞬間片手で頬を潰される。
この人、なんですぐに頬を潰すんだ。
眉をひそめて、ちょっと不満を訴えるような顔をすれば、ソルフィナは軽く鼻で笑った。
横からは、唇を突き出したアヒルような顔をした私をユルが眺めている。
と、次の瞬間。
金色の髪が、溶けるように私の額にかかった。
私の髪に金色がゆるやかに混ざり合い、気づけば視界一杯に、アメジストが光り輝いていた。
そして一瞬、思考が停止している隙に、突き出た唇に噛まれたような激痛が走った。
「……笑うな、うざいから」
緩やかな笑みが消え去り、嫌悪も入り交ざったようなそんな眼差しを、何故か眼前で受け止めている。
固まっている私から手を離して、ソルフィナは屈んでいた姿勢を元に戻した。
「あーあ、興ざめ。やっぱさ、封印しっぱなしでよかったんじゃないのー?」
踵を返した、白い背中。
揺れる金髪はその名の由来の通り、太陽のように輝かしいのに。
まるで悪魔のようにも見える。
「式でもあげる準備整えてから、解けばよかった」
この十一年。何をどうしたら、ああなってしまうんだろう。
「そしたら、永遠に俺から逃げられなかったのにね」
主人公のくせに、頭がおかしいんじゃないの! という言葉すら出ずに。
私は血が滲んだ唇を、手のひらで押さえるしかなかった。
「……っ!」
わ、私……いま、ソルフィナに唇を噛まれたんだけど……!
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