秋風が木の葉を運ぶよりも早く、メルシィの評判は瞬く間に街中に広まった。仕事が忙しく、結局一度もお話会の様子を見に行けずにいたブレヒトは、診察中に患者からメルシィの話を耳にして狼狽したほどだった。閑静な住宅街の一角に建つ家の前には、毎日長蛇の列ができたが、実際にメルシィと話ができたのは、早くから来て列の前の方に並んでいた三分の一程度の人々だけだった。

 毎日何十人もの人々と数分おきに話しながら、メルシィが辛そうな顔や嫌な顔を見せることは一切なかった。メルシィは喜怒哀楽のうち、怒と哀の文字を持ち合わせていないのではないかと、サンデルは本気で考えたほどだ。メルシィが悩みを解決してくれるわけではない。未来を言い当ててくれるわけでもない。それでも人々はメルシィの元にやって来て、辛い気持ちや苦しい気持ちを涙ながらに吐き出すのだ。メルシィは一人一人の話に対して真摯に耳を傾け、彼らと共に純白の涙を流した。「お辛いですね」メルシィがただ一言そう言っただけで、人々は神の言葉でも聞いたかのようにひどく感激した。街の外から新聞記者がやって来て、その後メルシィのことが紙面に掲載されると、「小さな聖女様」の評判は国中に広まった。犯罪や戦争のことばかり書かれている灰色の紙面の中で、天使のようなメルシィの笑顔と「お話会」の評判は、暗雲の中で一際強い光を放つ一等星の如く、荒んだ社会を照らしていた。新聞には、実際にお話会でメルシィと話した人のエピソードも掲載されていた。


「初めに言っておきます。彼女はこの寂れた世界に舞い降りた本物の天使です。彼女の噂を初めて聞いた時は、正直に申し上げると、胡散臭いと思いました。十代前半の女の子に不特定多数の人々と話をさせて、商売の道具にしている。世も末だと、その時は思っていました。ですが友人に誘われたこともあり、野次馬心でついて行ってみると、長いこと列に並ばされて苛々していた私を、彼女は優しい笑顔で出迎えてくれました。『お待たせしてごめんなさい』初めに彼女はそう言って、申し訳なさそうにぺこりと頭を下げました。なんて無垢で可憐なんだろう!自分でもあの時のことが不思議ではあるのですが、その姿を見た私は猛烈に自分のことが恥ずかしくなってきて、この小さな少女になにもかも打ち明けたいと思ったのです。私が日頃悩んでいることや辛い心情を吐き出すと、彼女は嫌そうな顔をするどころか、一緒に涙まで流してくれました。それだけで随分救われた気持ちになり、これからも生きていこうと思えたのです。彼女の不思議な力は、正しく天使の力だとしか言いようがありません。メルシィ、本当にありがとう。」


 その記事はメルシィ本人の目にも触れ、彼女とサンデルを大いに喜ばせたのだった。それに対してブレヒトとメヌエはあまり良い顔をせず、エリゼは何の反応も示さなかった。

 家の門から外へと伸びる列が長くなるほど、お話会の時間も長くなり、始めてから三カ月ほどが経った頃には、夕方頃まで家に人が訪れた。中にはメルシィの噂を聞きつけて、はるばる遠方からやって来たのだと言う人もいた。そんな時、メルシィはたとえお話会の終了時刻を過ぎていても、その人を庭に通し、最後まで相手の話に耳を傾けた。

 その日、メルシィは薄明の中、家の門の前に立ち、その日最後の訪問客が遠去かっていくのをいつまでも見送っていた。やがて訪問客の姿が完全に見えなくなっても、メルシィは暗い通りの向こうをじっと見つめたまま、なかなか動こうとしなかった。

