XIII

 ふと気が付くと、メルシィは家のリビングにいた。キッチンから食器の擦れ合う音が聞こえて、振り返るとメヌエが忙しなく昼食の支度をしている。しかし、不思議と料理の匂いはしない。「メヌエさん」と呼びかけても、メヌエはメルシィの声が聞こえていないかのように振舞った。メヌエはメルシィの方を見ようともしない。だが、無視を決め込んでいるという風でもなかった。メルシィの存在に気が付いてさえいない様子なのだ。

 ああ、これは夢か。

 メルシィはメヌエに呼びかけるのをやめた。メヌエはもういない。私が追い出してしまったようなものだ。ごめんなさい。

「ごめんなさい」

 許しの代わりに返ってきたのは、食器の擦れ合う無機質な音のみであった。

 その時、ドアベルが鳴った。リビングの掛け時計に目をやると、ちょうどサンデルがやって来る頃合いだ。メルシィは玄関まで駆けていった。ドアを開けると、爽やかな微笑を浮かべたサンデルが立っている。しかし、その笑みにはどことなく違和感があった。メルシィがドアを開けたのに、サンデルはメルシィの方を見ようとしない。廊下の奥を笑顔でじっと見つめている。まるで、サンデルを忠実に再現した蝋人形のようだとメルシィは思い、途端に恐ろしくなった。メルシィはサンデルの前でドアを力強く閉めると、廊下をほとんど滑るようにして走り、リビングへ戻った時には息が切れていた。

 キッチンへ目を向けると、メヌエは冷蔵庫を開けたり、卵を割ったりと、相変わらず忙しそうに動き回っている。しかし、昼食が出来上がる気配は一向に感じられない。一体なにを作っているのだろう。今日の昼食が出来上がる時は、果たして訪れるだろうか。私は、彼女が作る食事をまた食べることができるだろうか。私がなにか間違いをしたら、窘めることはあっても決して声を荒げて𠮟りつけるようなことはしなかった。穏やかで知的で、彼女のようになりたいとさえ思っていた。同じくらい、私はサンデル先生のことも愛していた。簡単な問題でも、正解すれば大袈裟なほどに褒めてくれた。先生をもっと喜ばせたくて、難しい問題も解けるように頑張った。「すごいぞ。メルシィは天才だ!」そう言って頭を撫でてくれた骨張った大きな手。先生、どうしていなくなってしまったの。どこにいるの。私は、どうしたらいいの。


 ドンドン、と拳をドアに叩きつけるような不躾な音が聞こえて、メルシィははっとして顔を上げた。先生だろうか。さっき私がドアを閉めてしまったから、怒らせてしまったのだろうか。いやしかし、先生はあんな風にドアを乱暴に叩いたりはしないだろう。ドンドン、とドアを叩く音は次第に大きくなり、ドアが壊されるのではないかとメルシィが恐怖を覚えるほど、狂気じみた音になっていた。ドアを叩く手が増えた。また増えた。また増えた。何人もの人々が、力ずくでドアを打ち破ろうとして、血の滲むほど強く、拳を叩きつけている。

「……いや」

 唇から漏れた小さな悲鳴は誰にも届かない。メルシィ本人さえ聞き取れないほどだった。そんな彼女を嘲るように、ドアを叩く拳は更に数を増していく。終いには、リビングの窓にまで……

「いや……いやああああああ!」

 メルシィは両耳を塞ぎ、倒れ込むようにして力無くその場に屈み込んだ。きつく閉じた瞼の僅かな隙間から、生温い涙が湧き出て頬を伝い、カーペットに黒い染みを作り上げた。

 玄関のドアやリビングの窓ガラスを叩く拳は数を増し、脳内を搔き乱す不協和音と化した。メルシィは、これが夢なのだということさえ忘れていた。

「ごめんんさい……ごめんなさい……」

 譫言のようにぶつぶつと繰り返し呟くうちに、それが何に対しての謝罪なのか、誰に対しての謝罪なのかさえわからなくなってきた。

私はなにか悪いことをしただろうか。そう思った瞬間、そんな彼女を咎め立てるように罵声の嵐が吹き荒ぶ。

「おまえの所為だ!」

「人助けは金儲けの手段なのか!」

「なにが天使よ!本当は悪魔じゃない!」

 みんな勝手なことばかり言う。自ら天使を名乗ったことなど一度もない。私だってあなた達と同じ人間だ。何事にも動じない、強い心を持っているわけでもない。

「メルシィ、助けて……!」

「メルシィ、メルシィ……!」

 メルシィ、メルシィ、メルシィ……

 突然あたりが静かになった。

「メルシィ」

 聞き馴染みの無い鈴の音のような声に名前を呼ばれ、メルシィは恐る恐る泣き腫らした顔を上げた。そこに立っていたのはエリゼだった。父親譲りのサファリンのような大きな瞳が、真っ直ぐにメルシィを見つめている。

