XV

 お話会が再び開催されることは、前もって告知されていなかったにも関わらず、どうしてか初日から多くの人が集まった。後でわかったことだが、自宅の庭で忙しなくお話会の準備を進めるメルシィやブレヒトの姿を、近所に住む人々に見られていたらしい。

 庭の植物はメルシィが部屋に閉じ籠っている間にもすくすくと成長を続け、無法地帯と化していた。さすがに今回は専門の業者を呼んだ方がいいだろうと考えたブレヒトだったが、もしかしたらその時のことも、近所ではちょっとした噂になっていたのかもしれない。なるべく多くの人が座って順番待ちができるよう、追加でベンチを購入したりもした。

 またお話会ができることになって、メルシィは嬉しそうだった。その晴れやかな笑顔は、前回のお話会で引き起こされた災いをすっかり忘れてしまっているかのようだ。実際に忘れたわけではないが、それはメルシィにとって過ぎ去った過去の出来事であり、もう一度ゲームに挑戦するかのような気軽さで、今回のお話会に臨むのだった。

 人々の楽しそうな声は家の前の道路にも溢れ、たまたま通りかかった人は興味本位で庭を覗き込む。多くの人の輪の中で愛らしく微笑む少女の姿を見た途端、皆一様にはっとした表情を浮かべ、その家の門を潜って少女を囲む輪の一部となるのだった。

 天使の再来。そのニュースは新聞で大きく取り上げられ、街には号外がばら撒かれた。灰色の紙面の上で無垢な笑みを浮かべる少女。指先──いや、爪の先を掠めるだけでもいいからと、少女の笑顔に触れようとして、頭上を漂う号外に伸ばされる無数の手!

 不思議なことに、この頃にはメルシィを責め立てる声はほとんど聞かれなくなっていた。それどころか、自身の精神を蝕みながらも、病める人々の心を救おうとする健気な姿に多くの人が胸を打たれ、感涙し、中にはメルシィのことが取り上げられている号外を手にしただけで救われたような気持になる者も少なくなかった。

 元々信仰の浅いこの国で、メルシィという名の一人の少女は、神よりも神に近い存在として人々に崇められた。腐敗したこの国で、天使のように無垢な心を持っていたというだけで!人々はかつてメルシィの心を貶めた原因が自分たちにあるのだということも忘れて──いや、「忘れた」と言うのは少し違うかもしれない──初めから、自分だけはずっとメルシィを信じて待ち続けていたと思い込んでいるのだ。

 メルシィの行いを偽善だと言って非難する者も中にはいた。いたが、いなくなってしまった。この国でそのような愚かしいことを口にすれば、地獄よりも酷い場所へと叩き落とされることだろう。彼女を侮辱する発言は許されない。その愚かな言葉が万が一彼女の慎ましい耳に入り込み、白き宝玉の如く光り輝く精神を穢すことになったらどうする。

 しかし、メルシィの精神が白く光り輝いているなどと、一体どうしてわかるだろうか。誰も彼女の精神を目にしたことなどないはずなのに。

 メルシィと一言でも言葉を交わそうと、家を訪れる人の数は日に日に数を増していった。お話会の開始時刻は午後一時であったにも関わらず、まだ陽も昇らない暗い時間帯から家の前に人が列を作り始めるのだ。心優しいメルシィは、そんなに何時間も待たせてしまっては申し訳ないと言って、お話会の開始時刻を数時間も早めた。その結果、お話会は毎日朝早くから夜遅くまで行われるようになった。

 勉強をする時間など到底なかった。本来であれば、家に集まる人々を追い返してでも、メルシィに勉強する時間を与えるべきだとブレヒトも頭ではわかっていたが……人々が、この国がメルシィに求めていることは、勉強をして良い成績を修めることでも、地位の高い職業に就くことでもない。人々の心を救う。それが彼女の使命であると、誰もが信じて疑わなかった。本人でさえも、だ。メルシィが勉強をしたいと自分から言うのであれば、ブレヒトは人々にどれだけ非難されようとも、その環境を整えてやるつもりでいた。しかしメルシィにとって、人と会うことは何よりも優先すべきことのようで……

 そして、ブレヒトは考えることをやめてしまった。メルシィが幸せならそれでいいと思うことにしたのだ。

 家には毎日大勢の人がやって来る。中には、メルシィと話をする為に、何時間もかけて遠くの町から遥々この家を訪れる者もある。

 今ではブレヒトが働かずとも、お話会でメルシィが得た収入や捧げものだけで一家の生活が成り立つまでになっていた。定年よりも数年早くブレヒトは仕事を辞め、メルシィの傍で彼女のサポートをすることにした。それは以前、サンデルが行っていた仕事とほとんど同じ役割だ。メルシィに危害を加えそうな者がいればすかさず止めに入り、お話会が終わった後は彼女自身の話を聞いてやり、体力面と精神面の両方で彼女の健康を支える。