「メルシィ、疲れただろう。寒いし、家の中へ入ろう」

 サンデルにそう言われて、メルシィははっとした表情を浮かべた。

「……はい。そうですね」

 サンデルには、その微笑が心なしか小さく、元気を失くしてしおれているように見えた。

 ここ最近のメルシィは、こういったことが多い。呼び掛けてもどこか遠くを見つめたまま、すぐに答えないことがあったり、思いつめたような顔をしていることが日に日に増えていった。お話会に時間を取られ、疲れが溜まっている為か、大好きだった本も殆ど読まなくなった。お話会が計画の何倍も大きな反響を呼んだことは喜ばしいが、メルシィとの対話によって笑顔になる人々の数と反比例して、メルシィは養分を吸い取られていくようだった。しかし、それでもお話会を続けたいと言ったのはメルシィ本人なのだ。以前、心配したサンデルが「お話会は一旦停止しようか」と、メルシィに提案を持ち掛けたことがあったが、その際メルシィは語気を強めて「だめです!お話会は続けなければ!」と、初めて声を荒げたのだ。その後、メルシィはいつになく哀しそうな顔になり、逃げるように自室へと籠ってしまった。

「メルシィ!メルシィ!」

 ドアを叩くサンデルの声だけが、家の中に虚しく響いていた。

 そのことがあった三日後、サンデルは急遽ブレヒトに呼び出された。普段、サンデルに積極的に話しかけることのないメヌエに声を掛けられたと思ったら、「旦那様が二人で話をしたいと申しておりました」と、淡白に伝えられたのだ。ブレヒトからの話とは、間違いなくメルシィに関してのことだろう。メルシィを間に交えず二人だけで、というところが多少気になりはしたが、サンデルは応じないわけにもいかなかった。一日の裡ほとんどの時間をお話会に取られてしまい、勉強を教えている時間は週に二、三時間にまで減っていたが、これでもサンデルは家庭教師としてこの家に雇われているのだ。

 もしかしたら、もうこの家にはいられないかもしれないな。いや、それだけならまだいいが……

 サンデルは用心して、自宅の棚の引き出しから薄っすらと埃を被ったブローニングを取り出すと、すぐに懐に仕舞い、痴呆の父の背後を通って静かに家を出た。夕刻の寒空の下、懐にある銃の冷たさが鼓動を急き立て、革靴の歩みも自然と早まった。すれ違った人々が振り返って自分を見ているような気がした。まだ何も悪いことはしていないのに、今に目の前の曲がり角から警官が現れて、敵意を剝き出しにした視線と手錠の重みに囚われてしまう錯覚に襲われた。背部に突き刺さる視線に耐え、込み上げる嘔気を堪えながら、サンデルは自分が何の為に、一体どこへ向かっているのかわからなくなりそうだった。

 誰も私を咎められまい。生まれた時から人は罪を背負っているのだ。だから生きることは苦しいのだ。精神は脆いのだ。誰も私を咎められまい……誰も私を咎められまい……

 呪文を唱えるようにぶつぶつと呟きながら歩き、通い慣れた家の前で、足が自然と止まった。サンデルは恐ろしいものでも見るような顔つきで視線を上げ、瀟洒だが他者を寄せ付けぬ威圧感を放つ、その邸宅を睥睨した。黄昏時の暗がりの中で、リビングの窓から暖色の明かりが漏れている。その向こうで、人影が揺らめいたように見えた。その瞬間、サンデルは自身の精神に無数の亀裂が入る厭な音を聞いた。頭の中が真っ暗になり、かと思えば真っ白になり、また真っ黒になり、不穏な明滅を繰り返した。

「はは……はは、ハハハハハハ!」

 葉を落とし裸になった木の黒い枝から、鴉が逃げ惑うように一斉に飛び立った。

「あはは、ハハハハハ!ハハハハハ……」

 例えるならその声は、突如代役を任された大根役者が演じる、悪役の狂笑であった。サンデルはスイッチを切られた機械仕掛けの人形のように、ぴたりと笑うのを止めて突如真顔に戻った。辺りには気味の悪い静寂が沈殿していた。

 サンデルはコートの内ポケットに手を突っ込むと、がさごそと狂気を探り当てた。コートの中から引き出された手には、黒く光るブローニングが握られている。サンデルは言語とも判別のつかぬ、意味不明な歌のようなものを高い声で口遊みながら、燃え立つ夕闇の中へと歩いていった。



 *



 サンデルが忽然と姿を見せなくなってから、メルシィはみるみるうちに憔悴していった。頬は痩け、目の下の薄い皮膚には不健康な青黒い模様が滲んでいる。日光に当たると虹色の粒子を纏い、きらきらと輝きを放っていた黄金の長髪でさえも、別人の髪のように色褪せて見える。たった一カ月程度で、メルシィは十代ながら随分と年を取ったかのように思われた。

