渾沌はただ嗤うⅡ

 多くの帝国兵が後方で散り散りになるのを確認した伯爵はホッと一息ついた。


「やれやれ、何とかうまくいったか。できればお互いの被害が少ない内に撤退してくれるのが一番だが、あっちの指揮官はどう判断を下すか。これで引かぬとなれば、流石に俺も本気を出さなければいけないな」


 戦争とはなにも武力だけで決まるものではない。相手を戦えない状況にするというのも一つの作戦だ。相手が強い、兵が多いのであるならば、その力の源を断ってやればいいだけの話だ。

 どのような英雄とて体は人間。息ができなければ窒息するし、水がなければ脱水症状を起こす。飯が食えなければ餓死する。至極当たり前のことだ。


「引かぬのならば……死力を尽くして、この街を奪いに来るだろうな」


 逆に言えば、撤退という手段を取らない場合、食料は目の前の街の中にしか存在しない。敵を追い込みすぎるとその相手を一時とはいえ、しなければならなくなる。その時には伯爵が先頭に立って押し留める気であった。


「さて、後は相手が冷静に考える時間を――――」


 ――――与えてやるか。

 そう言い終わる前に伯爵は城壁に足をかけていた。

 その目に飛び込んで来たのは、敵の総指揮をとっているであろう人物の番える矢だ。その鏃は白く輝き、周囲には紅の炎が渦巻いていた。

 伯爵は帝国の魔法には疎かったが、それでも一目で危険だと判断できた。


「(あの一撃――――恐らくビクトリアの放つ魔法に匹敵する!)」


 周囲に避難する指示を出す時間すら惜しい。

 伯爵は身体強化を瞬時にかけて、城壁を蹴って空中へと躍り出た。重い鎧を身に着けているにもかかわらず、その姿が一瞬で掻き消える。


「ここで引くわけにはいかんのでな。道術に頼るのは不本意であるが――――消し飛べ!」


 遥か遠くにいたにもかかわらず、伯爵には高将軍の声が聞こえた気がした。

 遅れて弓全体が輝いたかと思うと音を置き去りにして矢が放たれる。矢は流星の如く尾を引いて、伯爵とその後ろにある結界と城壁を穿たんと迫る。

 矢が通った後は轟音が鳴り響き、あろうことか一部の草は燃え始める。衝撃波と共に鏃から放たれる熱波だけで発火したのだ。

 秒に至るかどうかという刹那、伯爵は動じることなく、矢の行方を目で追っていた。空中で方向転換する手段は限られており、無駄に魔力を使うわけにはいかない。

 だが、伯爵は最初から自分の所へと矢が飛んでくるとでも言わんばかりに、剣を振り下ろす体勢へと入っていた。


「――――ハア゛ッ!!」


 巨大な剣が最上段から一瞬で空間を切断する。

 鏃とその周囲の球体が真っ二つに割れると、そのまま両脇へと紅蓮とも白銀とも表現しがたい閃光が駆け抜けていく。

 結界へと当たると境界部分に光が滞留していき、半球の形状をドンドンと拡大する。慌てて城壁の人間が駆けだす中、五秒ほど経過した後、巨大な炎の球が地上に二つ出現した。

 熱波と突風が吹き荒れ、前線にいた帝国兵すらも吹き飛ばされたり、倒れ伏したりする有様だ。


「……アレが直撃していたら、確実に城壁ごと吹っ飛んでいたな。今の威力の三、いや四倍か?」


 地面へと着地した伯爵は滴り落ちた汗を手のひらで拭う。冷や汗なのか、熱波による汗なのかすらも自分では判断できないほどの焦りが生まれていた。

 矢の飛んでくる方向は、ほぼ賭けだった。城壁から離れる一瞬、自分を捉えた高将軍の表情は卑怯者でも、軍師でも、指揮官の顔でもなかった。

 紛れもなく、一人のつわものとしての表情。そうであるならば、防がれる可能性のある一騎討染みた矢を放つはずがない。

 ――――或いは、城壁ごと伯爵を亡き者にするほどの自信慢心があったか、それは本人しか知り得ない。


「あれほどの威力。迷宮産といえども、そうそう放てる代物ではないはず。ここは一度、態勢を立て直さなければ――――!?」


 顔を上げた伯爵は血の気が引いた。既にその目には何も映っていない。

 その代わりに耳へと音速を突き破った音が届いた。

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