XVI

 窓の向こうを流れいく景色を見ていると、息苦しくなって吐き気が込み上げてくる。この嘔気は、これから始まる式典への緊張から来ているのか。それとも、この街そのものに対してのものなのか。メルシィには、判別がつかなかった。褐色の建造物がひしめき合う、黄土色の街。首都の中心部まで来ると、人の数も次第に増えて、お祭りムードが強まっていった。活気ある声に満ちた市場では、色鮮やかな果物や花などが売られている。その周りを黒々とした太った蠅が飛び回り、手慣れた手つきで盗みを働く子らがおり、路地裏では建物の壁に凭れ掛かる、骸骨のような身体があった。生きているのか死んでいるのかさえわからない。生と死と狂気。あらゆるものが入り混じったこの世界は、鬼才が創り上げた奇怪なアートかなにかだろうか。

「メルシィ。あまり窓の外を見るのはやめなさい」

 助手席に座るブレヒトに窘められると、メルシィは大人しく従った。




 太陽が高く昇るにつれて、式典が執り行われる外苑には、国中から多くの人が集まった。どこを見回しても、見えるものは人の頭ばかり。前へ進むことさえままならず、会場に入り切れなかった人々が道路にまで溢れ出している。これだけ多くの人々が、一人の少女を一目見ようと集まったのだ。

 澄み渡る空の下、人々が密集してひしめき合い、甲高いクラクションが鳴り響き、赤ん坊の泣き声やら、母親を咎める罵声やら、会場内は酷い有様であった。至る所で些細な小競り合いが起こり、急病人が担架で運び去られていき、前にも後ろにも進めないこの状況に、人々からは不満の声が上がり始めた。メルシィの姿を見に来たのに、これでは演壇に近い前の方にいる者以外、彼女の姿を拝むことは叶わないではないか。


 メルシィはまだか。

 メルシィ。

 メルシィ。


 神に救いを乞うように、人々はその名を叫んだ。その清廉なる耀きに少しでも触れようと、天に向かって手を伸ばした。


 メルシィ。

 メルシィ。

 メルシィ。


 みんなが私を呼んでいる。私を必要としてくれている。私に助けを求めている。私と話がしたいと願っている。

 それならば、行かなくては。私は、それが私にしか出来ないことだとはどうしても思えないのだけれど、誰もやらないなら、誰かがやるしかないのでしょう。

 メルシィが壇上に現れた瞬間、歓声とも怒号とも取れぬような発狂が世界を満たした。それはもう、大地が割れてしまうのではないかと恐怖するほど、凄まじい歓声。高揚と歓喜は波のように広がっていき、中にはそれだけで失神する者まで現れた。

 黄金のドレスを身に纏ったメルシィは、五人の屈強なボディーガードに囲まれて、可憐な笑みを振り撒きながら群衆に手を振った。無数の宝石が散りばめられた豪奢なロングドレスは、燦然と降り注ぐ陽射しを受けて、メルシィの身体を虹色の光で抱擁する。ドレスと同じ色の長い髪は頭上で綺麗に束ねられ、その姿はまるで、太陽の国の皇女が如く、圧倒的なまでに光り輝いていた。少なくとも、この場に集った群衆の目には、メルシィの姿はそれほどまでに神々しく映った。

 メルシィは手渡されたマイクを受け取ると、

 すぐには喋り出さずに、ゆっくりと時間をかけて群衆を見回した。メルシィのいる場所からは、演壇の真下から地平の彼方まで、どこまでも人の頭で埋め尽くされているかのように見えた。これだけの人がいながら──それも、つい先ほどまで歓喜と発狂の渦に呑み込まれていた人々が、メルシィがマイクを受け取ってから数分後には、嵐の後の海面の如く静まり返った。マイクを握る、レース地の手袋の中は微かに汗ばんでいる。あまりに大勢の人の前に立ち、緊張を通り越して、もはや清々しさを感じていた。

 こんなにも多くの人が私を必要としてくれている。私が次に発する言葉を、今か今かと待っている。私が何を言おうとも、恐らく彼らは神の託宣を受けでもしたかのように高揚し、無条件に涙を流すことだろう。

 神様が見放したこの世界で、神様よりも崇拝されてしまった少女、メルシィ。いつからか、彼女はずっと恐れていた。それが何に対しての恐怖なのか、彼女自身もはっきりとはわかっていなかったが、もしかしたらそれは、神様に成り代わってしまったその身へ下される天誅への恐怖だったのかもしれない。

 演壇に立つ前に十分に水分は補給してきたつもりだったが、早くも喉の奥が砂漠のように干乾びてしまっていた。原稿は手元に無いが、式典の開催が決まった数カ月前から、ブレヒトと一緒に何度も何度も練り直し、暗唱してきたのだ。にも関わらず、頭の中が真っ白になって、原稿に書かれていた冒頭の言葉だけがどうしても思い浮かばない。

