長針が十二時を指し示した瞬間、所々が茶色く腐食した白骨のような門は開け放たれた。空は見事なまでの快晴で、紅葉との鮮やかなコントラストが美しい。印象派の絵画のような庭である。ブレヒトは、仕事の合間に抜けられそうであれば様子を見に来ると言っていたが、家からブレヒトの職場まではそれなりに距離がある為、実際は難しそうだった。

 サンデルとメルシィ、メヌエは、肩を並べて開け放たれた門の前に立ち、最初の客が訪れるのを待っていた。家の前を通り過ぎる者がいれば、三人の様子を見て何事かと思い、挨拶をするのも一瞬躊躇うかもしれない。

 しかし、家の前の通りには、人一人歩いてきそうな気配はなかった。この様子だと、恐らく最初の客はサンデルが招いた彼の知人となるだろう。

 門を開けてから数十分が経過した頃、男性の話し声が徐々に近付いてきた。メヌエは家の中に戻り、サンデルとメルシィはお話会の為に新たに庭に設置したベンチに腰かけていたが、声が聞こえてくるなり二人して立ち上がった。恐らく彼らだろう、とサンデルは思った。

 それから間もなく、サンデルと同年代の男性二名がやって来て、家の前で立ち止まると、庭にサンデルの姿を認めて「おお!」と言いながら片手を上げた。一人はプードルのような栗色の癖毛が特徴的で黒縁眼鏡をかけている。もう一人はハンチング帽を被った細身で背の高い男だ。

「やあ!よく来てくれたね!どうぞ入って!」

 サンデルはまるで自分の家に招待するかのように、庭へ二人を招き入れた。

「へえ、いい家だな。おっ、この子が例の子か?」

「ああ。メルシィだよ。メルシィ、こっちはスチュアート。帽子を被っている方がロレンスだよ」

「よろしくね。俺たちも、こいつと同じ会社で家庭教師やってるんだ。こんないい子は初めてだ、ってサンデルが君のこと大絶賛してたよ」

「そうそう。勉強もすごく出来るんだってね」

 スチュアートとロレンスは、口々に話しかけながらメルシィをまじまじと観察した。しかしながら、メルシィは嫌な顔一つせずに、いつも通りの人懐っこい笑みを浮かべている。その笑顔からは、メルシィがこの出会いを心から喜んでいることが容易に見て取れた。愛らしい笑顔を向けられて嫌な気分になる人間などそういない。スチュアートとロレンスも例外なく、メルシィに好印象を抱いたようだ。

 深紅に色付くツツジの木の下には、お話会の為にテーブルと椅子が新たに設置された。テーブルの中心から伸びたレース地の瀟洒なパラソルも含め、英国風の白色のデザインで統一されている。メルシィとスチュアート、ロレンスはテーブルを囲むようにして座り、サンデルはプリンセスのボディーガードの如く、メルシィの傍らに立っていた。戸惑いが隠し切れていない、固い表情のメヌエが家の中からお茶とお菓子を運んで来て、必要以外のことは話さず、すぐに立ち去っていった。

 好印象を抱いた者同士であれど、好意を何気ない会話にのせて相手に伝え、距離を縮めていくことは難しい。会話の内容は状況によって変える必要がある上、相手の好みそうな話題を選んだり、個人的なことにどこまで踏み込んでいいのかを見極めたりと、初対面でのコミュニケーションは特に難易度が高いとされる。それで色々と悩んだ挙句、結局会話を諦めて沈黙を貫くことも往々にして起こり得る。

 まずは何から話せばいいのか。迷ったメルシィはサンデルに言われた言葉を思い出した。多くの人は、胸の奥に沈殿した悩みを吐き出したがっている。しかし、勇気を出して吐露した悩みを他言しない、信頼の置ける人間とは、そういないものだ。親しい友人にさえも打ち明けることのできない悩みは誰にでもある。そんな重大な悩みを会ったばかりの少女に話してくれるとは思わないが、「悩みを聞いてくれる人が近くにいる」ということは、少なからず安心感を齎すのではないか。サンデルからのもう一つの助言は、「明るい言葉で励ますこと」だった。

