第125話 あの男爵令嬢とその父親



 エマ・ハーパー男爵令嬢。

 ハーパー男爵と、酒場で働いていた平民の女との間に生まれた娘だ。


 母親譲りの黄色の髪はフワフワの巻き毛。

 垂れ目の大きな目が妖艶な、男好きのする顔をしている。

 ゆらゆらと揺れる程のたわわな胸は、男を誘惑するには十分過ぎる程の武器である。



 父親はいないものとして平民の生活をしていたが、母親が死んだ事で彼女はハーパー男爵に引き取られた。


 母親が死ぬ間際に、エマの父親はハーパー男爵だと言った事で、エマがハーパー男爵の元を尋ねたのである。


「 私は貴族だったのだわ 」

 エマは喜んだ。


 身分差別のある時代。

 貴族と平民とでは雲泥の差の人生を過ごす事になるのだから。



 男爵はエマの様相を見るなり自分の子供だと認め、彼女を引き取った。


 彼がエマを引き取ったのは、彼女の様相が優れていたからで。

 当時、エマの母親との逢瀬に身に覚えがあった事もそうだが、16歳にして既に男の好む身体だった事も彼が引き取る要因だった。



 まだ貴族としての礼法一つ教えていない彼女を、学園に通わせる事にした。

 平民の無作法なままである方が、貴族令息達を虜にすると思ったからだ。


 そう。

 ハーパーがエマを引き取った理由は、彼女を高位貴族に嫁がせる為で。

 それによって高位貴族にパイプを広げようと言う魂胆があったからだ。



 エマは16歳。

 裕福な平民は別だが、普通の平民はこの歳には既に働いている者が多い。

 エマも母親が働いていた酒場で働いていた。


 彼女は既に男に媚びる事を生業としていたのだった。



「 その妖艶な顔と豊満な肉体で、子爵や伯爵令息を捕まえて来い! 」

 ハーパーとしては、伯爵令息が釣れたのなら御の字だと思っていたのだが。


 有ろう事か……

 エマは我が国の王太子殿下と親しくなったのである。


 ハーパーは小躍りした。

 エマを引き取ったのは正解だったと。



 年度の途中で学園に入学して来たエマを、先生達はどうしたものかと悩みに悩んでいた。

 今の今まで平民だった彼女を、貴族の生徒達の中に入れる事には躊躇いがあった。


 なので、エマは特別教室で独りで学ぶ事になった。


 友達も誰もいない特別教室に、独り寂しく通うエマの姿があった。



 それを哀れに思ったのがルシオだった。

 彼は学園の3年生で生徒会長。


 ポツンと特別教室にいるエマの姿に胸を痛めた。


 ルシオは数ヵ月前に立体子の式典で、正式に王太子となったばかり。


「 彼女も僕の守るべき国民の一人だ。彼女の力になりたい 」


 そう。

 18歳の王太子ルシオは、王太子としての在り方を模索していたのだ。



 そうして……

 学園を案内したり、平民の暮らしを聞いたりとその後二人は急接近していった。


 王太子としての公務も始まり、平民の暮らしを知らなければならないと思ったルシオにとっては、エマの話は斬新だった。



 ルシオに一目惚れをしたエマもまた、自分に自信があり過ぎる女だった。


「 王子様が私を気に掛けてくれている 」から、「 王子様は私の事を好きなんだわ 」に変わるまでには、そう時間は掛からなかった。



 エマの度重なる不敬な所為に、やがてアメリア公爵令嬢からハンカチを落とされる事になり、エマはルシオへの接近を禁じられた。


 同い年のリリアベルの苦言はスルー出来たが、2学年上のアメリアの苦言は流石に怖かった。



 ハーパーとしては、に2人の恋を邪魔をされたと言う認識だ。



 そして……

 それを境に、ルシオがエマと距離を置き始めた事を聞いたハーパーは焦った。


「 王太子がエマを抱けば良いんだ。エマは側妃になれるかも知れない 」

 娘が側妃になれば、父親の自分は伯爵の爵位を授けられる事になる。


 エマへの寵愛次第では、もしかしたら侯爵になれるかも知れないと、彼は自分の未来を夢見た。



「 王太子はまだ女を知らない筈だ。お前が王太子の初めての女になるんだ! 」

 既成事実を作れと、エマは父親からを渡された。


 こうしてあの事件が起こったと言う。


 あの時……

 ルシオがエマの待つ特別室にアメリアを連れて行かなかったら……

 とんでもない事態になっていたかも知れなかったのだ。



 サウス公爵家は外商を生業としている家だ。

 ここを敵に回した事で、輸入品の商売をしているハーパー商会はあっと言う間に破産をした。


 ハーパー商会は一瞬にして世界から閉め出され、その存在は表社会から消えた。



 あの事件の事はルシオとアメリアだけの胸に収められた。


 学園内での事であり、彼女をあそこまでさせたのは自分にも非があるとして、ルシオがアメリアに口止めをしたのである。


