第74話 凄腕の女官再び
「 待って下さい! その通訳は正しくありませんわ!! 」
ムニエ語でそう言って会議室に入って来た女官は、お茶が載ったワゴンをガラガラと押しながら、会議室の真ん中の通路をスタスタと歩いて来た。
会議室担当のメイド達がお茶を出す時は、端の通路を使うのだが。
そんな事を知らない経理部の女官のソアラは、会議室の真ん中の通路を真っ直ぐに歩いて行った。
2人と通路を挟んだ所に設けてある席には、マクセント王国のフレディ王太子が座っていて。
彼はソアラをじっと見ている。
何処かで見た事があると思いながら。
先程までは議論が飛び交っていた会議室は静かになった。
ガラガラとワゴンの音とカチャカチャと食器の音のみが辺りに響いている。
えっ!?
この女官は……
ソアラか?
ペンを持ったままにルシオが立ち上がった。
***
日が暮れて、宮殿内にも灯りが付き始めた頃にソアラは会議室の前にやって来た。
ワイアットと言う名前の請求書の日付が、前政権下での日付であった事から、ウエスト家の嫡男であるシリウスに聞けばワイアットの手掛かりが掴めるのでは?と思い会議室までやって来たのだった。
鉱山の採掘事業でシリウスも呼ばれている事を聞いていたので、待ち伏せをしようと思っていたと言う訳だ。
ダンスのレッスンの為に、シリウスもディランと一緒にフローレン邸に来ていた事から、ソアラはシリウスとも親しくなっていた。
会議室には文官や女官達が何度も出たり入ったりしている事から、ソアラが会議室の前に行くと警備員が何も言わずにドアを開けてくれた。
女官姿のソアラが書類を手にしていたから何の違和感を持たれる事も無く。
因みに周りには沢山の騎士達も巡回しているが、騎士達も警備員達も女官姿のソアラが、王太子殿下の婚約者だとは気付いてはいないようだ。
正式に婚約者になった事から、ソアラが宮殿にやって来るとアナウンスされるようになっていた。
フローレン邸と王宮の往復には騎士が同行する立場になって。
最早ソアラは時の人になっているのだ。
女官姿なら宮殿内を自由に歩けるのね。
今こそ、この何処にでもある普通顔に感謝するソアラだった。
皆からの冷たい視線と、揶揄する言葉を聞かなくても済むのが嬉しかった。
ソアラは胸を張って宮殿内を歩いていた。
会議室のドアが自動的に開けられた事から中に入った。
ソアラは女官だが経理部勤務なので会議室に入るのは初めてだ。
会議室には会議室の担当の文官や女官がいる事もあって。
広い部屋の中には沢山の机や椅子が置いてあり、机の上には書類が置かれていた。
会議室はその向こう側にあり、ここにいる文官達は書類を片手に気忙しく会議室の中に出たり入ったりしている。
ソアラは部屋の隅の椅子に腰かけた。
文官達が会議実に出入りをする度に、中の声が微かに聞こえて来た。
あっ!
殿下の声。
熱心に話すルシオの声に胸がキュンとする。
声だけでもこんなに好きなのだと改めて思うのだった。
別に会議の内容を知りたい訳では無いが、ソアラは耳を澄ましていた。
ルシオの声がしないかと思って。
しかしだ。
ソアラの耳に聞きなれない言葉が入って来た。
聞きなれない言葉だが何を言ってるのかは分かる。
「 この言葉は……ムニエ語!?」
ガルト王国では少数民族のみが使用している言語だが、ソアラは翻訳の仕事をしていた事でムニエ語を習得していた。
翻訳の仕事はガルト王国から出版された本が殆どで。
依頼された翻訳の仕事にはムニエ語で書かれた本も何冊もあった事から、ムニエ語を勉強したのである。
ムニエ語で会話をした事は無い。
ムニエ語も音としては聞いたことは無い。
しかしだ。
会議室の中から聞こえてくる男の言葉がスムーズに頭に入って来る。
ソアラは……
翻訳が出来る程に勉強した成果があったのだと胸が高鳴った。
ドアに近付き、ムニエ語を話す男と通訳をしている男の言葉に集中した。
「 ………えっ!? 」
ムニエ語を話す男と……
通訳の話す言葉の内容が違う。
聞き間違い?