 メルシィは驚いた。エリゼに名前を呼ばれたこともそうだが、なによりも、その愛らしい顔に微笑を浮かべていることに驚いた。薄桃色の唇は心持ち口角を引き上げ、長い睫毛に覆われた切れ長の目は、愛おしそうにメルシィを見つめている。驚きの余り、メルシィは暫しの間言葉を忘れてしまった。メルシィが石化したかのようにいつまでも黙っているので、少し不安になったのか、エリゼの方が先に口を開いた。

「メルシィ。ようやくあなたと話をすることが出来て、とても嬉しい。と言っても、これはあなたの夢の中なのだけれど」

 その言葉で、メルシィは自分が夢を見ているのだということを思い出した。同時に、たとえこれが夢であったとしても、エリゼの声を聞くことができて嬉しくてたまらなかった。

 メルシィはふらつきながら力無く立ち上がると、倒れ込むようにしてエリゼの身体を抱き寄せた。自分より数センチ背の高いエリゼの肩に顔を圧しつけ、声を上げて泣いた。ここのところ食べ物も碌に喉を通らない日々が続いていた所為で、メルシィは短い期間で随分と瘦せた。背骨の浮き出たか細い背中を、エリゼの手が繊細なガラス細工を扱うように丁重に撫でた。

「エリゼ、エリゼ……!私も、ずっとエリゼと話がしたかった。私の初めての友達……エリゼ、だいすき……」

 エリゼの掌がメルシィの頭の上にそっと置かれ、滑らかな長髪を指先が掠めた。これが夢だと言うなら、二度と目覚めたくはない。メルシィはそう思った。現実は恐ろしい。狡猾な人間が優しそうな顔をして、街中を闊歩しているのだ。この世界は神様が用意した一つの舞台である。人々は皆、与えられた役の演技をしているに過ぎない。学生、医者、パン屋、警察、泥棒、金持ち、貧乏人、娼婦、物乞い……自らの役に相応しくない行動は慎まなければならない。そうしないと、他の役者やこの舞台を指揮する何者かの手によって、舞台から引き摺り下ろされてしまうのだから。

 目も当てられないほど酷いこの舞台、いっそのこと自ら暗い客席の方へと飛び降りて、逃げ出してしまおうか。飛び込んだ先は何も無い奈落へと続いていることだろう。それでもいい。それでもいつかは奈落の先で、大好きな人たちに巡り会えるかもしれない。

「メルシィ……寂しいけれど、もう行かなきゃ」

 泣き腫らした赤い目が深い哀しみの色を滲ませた。

「どうして……?せっかく話せたのに……それに、行くってどこへ……?」

「お父様のいるところへ帰るだけよ。メルシィ、あなたもそうでしょう?私たちの帰るところは同じ。だからそんなに哀しそうな顔をしないで」

 エリゼはそう言って微笑みながら、メルシィの頬を濡らす涙を指先で拭った。その笑みは、とても同い年とは思えないほど大人びた、子どもを優しく諭すような、慈愛に満ちた顔だった。そのあまりの高潔さに、メルシィは時が止まりでもしたかのように、じっとエリゼに魅入っていた。それと同時に、メルシィは十数年の人生で初めて精神の浄化を味わった。人々の悪意を受けて脆くも壊れてしまった心が、逆再生のように修復していくような心地がした。