 メルシィはスチュアートとロレンスの目を交互に見て、常人ならざる星の耀きを放つその瞳で、二人の視線を手繰り寄せた。

「お二人とも、わざわざ来てくださって、本当にありがとうございます!お二人とこうして出会えたこと、とても嬉しく思います。サンデル先生のご提案で、この『お話会』をすることになったのですが、あなた方が第一号なんですよ」

「それは光栄だね。それにしても驚いたよ。『お話会』だなんて、このご時世にサンデルもよくこんなイベントをやろうと思ったものだ」

 スチュアートはそう言って、さも愉快そうに笑ったが、目だけはどこか苦々しい色を浮かべて、メルシィの傍らに立つサンデルを見遣った。ロレンスも笑顔で頷きはしたものの、恐らく誰の目から見ても、その顔は心の底から笑っていないように見えただろう。

「実は私、人と話すことに慣れていなくって。ほとんど話したことがないと言ってもいいくらいなんです。だからこの『お話会』を通して、色々なお話を聞けたらいいなと思っています」

「へえ。それはなんというか、意外だな。君は──なんだろう。とても話し慣れているように見えたから」

「たしかに。メルシィ、君のような子はとても珍しいよ。サンデルが俺たちに君を紹介したことや、『お話会』を計画したのもなんとなくわかる気がする。なんていうか、本当に不思議なんだけど……こうして君の言葉を聞いていると、なんだかそれだけで元気を貰える気がする。まだ少ししか話していないのに、不思議だよ」

 ロレンスのその言葉に、メルシィは目を丸くして驚き、同時に目を輝かせて喜んだが、サンデルはそれ以上に嬉しそうな微笑を浮かべていた。口には出さないものの、「そうだろう」と言う自慢げな声が漏れ出ていた。

「ありがとうございます。スチュアートさんやロレンスさんとお話しできるのをとても楽しみにしていたのですが、それと同じくらい──いえ、それ以上に緊張もしていて。ですが、そんな風に言って頂けると、なんだか心が温かくなります」

 心が温かくなる、か。そんな表現を聞いたのは初めてかもしれない。サンデルは、メルシィと話している時に自分の中で起きている現象、これこそ正に今メルシィが言った「心が温かくなる」ということなのだろうと思った。長らく忘れていた感情。これはきっと、人が笑って生きていく為に必要なものなのだろう。そのことを私含め、殆どの人が忘れてしまっている。だからこんなにも苦しいのだ。サンデルは家庭教師という職業に就いており、生活には困っていない。比較的裕福な家庭に生まれたこともあり、無駄遣いはできないが、欲しい物は大体手に入れることが出来た。にも関わらず、時折「明日目が覚めなければいいのに」と寝る前に思ってしまうのは、周囲の人々との間に、無意識のうちに壁を築き上げていたからなのだろう。

 メルシィと少し話をして、スチュアートとロレンスも、どうやら同じようなことを思ったらしい。二人は顔を見合わせると、殆ど同時に吹き出して笑い始めた。二人の笑い声が重なり合い、その様子を見ていると、なんだかこちらまで笑い出したくなってくる。この二人とは付き合いの長いサンデルだが、彼らがこんなに大笑いしているところは初めて見た。笑い声に気付いたメヌエが、何事かと思ったのか、窓から顔を覗かせた。

 メルシィは大笑いする大人たちを見て不思議そうに目を瞬かせたが、少ししてからにっこりと、天使の笑みを浮かべた。

「ああ、ごめん。『心が温かくなる』なんて、そんな言葉初めて聞いたよ。メルシィは詩人になれるんじゃないか?でもたしかに、こうして君と話していると、なんだか温かい気持ちになるよ」

 ロレンスがそう言ってスチュアートの方へ視線を投げ掛けると、彼は深く頷いてみせた。

「ありがとうございます。私、もっとお二人のことが知りたいです。好きなものや好きなこと、楽しかったり、面白かったことはありますか?」

 メルシィは爛々と目を輝かせ、好奇心に満ちた瞳を二人に向けたが、それに反して彼らの表情は陰り、深く思案するような表情を浮かべ、突然静かになってしまった。メルシィは自分がなにか良くないことを言ってしまったのではないかと不安を覚えた。場を取り成そうとして、サンデルが口を開きかけたが、スチュアートに先を越された。