いや、今の訳は明らかに違う。
そうこうしている内にどんどんと話が進んで行く。
詳しい内容は分からないが、通訳が違う事を言っているのは看過出来ない。
これは翻訳家としての矜持が許さない。
だからと言ってこの会議は、国王陛下と王太子殿下の2人が同時に参加すると言う何よりも重要な会議だ。
会議室の中には当然ながら騎士達が配備されていて。
突然入室すれば、瞬時に取り押さえられてしまう。
『 騎士達が取り押さえたのは王太子殿下の婚約者! 』
ううう……
もう、新聞沙汰になるのは勘弁願いたい。
殿下にこれ以上迷惑は掛けられない。
どうしたら良いものかと、立ったり座ったりを繰り返していると、ガラガラとワゴンを押してシェフがやって来た。
「 そこの女官様! 丁度良かった。このお茶を陛下と王太子殿下と、隣国の王太子殿下にお出ししてくれないか? 」
女官姿のソアラにそう依頼して来たのだ。
3時の休憩もお取りになられなかったのでと言って。
渡りに船だ。
「 喜んで! 」
中に入る理由が出来た。
女官ソアラは張り切ってドアの前に立つと、警備員がバンとドアを開けてくれた。
ガラガラガラ。
壁際にいる騎士達がそのままの姿勢でソアラを見ている。
そうよ。
わたくしは陛下や殿下にお茶を出しに来た女官なのですからね。
フフンと騎士を見やりながらソアラは真ん中の通路を歩いて行く。
「 そこじゃ無い!端の通路を……… 」
後ろから何やらシェフの声がするが気にしない。
ソアラはもうお茶の事など頭には無かった。
「 待って下さい! その通訳は正しくありませんわ!! 」
ソアラはムニエ語でそう言って、驚いて目を見開いている通訳の男の前にやって来た。
ガラガラとワゴンを押しながら。
「 な……君は……ムニエ語を話せるのか!? 」
「 はい!……先程から聞いていました所、バッセン伯爵の通訳は間違っていますわ 」
ソアラは通訳の男を見ながらニヤリと笑った。
「 そんな出鱈目な通訳をするなんて……納税の時は完璧でしたのに、これはどう言う事ですか? 」
「 き……君は……あの時の…… 」
通訳の男は何かを思い出したのかソアラに向かって指を差した。
納税の時のソアラは、凄腕の女官がいると言われていた程の能力者だ。
通訳の男はロイド・バッセン伯爵。
ウエスト公爵家の納税の時には、ソアラが完璧だと言って誉めた執事である。
前政権下では、財務部で働いていたと胸を張っていた初老の男であった。
「 この会議での話しの内容は存じませんが、そちらの御仁の仰っている言葉と、バッセン伯爵の通訳が違うと言う事だけは分かりますわ 」
「 いや……それは…… 」
バッセンは挙動不審になり目を泳がせている。
かなり動揺している。
そして……
ソアラはゼット商会の会長を見た。
「 貴方の要求している事も、今一度確認する必要があると思いますわ 」
ソアラの鋭い指摘にゼット会長も青ざめながら、口をパクパクとさせて。
ここまでの会話は全てムニエ語である。
「 国王陛下に進言致します! 通訳がきちんとなされていない事から、今回は見送る事が得策かと存じます 」
ソアラは国王陛下にそう言って丁寧に頭を下げた。
「 通訳がなされてない? ……ロイド! どう言う事だ!?」
声を荒らげたのはウエスト公爵だ。
シリウスと並んで座っている。
「 それは……久し振りにムニエ語を聞いた事で……どうやら間違ってしまったようです 」
汗をしきりに拭いながら、バッセン伯爵はウエスト公爵に頭を下げた。
「 陛下! ロイドも混乱しておりますので、今日はこれまでにして頂きたく存じます 」
そう言ったウエスト公爵は、サイラス国王の言葉を待った。
「 まあ、久しく通訳をしていないのであれば、間違う事もあるかも知れない 」
ロイドは初老だ。
先程までの堂々とした態度からは考えられない位に、今は弱々しくなっていて。
サイラスは会議の閉会を告げた。
ずっと立ったままでこの状況を見ていたルシオが、ソアラに近付いて来た。
ルシオが何かを言おとしたが……
ソアラは自分の唇に人差し指を当てて、黙っていて欲しいと言う仕草をした。
「 今のわたくしは女官です 」 とルシオの耳元で囁いた。
会議に乱入した者が王太子殿下の婚約者ならば新聞沙汰になるが、ただの女官ならば新聞沙汰にはならない筈だ。
そして……
ガラガラとワゴンを押しながら会議室を後にした。
お茶を出さずに。
この場でこの女官がルシオの婚約者だと気が付いたのは、どちらの姿も知っているサイラスとランドリア、そしてカールと財務部の6人だ。
他の大臣達は気付いてはいない。
勿論、騎士達や文官達も。
そして……
シリウスも女官姿のソアラを知る一人だから気付いていたが、フレディは気付かなかった。
フレディの知るソアラは……
何事にも懸命だが何処か自信無さげで。
ダンスもまともに踊れ無い貴族令嬢。
何よりも……
身分違いの結婚をさせられる可哀想な令嬢だった。
女官のソアラは嬉々とした顔をしながら相手に意見をしていた。
国王陛下にまでも進言すると言う。
女官ソアラは……
誰よりも堂々としていた。
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