渾沌はただ嗤うⅣ
遠くに出現した異形の怪物を見た兵士たちのどよめきは、城壁の内外に広がった。それは勇輝たちの場所でも感じ取ることができた。
「何だ……あいつは……!?」
フェイは思わず凝視してしまう。
シャドウウルフとは違う異様な魔物。尻尾の一振りで肉体を消し飛ばすほどの威力は到底、犬や狼などと呼ぶことはできない。魔物であったとしても、それはダンジョンの奥に潜むボスクラスの魔物だ。
そんな魔物が天を仰いで人のような笑い声をしていれば不気味に思ってみてしまうのは仕方のないことだろう。それはフェイだけでなく城壁で迎え撃つ冒険者や騎士、果ては攻め込むはずだった兵までもが振り返って、その姿から目を離せずにいた。
「アレを街の中に引き込むのはマズイ。かといって、ここから攻撃して近寄られるのはもっとマズイ。一度、中に戻ろう。最悪、伯爵邸の砦で迎え撃つことになる」
「あれほどの力を持つ魔物……砦の周りにある結界も危ないのでは?」
「否定はできないね。だけど、ここで相手をするよりははるかにましだ。行くぞフェイ、ユーキ君」
アンディが指示を出した直後、丘から眺めていた三人は一瞬、魔物の姿を見失った。
「――――早い!」
先程までいた場所の地面は抉れ、一足飛びに城壁の大穴へと駆け始めていた。
そこで初めて、帝国軍に恐怖の声が上がる。逃げ惑う間もなく、その内の一人が急に開かれた大きな口に頭を呑まれた。
前脚で痙攣する体を抑え、咀嚼し、右手、左手と四肢を食らい、最後は胴も平らげてしまう。恐慌状態に陥った兵が数名、槍で魔物を突き刺し始めた。穂先が黒い毛の中へと吸い込まれていくが、まるで鋼鉄でも纏っているかのように皮膚から先へと進むことができない。柄が撓み、或いは折れ、剣で斬りかかるも、毛一本すら切り裂けない。
そんな兵たちを魔物は血の滴る口で嗤う。気の毒そうにと嗤う。可哀そうにと嗤う。そして、その嗤った口で目の前の泣きじゃくる頭を呑みこんだ。
「バケモノめ……!」
フェイはその光景から顔を逸らしたくなった。
その横でユーキは目を見開いたまま、じっと魔物の姿を見守っていた。
「あれは……危険すぎる」
それがユーキの発した言葉だった。
ユーキの魔眼には、その魔物の色にどこか見覚えがある。
黒と赤の入り混じった奈落よりも深い深淵を覗き見る感覚。それを思い出した瞬間、全身に鳥肌が立つ。
同時に魔物と眼が合ったような気がした。
「おい、何やってる!? さっさと戻るぞ」
フェイに首根っこを引っ掴まれて、元来た道を戻り始める。
そんな中で再び、兵たちの悲鳴と狂乱の声が上がり始めるのだった。
一方、その頃。城壁に戻った伯爵は、急いで急造の城壁と防衛線の構築を指示していた。
「とんでもない攻撃の後は、とんでもねえ化け物。帝国軍め。なかなかやると思ったが、後者は暴走と来たもんだ。一度、破壊された結界の修復はかなり時間がかかる。何とか城壁だけでも塞がないとマズイ」
「伯爵! 何とか土魔法が使える冒険者を集めてきました!」
「よし! 俺はここでアイツを食い止める! ダメだったら、砦まで撤退しろ!」
「そんな無茶な! いくらあなたとは言え、あんな化け物を!?」
騎士たちが口々に叫ぶが、伯爵は背を向けたまま歩き出す。
「舐めんなよ? これでもこの国の最強の剣士の一人だ。あんな奴、殺せるかどうかはわからねえが、時間稼ぎ位なら、余裕でやってやる」
「……わかりました。援護は!?」
「いらん。城壁の修復と攻める気がある帝国兵を片っ端から攻撃。逃走する奴は放っといて構わん」
そのまま巨大な剣を肩で担ぎ上げながら伯爵は突き進む。流石の帝国兵も先ほどの炎の矢を叩き斬った伯爵を前に攻める勇気はなく。多くの者が道を開けて、逃げて行く。
少なくとも城壁に取り付こうとする帝国兵の心配はしなくて良くなった。伯爵は深く息を吸って、目の前の大きな犬型の魔物を睨む。
相手は決して油断できる相手ではない。そう自分に言い聞かせながら、左手も柄に添えて、いつでも叩き斬れるように八相に構える。その様子を怯えるでも、警戒するでもなく、ただ魔物は嗤って見つめていた。
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