XIV

 口を開けば「家に帰りたい」と言うメルシィの願いが聞き届けられたのか、メルシィは一週間足らずで退院できることになった。些か早計な判断であるようにも思われるが、ブレヒトが勤めるこの病院──特に精神科は、常日頃から大勢の患者とその家族が、ベッドが空くのを待ち構えている状況なのだ。メルシィがすぐに入院できたのは、緊急性の高さ故である。

 書斎には勝手に入らないようにと、ブレヒトは言い聞かせていたが、メルシィは言いつけを破って書斎の棚の奥にある薬品の半分近くを飲み下してしまった。ブレヒトでさえ何の薬だったのか忘れてしまっているほど、棚の奥で埃を被っていた旧い薬品の瓶。ブレヒトが帰って来た時、それらの蓋は無惨に床に散らばっていて、全く効能の異なる様々な薬品の匂いが混ざり合い、書斎には焼けつくような濁った空気が充満していた。

 うつ伏せで倒れ伏すメルシィを見た時、ブレヒトは自身の心臓が一瞬止まってしまったかのような壮絶な思いを味わった。

 その時、メルシィの傍にはなぜかエリゼがいたが、あの状況下ではとてもじゃないが彼女のことを気に掛けている余裕などなかった。メルシィの顔は干上がった魚の鱗のように真っ青で、唇の端から白い泡を滴らせていた。救急車を呼ぶ暇も惜しく、ブレヒトはメルシィを抱き上げると一目散に階段を駆け下りて家を出た。長年乗っていなかった自家用車の後部座席にメルシィを寝かせると、家にエリゼがいることさえ忘れて、門の鍵も閉めずに病院へと直行した。

 しかし、後で考えてみると、あの時メルシィの側にエリゼがいたことが不思議に思われてならない。ブレヒトは、あの時のエリゼの顔を度々思い出した。何の感情も浮かんでいない、人形のような空虚な眼差し。固く結ばれた唇。エリゼは自分の意思でメルシィの元へ行ったのだろうか。だとしたらそれは、メルシィを助けようとしたということか?それは即ち、我が子の心は元に戻る可能性があるということか?

 ブレヒトは考えるのをやめた。今までだってそうやって、娘の微細な表情の変化に胸を躍らせた結果、一人絶望に暮れてばかりだった。メルシィにも言ったじゃないか。一度壊れた心は二度と元には戻らないのだ。エリゼがただ生きていてくれるだけでいい。それだけでいいのだ。

 だが、それにしてもメルシィの変わりようときたら、まるで別人──いや、完全に治ってしまったかのようだ。あの子は一体、なんなんだ。人々の心無い言葉によって精神を壊され、発狂に至り、遂には自らその命を絶とうとさえしていた、あのメルシィと、今目の前で笑っているメルシィは本当に同じ人物なのか?ブレヒトは、メルシィがほんの少し、恐ろしく思えた。

 まるで、心を壊した後のことを完全に忘れてしまっているかのようだ。メルシィはブレヒトに無邪気に笑いかける。「メルシィ」と院内の廊下で名前を呼ばれると、笑顔で答える。元気の無い顔をした人がいれば、たとえ初めて話す人であっても明るい言葉で励ます。いつの間にやら病院内では、メルシィについて話す好意的な声がよく聞かれるようになっていた。ブレヒトは人々からメルシィを遠ざけるように、半ば強引にメルシィを家に連れ帰ったのだった。



 *



 ブレヒトの運転する車は、待ち望んでいた場所へメルシィを運んだ。助手席から見える街の景色は決して美しいとは言えないが、メルシィの目には、過ぎ去っていくあらゆるものが唯一無二の素晴らしいもののように見えた。騒々しい街の中心から外れ、閑静な住宅街の中を車は進んだ。窓から見える景色が、次第に見覚えのある懐かしい光景へと近付いていく。坂の向こうに見慣れた屋根のくすんだ色合いを見た瞬間、メルシィの胸は大きく弾んだ。今すぐにでも車の外へ飛び出して、懐かしいあの家へと駆けていきたい衝動に駆られたが、そうするまでもなく、車はすぐに家の前へ辿り着いた。

 ブレヒトが先に車から降りて、門を開けに行った。門が開く時の耳につく音さえも、メルシィはひどく懐かしく、愛おしく感じた。

 早く降りたくてたまらないといった様子のメルシィを見兼ねて、ブレヒトは助手席の扉を開けてやった。メルシィは満面の笑みを浮かべながら、籠の中の鳥が空へ飛び立つように、家へ向かって真っ直ぐに駆けていく。

 その時、家の扉が内側から開き、その中から二人の人物が姿を現した。その姿を認めた瞬間、メルシィの目からは自然と涙がこぼれ落ちた。

「おかえりなさい。メルシィ」

 メルシィは二人の身体を包み込むようにして、両腕を大きく広げた。

「ただ、ま……ただい、ま……!」

 嗚咽混じりの声にならない「ただいま」を、メヌエは柔らかい微笑みを以てして迎え入れた。メルシィの発狂によりメヌエまでもが精神を壊してしまう可能性を危惧して、ブレヒトは一時は彼女に暇を与えたが、メヌエ本人の強い希望もあって、再び家政婦としてこの家で働くことになったのだった。