 エマは自主退学をし、学園からも社交界からも消えた。


 勿論、この自主退学はアメリアの圧力だ。




 ***




「 まさか……王太子…… 」

 飲み屋にいたのは老婆だけではなかった。


 白髪の交じった髪と口髭の男が、台所の裏に身を隠しながらルシオを凝視していた。



 ここにいたのはハーパー男爵その人だった。


 破産して借金まみれになり、自宅まで売却をしなければならなくなった彼は、妻に離婚され息子達からも絶縁された。


 エマをハーパー家に引き取った時から、夫婦関係も息子達との関係も破綻していた事もあって、借金まみれのハーパーは家族からあっさりと見捨てられた。



 家も職も家族も失ったハーパーは、唯一の家族であるエマと一緒に、エマが母親と働いていた飲み屋に転がり込み、その後はこの店でひっそりと密輸品の売買をしながら生活をしていた。


 元から正規の輸入品だけでなく、密輸品の売買をしていた事もあって。



 その日は突然やって来た。


 キャアキャアと言う騒ぎに、何事かと窓から外を見たハーパーは、女達に囲まれた美丈夫を見て驚いた。


 女達よりも頭一つ高い男の顔はよく見えた。

 帽子を被り平民の姿をしていても、あの輝くような美貌の持ち主は紛れもなく



「 おいババア! あの背の高い男は王太子だ!奴をこの家に招き入れろ! 」

 ハーパーは瓶に入った飲み物に、密輸品の睡眠剤を混ぜてテーブルの上に置いた。


 この店では……

 裕福そうな男が来ると、睡眠剤を飲ませてある犯行に及んでいた。



 老婆は口八丁手八丁のババア。

 誰しも年寄り相手には油断をするもので。

 それを逆手に薬を盛ると言う悪事を働いていたとんでもないババアだった。


 ルシオやソアラの事を誉めたのも油断をさせる為で。



 王太子をこのまま帰す訳にはいかない。

 この千載一遇のチャンスを逃したくはない。


 こうして老婆に招かれ、ルシオとソアラがこの飲み屋に飛び込んで来たのである。



 ルシオは睡眠剤入りの飲み物を飲んだ。

 一緒にいたソアラと共に。




 ***




 多額の借金を返済しなければならないハーパーは、金を稼ぐ為には何でもやった。


 この飲み屋では日常的に美人局が行われていたと言う。

 学園を退学させられたエマは、父親の言うがままに美人局の女役をした。


 

 金持ちそうな男を見付けると睡眠剤で眠らせて、ベッドの中で目覚めると裸のエマが横にいて。

 エマと身体の関係を持った後に、父親のハーパーが男を脅迫すると言う。


 勿論、エマが身体の関係になるのは気に入った男だけで、気に入らない男とは事後を装って金品を要求していた。



 ルシオにも同じ手口を使ったが、ルシオに限っては店から連れ出す必要があった。


 外には騎士達がいるのだ。

 既に彼等はルシオを探していて、この飲み屋を調べられるのも時間の問題だった。



 薬が効き始めるには少しの時間がある。

 予め老婆には、ルシオを馬車に乗らせるように指示していて。

 馬車の中で眠ったルシオをハーパーは自分のアジトに運んだ。


 御者と二人掛りでルシオを部屋に運ぶと、買い物に出掛けて留守だったエマを御者に呼びに行かせた。


 この御者はハーパー家の下男だった男で。

 身よりの無い彼はハーパーを探し当てて、再びハーパーの下男をしていた。



「 あいつはこんな時にいないなんて…… 」

 ハーパーはイライラしながらチッと舌打ちをした。


 自分に運が回って来た。

 高鳴る胸の鼓動を抑えられない程に興奮していた。


 アジトの玄関の前で見張りをしながら、ハーパーはエマの到着を待った。



「 お父様! ルシオ様がいるって本当なの? 」

 馬車が到着するや否や、エマは馬車から転げ出て来た。


「 ああ。お前の出番だ! 王太子に抱かれて来い! 」

 ハーパーはエマに媚薬の入った小瓶を渡した。



「 これは何時もの媚薬よりも強烈だ! これを飲んだ王太子は欲情を抑えられなくなる筈だ 」

 かなり高かったが、この媚薬を手に入れていた自分を誉めたいとハーパーは高笑いをした。


「 おっと!王子様が目を覚ましたら大変だ 」

 ハーパーはニヤニヤしながら、興奮した顔で胸元のボタンを外したエマの肩を叩いた。



 ルシオ様が眠っているなら、口移しで媚薬を飲ませちゃおうかな。


 これは気に入ったイケメンの男にする所為だ。


 私はあの頃よりも数倍美しくなったわ。

 閨の手管も上達した。

 ルシオ様を満足させてあげる。



 エマは少しだけ玄関の扉を開け、部屋の中を覗いた。

 そこには壁に凭れているルシオの姿があった。


「 !? 」

 起きてる。

 何故?

 ちょっと時間が経ち過ぎた?