 私はひどく愚かだった。あれほど人々との対話を望んでいたにも関わらず、彼らが私のことを悪く言い始め、悪意に満ちた眼差しを一斉に受けた途端に、自分を守るために精神を壊してしまった。精神は命と同じくらい、大切なものであるはずなのに。私の精神は壊されたのではない。自ら壊したのだ。地獄のようなこの舞台から退場することは簡単なように思えるが、傷付き、精神を擦り減らしても尚、生きたいと願う人がきっと大勢いる。そう考えると、この世界も捨てたものではないように思えてくる。精神の死は結末ではない。そこに悪意が無くとも、他者の口から発せられた鋭利な言葉によって人の心は簡単に壊れてしまうが、優しい言葉や視線、体温、笑みから滲み出る労わりは人を救う。だからみんな、私に救いを乞うたのだ。


 どこからともなく湧き起こった白い霧が、目の前にいるエリゼの顔を見えなくしていく。メルシィは腕を伸ばしてエリゼの手を取ろうとしたが、霧の感触が手の中を掠めただけで、エリゼの姿はみるみるうちに遠くの方へと消えてしまった。

「エリゼ!」

 メルシィは叫んだ。

「ありがとう!大好きよ!」

 霧の向こうで、エリゼが笑ったように見えた。



 *



 メルシィ……メルシィ……メルシィ……!

 誰かが呼んでいる。優しくてどこか懐かしい、大好きな低い声。……お爺様?

「……シィ。メルシィ!」

 瞼を開くと、眩い光が暗闇に流れ込んできて、開きかけた目を思わず閉じてしまいそうになった。窪んだ目に涙をいっぱい溜めたブレヒトが、嚙み過ぎて薄く血の滲んだ青白い唇を震わせながら、メルシィを覗き込んでいる。

「……ブレヒト……さん……?」

 どうしてか声がうまく出せなかった。肺から喉、唇にかけて痺れるように疼き、口を開くことさえままならない。

 メルシィは見慣れぬ部屋のベッドに横になっていた。室内にあるほとんどの物が白か灰色で統一された、清潔感はあるがどこか無機質な部屋だ。

 とても長い夢を見ていたような気がする。どこからどこまでが夢だったのかさえ覚えていない。……そうだ。エリゼ。夢の中でエリゼと話した。

 ぎこちない動きで起き上がろうとするメルシィを、ブレヒトは慌てて止めた。

「まだ起きない方がいい。君は二日間ほど眠っていたんだ」

 そう言われて、メルシィはぴたりと動きを止めた。どうして二日間も眠っていたのか、まるで思い出せないのだ。もはや今までのことが全て夢であったかのようにさえ思えてくる。ブレヒトにも、随分と久々に会うような気がした。見ない間に、ブレヒトはかなり衰えたようだ。口回りと頬は灰色の短い髭に覆われていて、その下にある血色の悪い皮膚を更に病人のように見せている。率直に言って今のブレヒトは、とても精神科医には見えず、病院の中ですれ違った誰もが精神科に通う患者だと思い込むだろう。その後で、身に着けている白衣に気付いて驚くかもしれない。

 落ち窪んだ灰色の瞳がひどく哀しそうにメルシィを見つめている。決して責め立てるような目ではなく、悲嘆に暮れた光の無いか細い眼差しが、メルシィの方へ向けられていた。彼が元気を失くしてしまったのは、恐らく自分の所為なのだろう。そう思うと、自分がなにをしてしまったのかは思い出せなくとも、自然とこの言葉がこぼれ落ちた。

「……ごめんなさい」

 返ってきたのは静寂。ブレヒトは疲れ切った瞳を細め、力無く微笑んだようだが、その笑みを見ると、なぜか余計に胸がぎゅっと締めつけられて、メルシィは思わず俯いてしまった。

「メルシィ。君は自分がなにをしたのか、覚えているかい?」

 その声は聖人の問いかけのように穏やかで、メルシィは自身がとんでもない過ちを犯してしまったのだということを悟った。しかし、思い出せない。思い出すことを脳が拒んでいるかのようだった。メルシィが言葉を詰まらせて黙り込んでしまったために、見兼ねたブレヒトが重々しく口を開いた。

