第75話 伯爵令嬢の沼




 ソアラ……

 君はムニエ語を話せるのか?


 そんな話は聞いた事は無いぞと思いながら、ガラガラとワゴンを押して会議室から退室して行くソアラの後ろ姿をルシオは見ていた。


 熱に浮かされたような顔をして。   



 そして……

 ソアラはあの後直ぐに国王陛下の応接室に呼ばれた。


 ソアラは一瞬思った。

 お茶を出さなかったから?と。


 厨房にワゴンを持って行ったら、無傷のワゴンを見たシェフに叱られたのだ。


 何しに行ったのかと。


 陛下の喉を潤して差し上げたかったのにと涙する、主君想いのシェフに感動した。



 国王陛下の応接室にはルシオとランドリアとカールが既に集まっていた。


 ランドリア宰相にソファーに座るように促され、座った所で国王陛下の侍女達がお茶を運んで来た事で安堵する。


 陛下が喉を潤していると。



 改めて見るとこの二組の親子が何だか微笑ましい。

 殿下とカール様は従兄弟同士なのだと、今更ながらに納得をする。



「 君は、何故ムニエ語を話せるのか? 」

「 はい 」

 ルシオの質問は尤もだ。


 ムニエ語を話せるなんて誰にも言ってはいないのだから。

 勿論、履歴書や釣書にも記入はしていない。



 ソアラは翻訳の仕事をしていた事を説明した。


 王立図書館勤務の父親経由での仕事だとは言わないでも良いだろう。

 公務員に副業が駄目だと言われたら、父親に迷惑が掛かるかも知れないと考えて。


 そもそも父親からの依頼は最初だけで、今では書店の店主とのやり取りは直接自分がしているのだから。



「 あの……ノース宰相。わたくしは罰せられますか? 」

 女官の仕事以外に副業をしていたのだ。

 罰せられても仕方が無い。


 文官の規則書には、副業をしてはいけないとも良いとも記されていない事から翻訳の仕事をしたが。



 給金だって翻訳の仕事の方が断然良くて。


 一冊仕上げればかなりの額の報酬が貰える。

 まあ、仕上げるにはかなりの時間を要するが。


 本を読むのが好きなソアラは翻訳の仕事を喜んでしていたのだ。

 外国の本をいち早く読める事も、翻訳家の醍醐味なので。


 だから……

 副業は駄目だと言われたら悲しい。



「 いや、それ位で罰する事は無い。それよりもゼット会長が何を言っていたのかを聞かせてくれないか? 」

 罰する事は無いと言われて、ソアラは安堵の息を吐いた。



「 わたくしが会議室に行ったのは夕暮れ時だったので、聞いた会話はごく一部ですが…… 」


 そして……

 ルシオの声に萌え萌えしていた時間もあるから、本当にごく一部しか聞いていないのだ。


 偉そうに颯爽と登場をしたが。



『 金額は両国から採掘した鉱物の3パーセントは欲しい 』

 秘書官達が記載した書類を見ればこう書かれてあった。


 それを見ながらソアラは説明した。


「 この3パーセントの前に未来永劫と言う言葉を言っていました 」

「 ゼット商会が採掘に関わるのは、我が国が採掘のノウハウを覚えるまでと言う約束だ 」

「 なので金銭が生じるのは、ゼット商会が撤退するまでの筈 」


 ランドリアとカールが、最初に交わした書類を手にして眉を潜めた。



『 採掘をする間は港を自由に使える為の通行許可書を頂きたい 』

 これが1番気になった所ですと言って、ソアラはサイラスとルシオを見やった。


「 彼は……と言っていました 」

「 な……何だと? 」

「 港を明け渡すとは……港をゼット商会のものにすると言う事か!? 」

 サイラスとルシオが驚いて座っていたソファーから身を乗り出した。



「 この、と言う言葉のニュアンスが微妙なのです 」

 港を自分のものにすると言うなのか、自分達だけで使用すると言う意味なのかが分からないとソアラは言った。



 掘削作業には沢山の機械や道具が運び込まれる。

 何十台の馬車や沢山の人も行き来する事から、港を自分達の専用にしたいと言う申し出があった。


 その事を受けて……

 ドルーア王国には2つの大きな港がある事から、採掘事業の間は1つの港はそれ専用にするつもりではいた。


「 ゼット会長はこれでもかなり譲歩をしております 」

 最後に言った通訳の話しは全くの出鱈目で、あの時ゼット会長はこう言っていたのだ。


「 この政権はぼんくらと聞き及んでいたが、その通りだなと言っておりました 」

 ソアラはこれは言おうかどうか迷ったが、やはり向こうの腹の内を知っていた方が良いと思って。


「 何だと!? 」

「 陛下……我々が不甲斐ないばかりに、あんな平民にまでバカにされて…… 」

 申し訳ありませんと言って、ランドリアの顔がみるみる内に歪んで行く。


 テーブルの上に乗せられた手はワナワナと震えていて。



「 これからだよ。余の政権はこれからだ 」

 サイラスはそう言ってゆっくりと皆を見回したた。


「 ソアラ嬢……そなたには感謝する。そなたがいなければ取り返しのつかない事になっていたかも知れない 」


 サイラスが立ち上がり腰を折ってソアラに頭を下げた。