 その隣にいるエリゼはというと、相変わらずの無表情ではあったが、ずっと帰りを待っていてくれたのだとメルシィにはわかった。死の淵にいたメルシィを救いあげたのは、他でもないエリゼなのだから。

 メルシィがエリゼの手を握ると、何の感情も浮かんでいなかった瞳に微かな光が灯ったように見えた。エリゼは、涙でくしゃくしゃになったメルシィの顔を不思議そうにじっと見つめている。

「エリゼ、ありがとう。エリゼが私を助けてくれたんだよ。人と関わることは怖いけど、対話を放棄すれば、ずっと怖いままだもんね」

 メルシィの言葉に対して、エリゼがなにか答えたり頷いたりすることはない。時が止まった眼差しを、ただじっとメルシィに向けている。しかし、この言葉はエリゼに届いているはずだ。メルシィはそう信じ、初めての友の身体を両腕でやさしく抱きしめた。



 *



 メルシィが退院して家に帰ってくる前に、ブレヒトはメヌエに協力を仰ぎ、家の中にある物の整理を行った。ブレヒトの書斎や寝室にある薬品類はもちろん、キッチンにあるナイフ、鋏、カッター……危険だと思われるものは全て、メルシィの目の届かない所へ厳重に隠された。整理を終えてから、初めからこうしておくべきだったのだと、ブレヒトは自らを省みた。

 病院で目を覚ましたメルシィは、奇跡をその身に宿してブレヒトの元へ舞い戻ってきた。この国の言葉で「メルシィ」は「奇跡」を意味する。まったく、本当に良い名前を授けてもらったものだ。そういえば以前本人に聞いた話によると、メルシィという名は祖父につけてもらったんだとか。

 そういえばメルシィは、目を覚ました後にこんなことも言っていた。「夢の中でエリゼが助けに来てくれた」と。メルシィが家にやって来てから、エリゼは何回か「メルシィ」と彼女の名を呼んでいた。どうして父である私や、長いこと一緒にいるメヌエではなく、メルシィの名を呼ぶのだろうと少しばかり切なく思っていたが、きっとエリゼは、メルシィに伝えたいことがあったのだろう。だとしたら、それは二人だけの夢の中で伝えられたのだろうか。

 エリゼがメルシィに何を伝えたのかはわからない。それは二人の裡に仕舞っておいた方が良いもののように思われたから、敢えて聞くようなこともしなかった。メルシィは、エリゼに助けられたと言っている。メルシィが元気になったならそれで良いのだが、奇跡と言うだけでは説明のつかないことがある。心を壊し、幻覚や幻聴に苛まれ、それまで会話も困難な状態であったメルシィは、自らその命を絶とうとした。それが目覚めた時には、すっかり元に戻っていたのだ。こればかりは本人に聞くことしかできないが、幻覚や幻聴もなくなったらしく、身も心も健康そのものといった様子で、明るい笑顔を振り撒いているのだ。

 一体メルシィの身になにが起こったのか。精神科医の知り合いを何名か当たってみたが、難しい顔で首を傾げたり、的外れなことを言うばかりで、結局良い答えは得られなかった。精神とは人体の中で、最も神に近いところにあると昔から言われている。言われていることはブレヒトも知っていたが、そのことについてそれほど深く考えたことはなかった。しかし、メルシィの精神になにが起きたのか、自身を含む精神科医でさえも説明できないのだ。ブレヒトは誰に、そして何に感謝していいのかもわからず、メルシィが無邪気に笑っている、今の状態に感謝を捧げることにした。そうすると、荒んでいた心が次第に穏やかになっていき、これを毎日続けていれば、今よりも更に幸せになれるような気がした。




 *




「またお話会がしたいです」

 ブレヒトは、メルシィがそう言い出すのではないかと気を揉んでいたが、その予感は的中した。

「だめだ」

 厳しめの声でブレヒトがそう言うと、メルシィはしょんぼりとした様子で、「そう、ですよね……」とこぼすのだった。

 そんなこと、許可できるはずがない。メルシィはお話会で多くの人々と話をしたことによって、徐々に精神を蝕んでいったのだ。お話会にやって来る連中が、メルシィに対して好意的な者だけなのであればまだいいが、門を開放していれば、得体の知れない輩だって入ってくる。そういう大人は少女の純粋な気持ちを偽善だと決めつけ、子供のままごとだと言って嘲っては庭に唾を吐いていくのだ。

 しかし、本当はそういう人間こそ救うべきなのかもしれない。いつまでもメルシィを家の中に閉じ込めておくわけにはいくまい。学校、仕事場……外には色々な人間がいる。中には酷い言葉を平気で言ったり、道理を外れた行為に溺れる者に遭遇することもあるだろう。しかし、この世界で生きるには、それは避けては通れないことなのだ。