「……いや、いい。覚えていないなら、思い出さない方がいいだろう。そうだ。何か飲み物を買って来よう」

 ブレヒトはそう言って立ち上がると、薬品で所々が黒ずんだ白衣を翻し、メルシィの返事も待たずにそそくさと部屋の外へ出て行った。部屋の中にはメルシィ一人が残された。耳を澄ませてみると、扉の向こうを歩く忙しない足音や、誰かの話し声、窓ガラスをノックする、風の高鳴りが微かに聞こえてくる。天井の上が一際騒々しい。ドンドンとベッドの上を跳ね回るような鈍い音が聞こえたかと思えば、女性の甲高い悲鳴が小さく聞こえて、メルシィは少し恐ろしくなった。カーテンを開けて外を見てみたいと思ったが、ベッドからは手が届かなかった。ベッドから下りればいいのだとわかっているが、身体の中を流れる焼けつくような痛みの所為で、立ち上がることさえままならない。メルシィはう、う、う、と小さな呻きを漏らしながら、ゆっくりと再び横になった。

 喉が痛い。肺が痛い。胸が痛い。神経が痛い。身体の中にあるもの全てがボロボロに焼け落ちてしまったような感じがする。痛い。痛い。あまりに痛くて涙が出てきた。生きることは痛いことなのだと、メルシィはこの時痛感した。それでも生きていてよかったと、今は心の底から思う。

 その時、部屋のドアが開かれる音がして、大きな足音がまっすぐにメルシィの方へ向かってきた。メルシィは窓の方を向いて寝ていたから、ブレヒトが戻って来たのだと思い、重い身体をゆっくりと足音の方へ向けようとした。その動きを封じるように、二本の大きな腕がメルシィの身体を包み込んだ。真っ白な世界。ブレヒトの胸からは、ほんのりと鼻をつく薬品の匂いと、煙のような甘い匂いと、染みついた涙の匂い、色々な匂いが混ざり合ったようなブレヒトの匂いがして、メルシィはもっと彼の匂いを吸い込もうと、固い胸に更に顔を圧しつけて泣いた。二人で、声を上げて泣いた。

「この……ばかもの!」

 メルシィがブレヒトに叱責されたのは、この時が初めてであった。祖父にも殆ど叱られたことのなかったメルシィは、頭上で響く地響きのような怒鳴り声を聞いて、小さな子どものように泣きじゃくった。

 自ら死を選ぶほどに、私は追い詰められていたのだろうか。メルシィは考えたが、死に値するようなことは何一つとしてなかったように思われた。辛く苦しいことが立て続けに起こり、現実と虚妄の入り混じる心無い声によって精神は確実に蝕まれていたが、生きていることに比べれば、死が随分と安っぽいもののように感じられた。今まで自分が味わってきた苦しみや絶望は、果たして死ぬほどのことだったのか。死に見放され、生の耀きの前に突き出されて、心の底から安堵した。ブレヒトの手の温もりは紛れもなく本物で、優しいこの人を悲しませるなど、愚かなことだと悟った。



 *



 メルシィは医師も驚くほどの凄まじい速度でみるみるうちに回復し、口を開けばブレヒトに「早く家に帰りたい」とこぼすようになった。ブレヒトの根回しによりメルシィには個室が当てられていたが、ブレヒトが「勝手に部屋の外に出てはいけない」と口を酸っぱくして言い聞かせていたにも関わらず、仕事で忙しくしている彼の目を盗み、院内を一人で出歩くようになった。廊下などでブレヒトとたまたま出会わした時には、メルシィはとても病人とは思えないほどの子供らしいすばしっこさで身を隠す。眉間に深い皺を寄せるブレヒトであったが、傍から見れば仲の良い親子のかくれんぼにしか見えない。人の好い看護師は微笑ましそうに笑いながら、二人のやり取りを眺めていた。当然のことながら、メルシィはその後個室に戻され、お説教を受けることになる。

 ブレヒトは重々しい溜息を吐くと、怒っているというよりかは懇願するような目でメルシィを見遣った。

「メルシィ。何度言ったらわかるんだ。勝手に部屋の外に出るなとあれほど言っているだろう。君はもっと聞き分けの良い子だと思っていたんだが……一体どうしたんだ?」

 この言葉にある通り、それまではメルシィがブレヒトに言いつけられたことを破ることなど、全くと言っていいほどなかった。メルシィはベッドの上でしょんぼりと身を竦めた。

「ごめんなさい。どうしても退屈で……外には人がいっぱいいるから、少し誰かと話したいと思っただけなんです」

 メルシィの口から発せられた思いも寄らない言い訳に、ブレヒトは思わず頭を抱えた。一体、メルシィの身になにが起きたというのか。つい数日前までメルシィは自室に籠り、発狂と沈黙を絶えず繰り返していたのだ。とても人と会話ができるような状態ではなかったが、それが今となってはどうだ。数日前までは精神疾患の演技をしていたとでも言うように、けろりとした顔で「誰かと話したい」などと言っている。一見喜ばしいことのようにも思えるが、もしかしたら、今の状態も含めて一つの疾患なのかもしれない。

