渾沌はただ嗤うⅢ

 閃光が二度煌めいた後、高将軍は痛みに顔を顰めた。


「ぐっ……城壁に穴が開いたか……」

「将軍!? 腕がっ!!」

「俺に構うな! さっさと兵を進めろ! 行けぇ!!」


 駆け寄ってきた配下を一喝し、高将軍は跪く。


「あの、策士の渡した呪符……ここまでの威力とは、な」


 自らの右腕に張り付けた呪符を見ると、そこには呪符の姿はなく、書かれていたであろう文字と模様が刺青のように刻まれていた。


「鏃とに幾重にも張り付けた呪符との相乗効果で、都市一つを堕とせるではないか……。まぁ、あれを射るのは一度の戦で二度が限界か。指どころか右半身の感覚を根こそぎ持っていかれるとは」


 高将軍は何とか立ち上がろうとするも、生まれたての小鹿のように体を震わせるだけでほとんど動くことができない。

 箸一つどころか、砂一粒、綿の一片すら今の彼には持つことができないだろう。


「しかし、恐ろしきはここの領主。あの渾身の一撃を防ぐとは、どうやらこの戦。思っていたよりも分が悪いと見た」

「だから言ったでしょう。油断してはなりませぬ、と」


 いつの間にか高将軍の後ろには戦場とは場違いな服装の文官が立っていた。

 扇で口元を隠してこそいるが、その顔はまだ幼さが残っている。高将軍からすれば子供同然だが、その地位は見た目に反して高い。


「なんだ。貴様の言う通りに動いた。何か問題でも?」

「いえいえ、後方に単騎による奇襲を行われるとは予想しておりませんでしたので、新しく作戦を、と思ったのです。しかし、その必要はなさそうですね。高将軍は、もう少し躊躇われるかと思っていたのですが」


 青年は多穴の開いた城壁を見ながら目を細める。


「貴様から貰った呪符のお陰だ、というのは癪だがな。こうでもしなければ敗走か餓死か。いずれにせよ、勝利の道は遠のいていたわけだ。貴様の指示に従えという命さえなければ、もっと上手くやれたものを」

「はははっ。これは耳が痛い。これでは、ここを攻略したとして、私の頸は城門に吊るされてしまいそうですな」

「……それがお望みなら今すぐにでも、してやろうか」


 その言葉に側に控えていた兵たちが青年へ武器を突きつける。


「高将軍の配下は冗談の訓練もされているのですね」

「冗談に見えるか?」


 高将軍の目は笑っていなかった。流石の青年も扇を閉じて、一度周りを見渡す。


「三合火局の陣。誠に見事なり、と言ってやりたいところだったが、それも失敗に終わりこの様だ。せっかくの兵も無策に前進させるのみ。貴様は一体、何がしたいのだ!?」

「そうですね。もうお話してしまってもよろしいでしょう」


 後ろに手を回して、青年は視線を城壁の穴へと戻す。川を渡り始める兵とそれを押し留めようとする騎士との間で戦いが起き始めようとしていた。


「三合火局の陣。あれは只の準備でして、まだ続きがございます」

「続き……だと!?」

「えぇ、我々は寅と午を用意し、相手国のダンジョンを利用して、戌を召喚しました。当然、我々の制御下にない戌は、真っ先に討伐されることが予想されます」

「それが何だ。お前の作戦は、敵の市中に魔物を出現させて、その間に城壁を突破するのではなかったのか?」


 青年の口の端が持ち上がる。


「まさかまさか。それならば、一緒に攻城兵器も導入して短期決戦にするべきでしょう。何時間もかけて結界をちまちま削るなど愚の骨頂です」

「貴様、それで兵を何人失ったと思っている」

「必要な犠牲なんですよ、将軍」


 ゆっくりと高将軍へ歩み寄る青年。本当に傷つけてはならないと周りの兵がその歩みに合わせて移動する。

 高将軍には前線から聞こえる魔法の炸裂音と悲鳴の音がどこか別世界のように感じていた。


「私は悪でなければいけない。そうであればあるほど、を呼び寄せやすくなる」

「何を、言っている……?」

「わかりませんか? 寅と午がいて、戌を私が確保していないことを疑問に思いませんでしたか?」


 腰を直角に曲げて、高将軍に顔を近づける。その瞳はどす黒く染まり、明らかに人ではなくなっていた。


「き、貴様、一体何をする気だ!?」

「せっかく呼び出された戌たちも、また殺されてしまった。ですが、その分、反動で更に召喚がしやすくなった。感謝いたしますよ、将軍。おかげで、は成功に終わりそうだ」


 目の前の男は危険だ。部下に命じて、その頸を叩き斬るように命じようとして、自身の体の違和感に気付いた。


「このような状況にならなければ、あなたも呪符を使っていただけなかったでしょうから。あちらの平和主義者にも感謝しないと」

「俺の体に、何を、した……!?」

「先ほどの呪符、表面には身体強化の効力を刻んでおきましたが、裏面には召喚用の術式を込めておきました。本来は伯爵と相討ちになってもらうのが将軍にとっても一番だったのですが――――簡単に言うとですね。戌を呼ぶための媒介、供物としてあなたには死んでもらいます」


 その言葉に部下たちは一斉に青年へと襲い掛かる。その体を確かに貫いた感触が手に伝わってきたが、次の瞬間、青年の服だけが残り、その肉体はいずこかに消え去っていた。


「失礼。それでは、存分に暴れてください」


 その言葉を皮切りにして、将軍の右腕から膨らみ、毛が伸び、異様な音を立て始めた。


「し、将軍!?」


 悲鳴を上げる間もなく、全身が変容していき、その形はもはや人ではなくなっていた。体に身に着けた鎧は弾け飛び、全身を漆黒の長い毛が覆いつくす。

 その体は一見華奢のようにも見えるが、毛の間から僅かに見える筋肉は太く、足は爪のない熊のようにも感じられた。

 顔は長く伸び、その表皮はぶよぶよでどこに目があり、口があるのかわからないほどだった。辛うじて、長く伸びた尻尾を咥える様な仕草で、口の位置が予想できるかどうかだろう。


「ひ、ひいいっ!?」


 あまりの異様な姿に兵の一人が悲鳴を上げると、その声に反応したのかくるりと尻尾を一振りする。

 瞬間、兵たちの上半身が吹き飛んだ。血飛沫を上げて、下半身が崩れ落ちると、その化け物は天を仰いで、不気味に嗤い始める。その声は決して大きくないのにも関わらず、伯爵邸にまで響き渡った。

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