 しかし、メルシィに会いに来る人が増えた今、彼女の身を守るのはブレヒトではなく、屈強なボディーガード達の仕事だ。メルシィが人と話す時、その傍には常に二名以上のボディーガードが付いている。黒光りするサングラスの下で動く瞳は、来客に不審な素振りはないかと目を光らせ、メルシィを傷付けかねない発言を一言でも発しようものなら、すかさずボディーガード達による制止が入る。メルシィを傷付けかねない発言といっても、些細なものから明らかに意図的なものまで様々だ。たとえば、思春期の齢であるメルシィに、冗談でも「少し太ったんじゃないか?」などと言ってはいけないし、「待ち時間が長すぎる」など、お話会に対するクレームも当然だめ。メルシィ自身は然程気にしていないように思われることがほとんどだったが、お話会での禁止事項が増えるにつれて、人々はメルシィを対等な一人の人間としてではなく、神様のように崇めるようになっていった。それについて、当の本人は少し残念そうな顔をしていたけれど。


 メルシィ、ありがとう。

 メルシィ、ありがとう。

 メルシィ、ありがとう。


 当初はかけがえのない愛の贈り物のような響きを湛えていたその言葉は、繰り返される度に鮮度を落とし、少女の胸の奥で黒く腐敗していった。そのことに気が付かないふりをして──いや、本当に気が付いていなかったのかもしれない──身体は少女から女性へと成長を続けながらも、心はいつまでも純粋無垢な少女のままで在り続けた。

 人々が神だ天使だなどと言って彼女を持て囃すほど、少女は本来の姿を失っていった。いっそ、その方が彼女自身も楽でいられた。自分が人間であることさえ忘れて、人々が求める「天使」としての務めを果たす。感謝の言葉を機械的に繰り返す声に紛れて、彼女の為に心の底から発せられた「ありがとう」の一声さえ聞き分けられない。



 *



 その夜は、異様なまでに静かだった。まるで彼らのいる家だけが、時の流れに取り残されてしまったかのように。

 ブレヒトはなんとなく気持ちが休まらず、不穏な胸騒ぎのような居心地の悪さを感じていた。しかし、それも無理はない。明日はメルシィにとって、そしてブレヒト自身にとっても、とても大切な一日となるだろうから。

 というのも、多くの人々の心を救ったメルシィの功績を讃える為に、国を挙げて大掛かりな式典が催されるのだ。

 ブレヒトたちは、まだ陽も明けぬ時刻から家を出て、首都にある皇居へ向かう手筈となっている。もちろん、公共交通機関を使うことはなく、迎えの車の用意をしている。

 この家も、以前と比べれば随分と雰囲気が変わってしまった。メルシィは、おそらく国民全員が知っているであろう、絶大な存在にまで昇華した。それこそ、これから向かう皇居に住まう王族よりも、遥かに国民に慕われ、愛されていることだろう。

 そんなメルシィが、今まで通りこの家で暮らし続けるのは如何なものかと、ブレヒトは悩み抜き、一度は引っ越しを決意した。しかし、当のメルシィ本人に泣きながら反対されてしまっては、ブレヒトもそれを押し切ってまで、思い出の詰まったこの家を離れることはできなかった。その為、自宅内とその周囲には、何十名もの屈強なガードマンが常駐している。ブレヒトが視線を上げてリビングのドアの方へ目をやると、そこにも二人。彼らは基本的に自分からなにかを話すこともなければ、微笑を浮かべることもない。当然と言えば当然だ。それも、彼らの仕事に課せられたルールのうちの一つだろうから。

 にも関わらず、メルシィは彼らにも気軽に話しかける。一度その笑顔を見れば、仕事中の彼らとて、自然と口角が緩んでしまうのだった。メルシィは容姿も愛らしく魅力的だが、人々が彼女に惹き付けられるのは、彼女の精神が唯一無二の耀きを放っているからだ。