 すると……

 ルシオやランドリア、カールも同じ様に立ち上がりソアラに頭を下げた。



 この国の国王陛下、王太子殿下、宰相である公爵とその嫡男で王太子の側近と言う、4人のドルーア王国の最高の権力者達が、名もない伯爵家の令嬢に頭を下げているのである。



「 陛下!? ……殿下! ノース宰相にカール様! わたくしのような者に頭を下げてはいけません! 」

 ソアラは慌ててソファーから立ち上がった。


 そして……

 床に座り込み、皆よりも更に低い位置で頭を下げた。



「 我が国には凄いスキルのがいる 。ソアラ嬢は我が国の宝だ 」

 サイラスは敢えてと言って、ルシオを見やった。



 ルシオはソアラに手を添えて立たせていた。


 それはもう甘い甘い蕩けるような顔をして。




 ***




 ルシオとソアラの2人は正面玄関口までやって来た。

 帰宅するソアラを見送る為に。


 宮殿に来ているソアラが帰宅する時は、時間が許す限りはルシオはこうやって正面玄関口までソアラを見送りに来ている。



 ソアラが自宅から王宮に通う事になって、朝のウォーキングの2人のひとときが無くなってしまった事もあって。


 だからルシオは、何とかしてソアラとの時間を作ろうとしているのだった。


 毎日、少しでも良いからソアラに会いたくて。



 この夜は正面玄関口には王太子殿下専用馬車が停まってあった。

 辺りはもう真っ暗になっている。



「 殿下は、これからお出掛けになるのですか? 」

「 違うよ。君をフローレン邸まで送って行く 」

「 うちまで!? 」


 殿下が動くと大勢の騎士達が動く事になる。

 既に馬車の横には大勢の騎士達が跪いていて。



 しかしだ。

 王太子であるルシオが馬車で移動となれば、大勢の騎士達が付いて来る事になるのだ。


「 殿下! ここまでで大丈夫です 」

 家に帰るだけなのに大事になる。


 家までは馬車で20分位で。

 歩こうと思えば歩ける距離なのだ。



「 良いから僕に送らせなさい 」

 ルシオはソアラの手を引いて、ソアラを王太子殿下専用の馬車に乗せた。



 一般的に男女の2人だけで馬車に乗れるのは、家族か婚約者同士だけと決められている。

 部屋に入る事も同じで。


 ルシオとソアラも正式に婚約した事から、堂々と2人だけで馬車に乗れるようになった。



 アメリアとリリアベルとは婚約者候補であっただけで、正式な婚約者では無かった。

 なので当然ながら2人っきりで同じ馬車には乗った事は無い。


 そもそもお付きの者がいたとしても、同じ馬車には乗った事さえ無い。

 どちらか1人と何処かへ行く事など無かったのだから。


 ルシオとアメリアとリリアベルの3人の関係は、それ程までに距離を置いた関係だったのである。



「 殿下の馬車はやっぱり乗り心地が良いですね 」

「 まあね 」

「 私は……馬車に乗りなれていないから、うちの馬車には未だに慣れなくて…… 」


 街の中心に近い場所にあるタウンハウスに住んでいた事から、フローレン家の面々は馬車の無い生活していた。


 なので、どうしても馬車に乗らなければならない時は辻馬車を呼んで乗っていて、馬車に乗る事自体が数える程なのだ。



「 じゃあ、僕の膝の上に乗る? 」

 ルシオがおどけた顔をして両手を広げた。

 僕をクッションにしてと言って。


「 でっ!? 殿下! 冗談は止めて下さい! 」

 目を真ん丸く見開いて、顔を真っ赤にして怒るソアラをルシオはクスクスと笑いながら見ていた。



 今日の女官姿のソアラは凄かった。

 ムニエ語を話せる事にも驚いたが。


 あの、凛と佇む姿に見惚れた。

 あの、堂々と自分の意見を言う姿に胸がときめいた。


 女官の制服からドレス姿になった今はこんなにも可愛くて。

 そのギャップにまた萌える。



 これからどんな彼女を見せてくれるのかと思うと、楽しくて仕方が無い。


 本当に……

 知れば知る程にどんどん惹かれて行く。


 まるで沼にハマッて行くかのように。



膝に乗せられたら大変とばかりに、少しだけ馬車の隅に移動したソアラが可愛くてたまらない。



 麗しの王太子殿下と呼ばれている程の美丈夫であるルシオは、周りにいる女性達からは常に秋波を送られる存在である。


 男爵令嬢程に極端では無いが。


 近くにいれば誰からも媚びた目で見詰められるのが常だ。

 もうすっかり慣れてしまっているが。



 しかし……

 ソアラは今まで出逢ったその誰よりも違った。


 彼女が側にいる事が心地好いのだ。

 それはきっと出逢った時から。



 膝に乗せられたら大変とばかりに、少しだけ馬車の隅に移動したソアラが可愛くてたまらない。


 誰もが憧れる麗しのルシオ王太子殿下は……


 この愛しい婚約者が、どうやったら自分の膝の上に乗ってくれるのかと真剣に悩むのであった。











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