青白い血管の浮き出た骨張った手が、コーヒーの入ったティーカップをテーブルの上に戻した。ブレヒトの隣には、どこか緊張した面持ちのメルシィが腰かけている。まるで三者面談だ。

 多忙なブレヒトがこうして今サンデルと向かい合っているのは、メルシィにどうしてもサンデル先生の話を聞いてあげてほしいとお願いされたからに他ならない。でなきゃ希少な休日を裂いてまで、わざわざその為の時間を割いて家庭教師と話をする場を設けようとは思わなかった。それが事務的な話なら、メルシィを通して手紙やら必要な書類を渡してもらえれば済む話なのだが、どうやらそれでは解決しない話らしい。

 お話会のことは、ある程度はメルシィから聞いていた。その計画を初めて知った時、当然のことながらブレヒトは断固拒否した。そればかりか、普段ほとんど怒りの感情を表さないブレヒトが激昂した。その場にサンデルがいたら掴みかかっていたかもしれない。家庭教師風情が一体何を考えているんだ。外の奴らと話をさせるだなんて、なんでメルシィがそんなことをしなくちゃならないのだ。メルシィの精神の美しさを見抜き、悪事に利用しようと企てているに違いない!──と。

 それが今こうしてサンデルと向かい合っているのは、メルシィ本人が「やってみたい」と言ったからだ。この家へやって来てから、メルシィが自分のやりたいことや欲しい物をブレヒトに言ったことは一度としてなかった。身寄りのない自分を引き取ってくれたことに恩を感じてか、子供ながらに気を遣っているのだろう。ブレヒトが「読みたい本はないか?」「食べたいものはないか?」と聞いても、メルシィは静かに首を振って「この家にまだ読んでいない本がありますから」「先生の食べたいものを食べましょう」などと子供らしくないことばかり言って、妖精のようにするりとどこかへ飛び去ってしまうのだ。ブレヒトはそれが少し、さびしかった。

 そんなメルシィが、この時初めて「やってみたい」と言ったのだ。遠慮がちなメルシィの希望は極力叶えてやりたいが、こればっかりはブレヒトも譲れない。メルシィを家の中に閉じ込めていると言われればそうかもしれないが、それはメルシィを守る為なのだ。外に出て良いことなど一つも無い。ましてや人と話すだなんて、精神を自ら壊しにいくようなものだ。ブレヒトを含む多くの人は耐性がついているので今更どうということはないが、今まで隔離された家の中で守られてきたメルシィは、そうはいかないだろう。わかってくれ、メルシィ。これは君の為なんだ。サンデルを解雇してでも、こんな馬鹿な目論見は打ち砕かなくてはなるまい。


「それで、話とはなにかな。先生」

 正面に座るサンデルに重たげな視線を投げつつ、ブレヒトは言った。サンデルがこれから話すであろうことを、ある程度わかっていながら敢えてそう切り出したのだ。鉛のようなブレヒトの視線に当てられながらも、サンデルの表情は揺るがない。

「はい。その前に、本日はお忙しい中お時間を取っていただき、ありがとうございます」

「いや、いい。メルシィがどうしてもと言うからね」

 ブレヒトの気怠い視線がほんの一瞬メルシィに向けられたが、すぐに逸らされた。しかしながら、ブレヒトは一向にサンデルの目を見ようとはしない。

「はい。実は、メルシィと一緒にあるイベントの計画を練っていたんです。それは──」

「お話会、だったか」

 ブレヒトは不機嫌を隠そうともせず、サンデルの言葉に重ねて、重苦しい声で言い放った。ブレヒトの睨みつけるような鋭い視線が、今日初めてサンデルに向けられた。サンデルは少し驚きはしたものの、この話が事前にメルシィから伝えられていることは知っていた為、取り乱すことはなかった。

「はい。もうメルシィからお聞きになったでしょうか。ご存じの通り、メルシィはすごく綺麗な精神の持ち主です。私自身もメルシィと話していてよくわかったのですが、彼女とただ話をしているだけで、心が少し軽くなったような気がするのです。それはきっと、貴方の方がよく知っているでしょう」

 ブレヒトは太々しい表情を浮かべ、腕を組みながら、何も言わずにサンデルの言葉を聞いている。臆せずサンデルは続ける。

「知っての通り、この国には精神病と自殺が蔓延しています。この国の自殺者は三年連続で世界一位なのです。それもダントツで。多くの人が、心を病んで苦しんでいるのですよ。私は、自分がそんなことを言えるほど大した人間ではないとわかっています。ですが、メルシィと話して、その心の清廉な光の如き美しさに当てられて、自分にもなにかできることはないかと考えたのです」

「しかし、結局それをやるのは君じゃなくメルシィだろう」

「仰る通りです。ですが、もちろん私も最大限のサポートはさせていただきます。当たり前ですが、この『お話会』で得たご厚志は全てメルシィのものです。私は一切受け取りません」