 ブレヒトは、ソファの定位置に腰掛けているエリゼの元までやって来ると、その頭の上にそっと掌を重ねた。

「エリゼ。明日は朝早くに家を出ないといけないから、もうおやすみ」

 そう言われても、エリゼの表情は一切変わらない。もちろん、返事を返すこともない。ブレヒトがやって来たことにさえ、気付いていないような目をしていた。

 ブレヒトは「仕方ない」といった様子で彼女を立ち上がらせると、その華奢な背中を押すようにしてリビングを後にした。

 メルシィはもう眠っただろうか。陶器のようなエリの頬におやすみのキスをした後、ブレヒトはメルシィの様子を見に行くことにした。部屋の前には少し眠そうな顔をした機械のような男たちがいたが、ブレヒトがこちらへ向かって来るのを見るなり、一瞬でその表情を引き締めた。

「もう寝ただろうか?」

「中の様子を見ていないのでわかりませんが、物音がしないので恐らくは」

 小声で短いやり取りを交わすと、ブレヒトは慎重にドアを開けた。次第に広がっていく部屋の中の暗がりへ、音を立てないようにゆっくりと足を滑り込ませていく。メルシィはベッドで横になっているようだが、寝息は一切聞こえない。ブレヒトは静かにドアを閉めると、まるで全てはっきりと見えているかのような足取りで、ベッドまで歩いていった。

 ブレヒトがベッドの側まで辿り着いた時、幾年も前からその瞬間を待ち続けていたかのような的確な瞬間に、大きな双眸がぱっと開いた。深い夜の中で尚──いや、深い夜の中でこそ鮮明に煌めきを放つ碧い瞳が、じっとブレヒトを見上げている。

「すまない。起こしてしまったか?」

「いいえ。明日が来るのが不安で、目を閉じていてもなかなか眠れなかったのです」

 メルシィはそう囁いて、にっこりと笑った。天使のように愛らしい笑顔だ。思わず、ブレヒトの頬も緩んだ。大きな手がメルシィの頭を撫でる。艶やかな長い髪は、掌の中で黄金の粒子のようにこぼれ落ちた。

「……お父様」

 思いがけずそう呼ばれ、メルシィの頭を撫でていた手が動きを止めた。

 お父様、とそう呼んだのは誰で、呼ばれたのは誰なのか。わかり切ったことであるはずが、すぐには理解が追いつかない。ただ、ブレヒトは、たった一度だけでもメルシィにそう呼んでもらえたことが、声にして表現することさえままならないほど嬉しかった。その言葉一つで、疲れて錆びた精神を一瞬で浄化し得るほど、半ば諦めながらもずっと求め続けていた言葉だったのだ。

「ごめんなさい。私、ずっとあなたのことをなんと呼んでいいのかわからなくて。お医者様をされているから、先生って呼んでみたり、サンデル先生が来てからは、ブレヒトさんって呼んでみたり……あなたは何も言わずにそれを受け容れてくれていたけれど、さすがにこれは、いけないですよね。だってあなたの娘は、エリゼだもの」

 ブレヒトがいつまでも黙っているので、メルシィは彼を怒らせてしまったのではないかと不安を声に滲ませた。

 しかしながらブレヒトの胸中は、怒るどころか、寧ろその逆なのだ。お父様、とたった一言そう呼んでもらえたことが嬉しくて嬉しくて、この喜びを表すのに相応しい言葉が、上手く見つけられないでいるだけなのだ。

 枕元に置かれた小さな手を、皺の刻まれた大きな両手で抱擁した。その手は微かに震えていた。柔らかくもきつく、解けないようにしっかりと手を握った。

「ありがとう。メルシィ」

 そう言った声は弱々しく掠れていて、ブレヒトの声だと言わなければ誰も気が付かないほどだ。

きつく結ばれた手の上を、一粒のしずくが流れ落ちた。





 寝付けなくとも朝は必ず訪れる。仄暗い時刻にいそいそとベッドを抜け出すと、ブレヒトは娘たちを起こしに向かった。メルシィはまだ眠っていたが、ブレヒトが部屋の中に入ると、すぐに目覚めて気怠そうに身体を起こした。

「おはよう、メルシィ。しっかり眠れたか?」

「おはようございます。しっかり眠れたかと言われると、どうだか……結局昨晩は、夜中の遅い時間まで寝付けませんでした」

 メルシィはそう言いながらも笑顔を見せた。眠れなかったのはブレヒトも同じだ。ブレヒトはほとんど一睡もしていなかった。

「さあ、知っての通り今日は特別な日だからな。メルシィ、準備したらすぐに立つぞ。急がないと、朝食を取る時間が減ってしまう」

 かつてないほど慌ただしい朝。家の外では徐々に陽が昇り始め、夜を虹色に染め上げていく。未だ完全には夢から覚めぬ街の中を、一家を乗せた車は走り出した。

 運命の瞬間は、刻一刻と近付いている。

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