 あんなに練習したのに……

 メルシィの口元から、微かな笑みがこぼれ落ちた。演壇の近くにいた者の中には、それに気付いた者があったかもしれない。

 時間をかけて必死に暗記した文章を、冒頭から忘れてしまうだなんて、こんな私が神様の代理など、おこがましいにも程がある。それもそうか。私はみんなと同じ、一人の人間にすぎないのだから。

 目線を遠くの雲へ向け、降り注ぐ陽光のスポットライトを浴びながら、メルシィは語り始めた。

「みなさま、本日はお集まりいただき、本当にありがとうございます。……ですが私は今日、私を愛してくれているみなさまの期待を、裏切ってしまうことになるかもしれません」

会場が一斉にどよめいた。演壇の脇に設けられた特別席で青白い顔をしていたブレヒトは、メルシィの最初の言葉が事前に考えていたものと大きく異なっていることにすぐに気が付いて肝を冷やした。

「まず初めに、私は神様でもなければ、天使などでもありません。みなさまと同じ、ただの一人の人間です」

 そう語るメルシィの表情は晴れやかで、口調もはっきりとしていた。群衆を包み込んでいた騒めきは引き、今や誰しもがメルシィの言葉を一言一句聞き漏らさぬよう、顔に動揺を滲ませながらもその声に耳を傾けている。

「私は今まで、多くの方とお話をしてきました。誰しもが何らかの悩みを抱えていて、それを私に打ち明けてくれることを、とても嬉しく思いました。ですが、私はみなさまの話を聞くことはできても、悩みを晴らすことはできません」

 メルシィの表情は朗らかで、口元には笑みを浮かべていたが、その大きな瞳には痛々しいまでに悲痛な涙が滲んでいた。

「……すみません。何が言いたいかというと、私はもっと、みなさまと対等に話がしたいということなのです。神のように崇められるのではなく、一人の人として。他者の上に立つことや、特別な存在になることに、私は何の意味も感じません。今、隣にいる人を尊重すること。目の前にいる人の目を見ること。これこそが、あなたの悩みを晴らす、一番の近道になるのではないかと、私は思うのです」

 メルシィは涙を流しながら、人々に向かってにっこりと微笑んでみせた。微かなどよめきはあれど、群衆は静かにメルシィの言葉に耳を傾け、多くの者が共に涙を流した。

 あの子らしい。そう思いながらブレヒトは笑った。自席へ腰を落ち着けようとした時、静かな騒めきの中で、ブレヒトははっきりとその声を聞いた。

「メルシィ……」

 驚いて隣に座っているエリゼを振り返ると、彼女は感情の灯が消えた瞳を一心にメルシィへと向けている。ブレヒトは、エリゼを抱きしめたい衝動に駆られた。だが、この場では頭を撫でるだけに留めておいた。たとえそれが「お父様」という言葉でなくても、愛する娘の声を聞くことができて嬉しかった。

「私はこれから、みなさ」

 メルシィの声が、不意に途絶えた。それと同時に群衆の騒めきが、飛び立つ鳥の翼が、愛娘の声が、この世界のあらゆるものが静止した。しかし、それはほんの一瞬のことだった。

 壇上に倒れ伏すメルシィを、黒い服を着た男たちが瞬く間に取り囲むので、ブレヒトのいる所から彼女の姿は見えなくなった。物凄い剣幕で壇上に駆け上がり、メルシィの元へ駆けつける者が数名。その中には白衣を身に着けた、医者と思しき者の姿もあった。

 演壇の真下に近い所で、黒服の男たちに取り押さえられている若い男がいた。その男がいる場所だけが、穴が空いているかのように黒く塗り潰されている。その男の姿もブレヒトからはよく見えなかったが、一瞬だけその顔が見えた。土気色の顔に見開かれた目、なにかをしきりに叫ぶ口。それは人と言うよりも、獣と形容する方が適切だろう。


 メルシィ。メルシィ。


 わけのわからない奇声の中で、男はしきりにその名を呼んでいた。しかし、ブレヒトにとっては、その男のことなど今はどうでもよかった。

「メルシィ……」

 譫言のように繰り返しながら、ブレヒトは黒服の男たちの制止を振り切って壇上へ上がると、メルシィの元へ駆け寄った。

「メルシィ!メルシィ!」

 細い肩を抱いて激しく揺らしたが、メルシィの瞼は伏せられたまま、ぴくりとも動かない。まだそれほど似合っていない、紅を引かれた小さな唇が、次第に色を失っていく。その表情は幸せな夢でも見ているかのように穏やかなのに、身に纏った黄金のドレスは、左胸から溢れ出る赤黒い血の色に染まっていた。

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