 ブレヒトはベッド横の丸椅子に腰かけると、目線をメルシィの顔の高さに合わせ、幼い子に言い聞かせるようにゆっくりと話し始めた。

「メルシィ。一体どうしたというんだ。君が元気になったならそれは良いことだが、私はとにかく心配なんだよ。君は以前なにがあったか覚えているか?私だって思い出したくもない──誰かが考え出したあの忌々しいイベントのことだ。君に言ってもわからないかもしれないが、君が考える何倍も、人間は狡猾で利己的な生き物なんだよ。良い人なんてほんの一握りしかいない。そう言う私だって、自分が良い人だとは思わない」

 メルシィはいくら考えても、ブレヒトがどうして哀しそうな顔をしているのかわからなかった。しかし、彼の哀しみの原因が自分にあるということだけは理解していたので、その原因がどうしてもわからないことが余計にメルシィを苦しめた。なにがブレヒトの心を傷付け、苛むのか。メルシィはただ、ブレヒトに笑っていてほしいと思った。ざらついたブレヒトの頬に、メルシィの花弁のような柔らかい掌が触れた。

「ブレヒトさん、あなたは良い人です。そして、誰よりも優しい人です。だってあなたは、身寄りのない私を助けてくれたではないですか。あなたがいたから、あなたと出会えたおかげで、私は……」

「やめろ!」

 ブレヒトが発したとは思えぬ怒号にメルシィの言葉は砕かれ、部屋には静寂と、威嚇する獣のようなブレヒトの息遣いだけが残った。

「やめてくれ……もうたくさんだ。私は良い人なんかじゃない。君を助けたのだって、君を利用しようとしていたからだ」

 骨張った両手で顔を覆いながらそう話すブレヒトの声は、先ほどの怒号とは打って変わって、今に消えてしまいそうなほど弱々しいものだった。メルシィは、自分がここにいては──彼の傍にいてはいけないような気がしてきた。利用とは一体、どういうことだろう。それで彼が救われるのであれば、利用してもらっても構わないとさえメルシィは思った。ブレヒトが今のように辛そうにしていることの方が、何倍も苦しかった。そのことを伝えようと口を開きかけるが、どうしてか言葉が上手く出て来ない。自分の言葉によってブレヒトを更に苦しめてしまわないだろうか。メルシィはそれがなによりも恐ろしく、どうしていいかわからなかった。

 窓の外で子どもの甲高い声が聞こえた。子どもの元気な声も、随分長いこと聞いていなかったような気がする。無邪気な声は、ブレヒトに過ぎ去った日々の淡い記憶を思い起こさせた。それほど広くはないものの、家の庭は彼にとって、この世界のどこよりも美しい場所だった。そこには愛おしいものが全て存在していたのだ。虹色の陽射しを浴びてきらめく、色鮮やかな草花に触れる白い指先……私の天使。かけがえのない存在。たとえ外の世界が腐敗していたとしても、私たちはこの家で、いつまでも笑いながら生きていくのだと思っていたのに……

「すまない」

 ブレヒトはか細い声でそう言いながら、疲れ切った弱々しい笑みをメルシィに向けた。

「本当にすまなかった。私は君の綺麗な心を、エリゼに移植しようと考えていた。その為に君を助けたんだ。メルシィ、君には君の人生があるとわかっていたのに……」

 メルシィの小さな手を、ブレヒトの手が包み込んだ。その上に落ちた、透明な雫。メルシィはそれを、とても綺麗だと思った。

「メルシィ。君の心は君だけのものだ。壊れたら替えが効かない、この世界でたった一つだけのものなんだ。だからどうかお願いだ。その綺麗な心を、いつまでも失わないでくれ。大切にしてくれ。誰にも奪われないで、守り通して生きてくれ……」

 大きくて温かいブレヒトの手の隙間から流れ込んできた涙が、メルシィの手をそっと濡らした。その涙がメルシィのものであったのか、それともブレヒトのものであったのかは、誰にもわからない。


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