「そうだね……好きなものか……ここ最近──というか、ずっとなんだけど、仕事が忙しくて考えることがなかったから、すぐに出てこないなぁ」

 スチュアートはそう言って苦笑しながら、頭の中では懸命に、かつて好きだったこと思い出そうとしていた。好きなもの、好きなこと、楽しかったこと、面白かったこと。子供の頃にはたしかにあったはずだ。それがどうしてか、いくら思い出そうとしても、黒い霧に隠されてしまってその正体が掴めない。過去の出来事を思い出そうとして浮かび上がってくるのは、辛かったことや苦しかったことばかりだ。

「俺もだよ。少し考えてみたけど、残念なことにすぐには出てこない。君に話すようなことではないかもしれないが、実は母が精神の病に罹っていてね。スチュアートのお父さんと、お兄さんもそうだ。薬代が高くて高くて……毎日働き詰めだよ。そんな毎日を送っていると、何の為に生きているのかわからなくなってくるんだ。俺の精神も、もうとっくの昔に錆びついているよ」

 ロレンスは一息に言い終えると、その後は罅割れた唇を固く結び、悲壮感の漂う目をして俯いてしまった。頭上に広がる青空とは不似合いな重苦しい静寂が、瞬く間に辺りを包み込んだ。しかし、当然のことながら、辛い経験をしているのはロレンスやスチュアートだけではない。寧ろこの国では、自身か親族がなんらかの精神疾患を患っている人の方が多いのだ。現にブレヒトもそうであるし、メヌエの父親に至っては、過度の重労働により体調を崩したことが原因で、精神までも壊れてしまい、彼女がまだ幼い頃に自殺した。

 ふとメルシィへ視線を向けたサンデルは、彼女の頬を透明な光の粒が流れているのを見てギョッとした。ここでメルシィが泣く理由が全くわからなかったのだ。スチュアートとロレンスも驚いた様子で、目の前で綺麗な涙を流す少女を食い入るように見つめている。

「すみません……お二人とも、とても大変な思いをされてきたんですね……もちろん、私にはお二人の味わった苦しみがどれほどのものだったのか、理解することはできません。それでも、会ったばかりの私に辛いことを話してくださって、それが堪らなく嬉しいんです。お二人に会えてよかった。本当に、ありがとうございます」

 碧い瞳に浮かんだ涙は、漣のように煌めいては白い頬にこぼれ落ちていく。どこか遠くの美しい海を思わせるその瞳に、目の前の人間の輪郭を映し出し、汗ばむその手をつよく握りしめていた。気が付けばロレンスは泣いていた。スチュアートも、サンデルまでもが涙を流していた。今までどれくらいの間泣いていなかっただろう。何年も何年も堪え続け、胸の奥に溜まった涙が一気に溢れ出した。ロレンスの手はメルシィの小さな手の中から抜け出すと、汚れたシャツの袖でごしごしと涙を拭い、豪快な音を立てて洟を啜った。そしてその後、弾けたように笑い出した。

「メルシィ、本当に……君のような子は初めてだ。ありがとうだなんて、もう随分長いこと言われていなかったような気がするし、言うことも忘れていた。とても大切なことなのに……メルシィ、ありがとう」

 目尻に透明な雫を煌めかせながら、ありがとうと言って笑うロレンスを見ていると、一時は引いたように見えたメルシィの涙がまた溢れ出した。

「メルシィ、君はまるで──小さな聖女様だな」

 スチュアートのその言葉に、メルシィは顔を赤らめて謙遜しつつも、嬉しそうにはにかんだ。燃え立つような深紅の木の葉が舞い落ちる快晴の空の下、楽しげな笑い声が庭の外にまで漏れ聞こえていた。たまたま家の前を通りかかった近所に住む白髪の老婦人が、不思議そうな面持ちで門の外から庭を覗き込んだ。タイミングを見計らったかのように、老婦人の青い瞳とメルシィの瞳が空中でばっちりと重なった。老婦人は一瞬気まずそうな顔をして立ち去ろうとしたが、メルシィの元気な声に呼び止められた。

「こんにちは!よかったら、一緒にお茶しませんか?」

 老婦人は口元に手を添え、品のある所作で戸惑いを表したが、メルシィが近付いて来ると、困ったように小さく笑った。

「あら、ブレヒトさんのところの……楽しそうな声が聞こえてきたから、なにかと思ってつい覗いちゃったわ。だけど、私なんかがお邪魔してもいいの?」

「もちろんです!実は今、『お話会』というものをやっていて──」

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