 メルシィは、サンデルと最後に話した日のことをずっと後悔していた。

 先生はいつも傍で見守ってくれていた。私に危険が及ばないように。その日のお話会が無事に終了し、昨日よりも多くの人が笑顔になることを誰よりも望んでいたはずだった。

 サンデルのことを思うと、メルシィの目から涙が溢れて止まらなかった。

 先生は私のことをずっと心配してくれていた。先生だって本当は、お話会を続けたいと思っていたはずだ。だけど、私の身体を気遣って、泣く泣くお話会を中止しようと言ってくれたのだ。それを私は、聞く耳も持たず……先生、どこにいるの。私がいうことを聞かなかったから、先生は私のことを嫌いになってしまったのでしょうか。私一人ではお話会は続けられない。先生が傍にいてくれたから、やってこられたのです。先生に褒めてもらいたくて……それなのに、私は頑張ったのに、知らず知らず先生を傷付けていたのでしょうか?それなら言ってくれればよかったのに。どうして、どうして何も言わずにいなくなってしまったのですか。

 苦しかった。喉の奥から競り上がる羽虫の大群のような嘔吐感に苛まれ、寝付けぬ瞼が毎夜厭な夢を連れて来た。時にそれは、体調が悪化した為にお話会を中断せざるを得なくなったメルシィに、容赦なく避難の声を浴びせる人々の恐ろしい顔を映し出した。また別の夜には、何事もなかったかのように優しい顔で帰ってきたサンデルが、次の瞬間には悪鬼のような形相でメルシィの細い首筋を締め上げている悪夢を見た。

 つい数日前まで開け放たれていた白い鉄門は頑なに閉ざされ、「お話会は終了しました。ありがとうございました。」と、ブレヒトの素っ気ない手書きの文字が記された一枚の張り紙が、今にも剥がれ落ちそうになりながら、ぴらぴらと風に揺れていた。それでも、その後数日間は家の前に多くの人が押し寄せた。人々は張り紙に書かれた文字に目を留めるや否や、狂ったように怒り出し、喚き散らし、嘆き悲しみ、絶望に暮れ、中には鉄門を破壊しようとする者まであった。人々はお話会が終了とするとわかった途端、本来感謝すべきはずのメルシィに、罵詈雑言を浴びせて侮辱し始めたのだ。

「突然お話会をやめるなんて無責任だ」「払った金を返せ」「やっぱり天使の力だなんて嘘だったんだ」「嘘吐き」「詐欺師」

 それらの言葉は部屋の中にいるメルシィに直接的には聞こえなかったものの、そのことが返ってメルシィを加害妄想へ陥らせ、彼女の心を刻々と蝕んだ。終いには部屋の中に一人でいるにも関わらず、自身のことを悪く言う声を耳にするほどだった。ブレヒトは、そこに無いものに対して顔を引き攣らせ恐怖するメルシィを抱きしめて宥めたが、メルシィは落ち着くどころか更に声を上げて泣き喚き、意味不明な言葉をブレヒトの頭の横で撒き散らした。

 仕事へ行くことさえ困難になったブレヒトは、一度だけ庭に出て、家の前に群がる醜い心の人々に説明を試みたことがあった。メルシィは心身ともに不調を来たしていて、お話会の存続は難しい状態である。いくらブレヒトが訴えかけても、彼らの心にはなに一つとして届かない。メルシィの口から発せられる言葉なら、どんなことでも熱心に聞き入り、心を震わせ涙を流していた人々が、ブレヒトの言うこととなると一切聞く耳を持とうとしない。それどころか、ブレヒトの言葉を遮るように投げ付けられる罵声と怒号。「メルシィを出せ」「メルシィと話をさせろ」「お前に用はない」

 憎しみと怒りに満ちた鋭利な視線をたった一人で受け止めながら、ブレヒトは気が狂ってしまいそうだった。お前らの所為だろう!群衆に向けてそう叫んでやりたかったが、俯いて唇を噛み締め、喉元まで出かかった応酬を飲み込んだ。言い返して自分を守ることは簡単だが、ここで言い返しては彼らとなにも変わらない。自分の心を守るために、誰かを平気で傷付けるようなことはしたくなかった。メルシィに向けられる憎しみは、言葉のナイフは、全て自分が引き受けよう。あの子はなにも悪くないのだから。メルシィを護りたいという気持ちがあるうちは、私はまだ、正気でいられる。