 薄暗い部屋でも……

 黄金の髪はキラキラと輝いて、俯いた顔が震える位に美しい。


「 やっぱり……誰よりも素敵…… 」

 あの腕に抱き締められたい。

 あの胸に顔を埋めたい。


 エマは……

 男に抱かれる時は、何時もルシオに抱き付いた事を思い出していたのだった。


 再びその瞬間が訪れるとは思いもしなかった事。



 ルシオ様は私との再会を喜ぶわ。

 今は、私達を邪魔していた公爵令嬢がいないんだから。


 それに……

 目を覚ましていても、あの睡眠剤には痺れ薬も入っているから、手足は動かせない筈。



「 ルシオさまぁ~ 」

 自分を抑えられなくなったエマは、扉を開けるとルシオに向かって駆け出した。




 ***




「 キャッ!? 」

 ルシオに向かって走り出したエマは、ルシオの前で慌てて足を止めた。


 ルシオが、エマの喉に向かって短剣を突き付けて来たのである。



 この日のルシオは帯剣をしていなかった。


 何時もなら外出時は必ずや帯剣をしているが、平民に変装している事から。

 その代わりに短剣をブーツの中に忍ばせていたのである。

 万が一の為にと。


 もしも……

 腰に剣があればハーパーに奪われていたに違いない。



「 !? 何故? 動けるの? 」

「 一緒にいた令嬢は何処にいる? 」

 ルシオはエマの質問には答えずに質問をした。


 綺麗なサファイアブルーの瞳で見つめられ、エマは悶えた。



「 ルシオさまぁ~剣をしまって下さい~ 」

 私は貴女のエマよと、甘ったるい声でエマは剣先を突き付けながらもルシオをトロンと見つめている。


「 もう一度聞く! 馬車に乗っていた令嬢は何処にいる? 」

 流石に怒気を孕んだ顔と声のルシオは怖い。


「 侍女なんかを気にするなんて相変わらず優しいのね? 馬車で御者の下男が自分の家に連れて行ったわ! それよりも私と…… 」

「 何処に!? 」

 立ち上がったルシオは、エマの首に片腕を回した。



 まあ! ルシオ様ったら。

 ウフフフ……

 私達の間に媚薬なんか必要無かったわね。


 エマは自分の乱れた胸元を見て、ルシオが欲情したのだと思った。



 しかし次の瞬間に喉に痛みを感じた。

 ルシオがエマの喉に剣先を当てたのだ。


「 !? ……何を……」

「 言え! このままお前の喉を掻き切るぞ! 」

 ルシオの本気の怒りがエマを震え上がらせた。


「 それは……村外れの…… 」

 エマから御者の家を聞き出したルシオは、エマを突き飛ばして部屋から出て行った。


 足をふらつかせながら。



「 ルシオ様! 待って! どうして? 」

 尻餅を付いたエマはルシオの後ろ姿を見つめた。

 ズキズキと痛む喉に手をやると、指先に血が付いていた。


 あんな怖いルシオ様は知らない。

 あの侍女は……

 一体誰なの?



 催眠剤が効いていたソアラは、馬車の中でずっと眠っていた。

 馬車から降ろされたのはルシオだけで。

 今からエマと事をおっ始めるのだから、ハーパーが邪魔なソアラを降ろす訳は無い。



 迎えに来た馬車に乗ったエマは、そこで寝ている平民の姿のソアラを見て、ルシオの侍女だと思い込んだ。


「 もしかしたら、ルシオ様は私を探しに来てくれたのかも 」

 勿論、エマもルシオの婚約騒動を知っている。


 アメリアが婚約者候補から外されて、一番喜んだのはこのエマだ。



 こんな辺鄙な場所にまで来るなんて……

 そうに違いない。


 新しい婚約者では物足りないんだわ。



 あのの伯爵令嬢では、ルシオ様を喜ばせる事なんか出来ないわよね。

 閨に頭の良さなんていらないんだから。


 エマは勘違いをしていた。

 ソアラとルーナを。



 学園時代……

 ソアラとエマは同じ学年だったが、エマはルーナの事は知っていたが、ソアラの事は全く知らなかったのだ。



「 お嬢様、この女はどうしますか? 」

「 お前の好きにすれば良いわ 」

 たかが侍女。

 ここで一人消えてもどうって事無いでしょ!と言って。


「 ヘヘヘ……貴族の若い女は久し振りだ 」

 王族の侍女が貴族なのは誰もが知る事で。


 エマが馬車から降りると直ぐに、御者は馬車を走らせた。


 ソアラを乗せたままに。



 ルシオは外にいたハーパーを蹴り倒すと、彼の片足のアキレス腱を短剣で切り付け、動けないようにした。


 足を押さえてギャアギャアと喚きながら、のた打ち回るハーパーの周りが血に染まる。

 

 そして……

 厩舎にいた馬に飛び乗り、手綱を握った。



 外は暗く、雨が降り出していた。


 雨の中を……

 馬に乗ったルシオが全速力で駆けて行く。



 間に合ってくれ!



「 ソアラ! 」








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