 わかっている。それはブレヒト自身が一番わかっているのだが……メルシィの美しい心に、またしても傷を付けられたらと思うと、今度こそブレヒトは正気を保っていられる自信がなかった。

「ジゼル、君はどう思う」

 ブレヒトは時折こうして、写真の中の妻に向かって問いかける。書斎の机の上に立て掛けてあるその写真には、幸せそうな三人家族の笑顔があった。

「難しい問題だ」

 写真の中で微笑む妻が答えてくれることはない。ジゼルならどうしただろう。私のように、メルシィを家の中に閉じ込めておくだろうか。もちろんそれは、メルシィを守るためにやっていることだ。ジゼル、君は──君なら、メルシィの自由を尊重して、あの子のやりたいようにさせるのかもしれない。

「難しい問題ね、あなた」

 懐かしく穏やかな妻の声が聞こえたような気がした。

 ああ。本当に、難しい問題だ。





 退院して家に帰って来てから、メルシィは以前にも増してエリゼの傍を離れないようになった。家庭教師が帰って宿題を済ませると──ここで言う「家庭教師」がサンデルでないことは言うまでもない──メヌエになにか手伝うことはないかと聞き、ないと言われれば、その後は就寝前までエリゼの隣で過ごすのだ。リビングの二人掛けソファがエリゼの定位置だが、メルシィはその日やらなければならないことを全て済ませると、お気に入りの本を一冊持ってエリゼの隣に腰掛けるのだった。

「エリゼは本は読まないの?私はね、今日はこれを読むの。冒険小説なんだけど……」

 メルシィの言葉に対してエリゼはなにか答えることもなければ、表情を変えることもない。傍から見れば二人の少女の様子は異様なものにさえ映る。メルシィが透明人間か、もしくは幽霊のようだと錯覚する。仲違いしていて無視を決め込んでいるというのでもない。エリゼにはメルシィが見えていないし、その声も聞こえていない。それでもメルシィは、エリゼに話しかけ続ける。




 死の淵で一人迷子になっていた私を見つけ、手を差し伸べ、励ましてくれたエリゼ。エリゼと言葉が交わせるだけで、私の心は晴れ渡る。今まで抱えていた悩み事なんて、些細なことのように思えてくる。

 エリゼが優しい言葉で私を救ってくれたように、やっぱり私も、悩みを抱えている人たちを少しでも元気づけたい。ブレヒトさんには駄目だと言われているけど……だけどきっと、私はその為に生きている。

 そして同時に、私はエリゼを救いたい。心無い行為や言葉に閉ざされてしまったエリゼの心。絡まった茨を温かい言葉で一つずつ解いていくことができたなら、いつか私は、絶対にあなたを見つけ出せる。そうしたらその手を取って力強く引き上げて、そこでようやく私たちは、お互いの目を見て話ができる。ただ、もし万が一、あなたの心の奥深くにまで茨の棘が突き刺さり、心を破壊することでしか棘を取り除けないのだとしたら……その時は私の心をあげる。私なんかの心でいいのなら、だけど。それは哀しいことではないはずだから。あなたの心の中で共に生き続けられるなら、それはなかなか素敵なことだと思うの。




 これはメルシィの日記に書かれていたことだ。仕事で遅く帰宅したブレヒトが、ノックをしてからメルシィの部屋に入ると、メルシィは部屋の明かりを点けたまま、勉強机に突っ伏して小さな寝息を立てていた。夜遅くまで勉強していたのかと思い、机に広げられていたノートに視線を落とすと、このようなことが書かれていた。

 誰かを元気づける為に生きている、か……

 メルシィは心の底からそう思っているのだろう。でなきゃ、日記に書いたりなんかするはずがない。

 眠っているメルシィは、天使のように愛らしい。子ども特有の、ふっくらとした桜色の頬。人形のように長い睫毛。触れれば光の粒となって消えてしまいそうなほどに繊細な、黄金の髪。メルシィは自分自身がか弱い、守られるべき存在だということも忘れて、その小さな手で誰かを救おうとしているのだ。果たして私に、メルシィを籠の中に縛りつけておく権利があるだろうか。もしかするとこの子なら、この腐敗した世界でさえも、本当に変えてしまうかもしれない。

 皺の刻まれた骨張った指先が、メルシィの額をそっと撫でる。慈しむように優しく。落ち窪んだ瞳は、少女の寝顔を愛おしそうに映していた。

 そうして彼は、偶然手に入れた美しい鳥を空へと放つ覚悟を決めた。飛び立った鳥が帰って来ないかもしれないとわかっていながら、それでも空を、その小さな命ではとても抱えきれないほどの自由を与えることに決めたのだ。

 しかし、後に引き起こされる悲劇をこの時知っていたなら、彼がこのような選択をすることは決してなかっただろう。

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