 ブレヒトは人々の憎悪を一身に受けながら言い返すこともせず、ただその場に立ち続けた。

「お前たちは頭がおかしいんだ!」「狂ってる!」「頭のイカれた家族!」「悪魔!」

 この国は、この世界は神の実験場だ。人はどこまで醜くなれるのかを検証する、馬鹿みたいな実験。あまりの愚かしさにようやく気がついたのか、実験を始めた神さえももういない。祈りは無意味だ。理性などあったものじゃない。頭がおかしい、か……

 ブレヒトの乾燥した唇は、力尽きた笑みを浮かべていた。頭がおかしいのは世界か、それとも私たちの方なのか。



 *




 家の前に押し寄せる人の群れは、数週間でほとんどゼロに近しくなった。あれほどブレヒトに不満をぶつけていた人々も、メルシィが現れないことがわかると、悪態を吐きながら日常へと帰って行った。騒々しい冬が過ぎ、静かな春が訪れようとしている。長いこと手を入れられなくなった庭は草が伸び、荒廃した状態に戻りつつあった。そんな中でも桜の蕾はつき始めていたが、開花を躊躇うかのように、花弁を閉じて未だ眠り続けている。

 家に押し寄せる人々が引いた頃合いを見計らい、仕事を再開したブレヒトだが、周囲の風当たりは心配していたほど悪くはなかった。職場や街中で、彼を見てこそこそと話す声は幾度となく耳にしたが、それも時間の流れと共に減っていった。それは喜ばしいことである筈なのに、人々の記憶からメルシィの存在が風化していくような気がして、ブレヒトは少し胸が痛んだ。メルシィは死んだのではないか。時々、そんな言葉が耳に入ってくることがある。ブレヒトが近くにいることを意図してわざわざそんな話題を持ち出しているのかはわからないが、その言葉だけはブレヒトの胸中を大きく波立たせ、「メルシィを殺すな!」と、掴みかかって怒鳴ってやりたい衝動に駆られた。

 メルシィは生きている。たとえ精神が死を迎えようとも、肉体の死とは繋がりがない。今やメルシィが自分から部屋の外に出てくることはほとんどなくなった。昼夜構わず明かりも点けずにベッドの上に座ったままで、意識は別の世界を漂っている。ブレヒトが呼び掛ければ短く答えはするが、全く的外れなことを返すことが多い。機嫌が悪い時には悪魔のような形相で部屋にある物をブレヒトに向かって投げ付けては、甲高い声で泣き喚く。かと思えば、翌日には自分から部屋の外に出て来て一緒に食事を取ることもある。ブレヒトは疲れ切ってしまった。しかし、ブレヒトよりも先に限界を迎えたのはメヌエで、彼女を心配したブレヒトの方から暇を与えた。

 ある日の黄昏時、書斎にいたブレヒトは、外から微かな泣き声のようなものが聞こえてくるような気がして窓を開けた。

「メルシィ、メルシィ……!お願い、出て来て!助けて、私を助けて……!でないと私、死んでしまうわ。メルシィ、お願い、お願いよぉ……」

 悲痛な叫びはブレヒトの耳に鮮明に届いた。目を凝らしてよく見ると、家の門に一人の老婆が縋りついて泣いている。書斎の窓からだとはっきりとその姿は望めないが、余り布のような擦り切れた衣服を身に纏い、顔は異様に血色の悪い土気色で、綿毛のような僅かな白髪がふわふわと風に揺れている。一瞬、鉄門に白骨が絡まっているかのように見えてブレヒトはぎょっとした。白骨はすぐに老婆の姿へと戻った。

 ブレヒトは窓を閉めた。老婆は未だメルシィ、メルシィと狂った魔女のように叫び続けているが、その声は遮断され、ほとんど何も聞こえなくなった。あの老婆を見ても感情は動かない。老婆がいる。家の前でメルシィを呼んでいる。それだけのことであり、だからと言ってどうということもない。そう思う自分は非情だろうか。それともいたって真面なのだろうか。しかし、ブレヒトは自分が何か大切なことを忘れてしまっているような気がして、それが少し哀しかった。

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