「金を取るのかね」

「ええ。いくら話すことが好きでも、長時間に渡って何人もの人と話し続けることは体力を使いますから」

 ブレヒトは眉一つ動かさず、険しい表情でなにかを考え込んでいる様子だ。その横で、メルシィは背中を丸めて二人の大人のやり取りを聞いていた。サンデルの真っ直ぐながらも揺らぎがちな視線は、ブレヒトとメルシィの間を行ったり来たりしている。

「もう一度聞くが、メルシィはどうしたい?」

 唐突に話を振られたメルシィは、びくりと細い肩を震わせながら、おずおずと顔を上げてブレヒトを見上げた。

「わ、私は……できるなら、沢山の人とお話してみたいです。その人だけしか知らない知識や特別な経験が、きっと一人一人にあると思うから。それが危険だということはわかっています。ですが私には……人は、それほど悪い生き物だとは思えないのです」

 ブレヒトを真っ直ぐに見つめるその瞳は、この国には無い、透き通る海の幻影を映して青々と煌めいていた。どんな宝石よりも美しい瞳。それこそ、この少女が神に使命を託された特別な子であることの紛れもない証明なのだろう。

 ブレヒトは考えた。この先、メルシィが死ぬまで家の中だけで生きていくことなど不可能だ。普通は、親は子よりも先に死ぬ。メヌエだって、いつまでいるかわからない。その時、この家には誰がいる?メルシィとエリゼ、二人だけだ。

 人はそれほど悪い生き物だとは思えない、か。たしかにメルシィの言う通りかもしれない。誰しもが真っ白い精神を胸に生まれてきたはずが、苦難の中を何年も生きていれば、いつしか精神は傷付き、錆びついてしまう。この国でも抗うつ薬や安定剤は数多く出回っているが、効果はどれも一時的なものだ。精神を完全に浄化する薬は無い。完全に浄化したければ、精神移植で他人の精神を取り込むしかないのだ。

 だが、もしかしたら、サンデルの言うこともあながち間違いではないのかもしれない。完全に浄化することはできないが、他者とのコミュニケーションによって得られる精神的効果が、安心感や幸福感を与えることもあるのではないか。それがなかなか上手くいかないのは、多くの人々が他者とのコミュニケーションに不安や恐怖といった負の感情を抱いているからだ。コミュニケーションは決して楽しいものではない。哀しくも、これがこの国の一般的な認識なのだ。精神環境が荒れていると、無意識に他の人間を傷付けたくなる。自分が相手よりも上の立場にいると信じたくて、大柄な態度と言葉で威嚇する。そんな奴らに、メルシィの精神を汚されてなるものか。

 しかし、いずれブレヒトやメヌエが二人の娘たちの元を離れる時が来ることを思えば、一人でも信頼の置ける人間を知っていた方がいい。そう考えながらも、愛娘たちを任せられるほど信頼の置ける親類や友人は、ブレヒトにはいなかった。ブレヒトは苦いものでも噛んだような顔つきで、重々しく頷いた。

「たしかに、メルシィの言うことも一理ある。今回の件だが、少しくらいは考えてもいい。だが、いくつか条件がある。君は頭のいい子だから、今から私が言うことを素直に聞いてくれるね?」

 厳格な眼差しは、その下に潜む不安を押し殺しながら、哀願するかのように弱々しく揺れていた。




 *


 


 つい数日前までは、夏の日差しを浴びながら、青々とした葉を輝かせていたように思われる庭の木が、ブレヒトが気がついた時には見事なまでの紅色に染まっていた。しつこく肌にまとわりついていた夏の残り香も、秋風に乗せられて来年へと運び去られてしまったかのようだ。代わりに肌を掠める秋の空気は、少し冷たくよそよそしい。

 家政婦のメヌエや、家庭教師のサンデルを除けば、この家に家族以外の人間が出入りするなどいつ以来だろうか。それを思い出そうとすると、ブレヒトの精神を蝕む古傷が深く痛んだ。

 それにしても、美しい庭だ。書斎の窓から庭を見下ろしながら、ブレヒトはしみじみと思った。決して広いとは言えないが、花壇では四季の花が咲き乱れ、色鮮やかな紅葉がまた、この庭の素朴な魅力を引き立てている。今は亡き妻、ジゼルが愛した庭。メルシィがせっかく取り戻してくれたこの庭を、家族以外の大勢の人間に踏み拉かれてしまうのか。静けさは失われ、代わりに下卑た笑い声が蔓延するだろう。すまない、ジゼル。すこし煩くなるだろうが、これがメルシィの望みであり、結果的にエリゼの救済に繋がるのなら、私がそれを引き留めてはいけないような気がするのだ。

 お話会を実施するにあたって、ブレヒトがメルシィに課した条件は以下の通りである。


・お話会の為に庭を解放している時間は、一日二時間。昼の十二時から十四時までとする。(この時間帯を指定したのは、ブレヒトが仕事の休憩時間に家に戻って、様子を見に行けるようにする為だ。)

・メルシィと話せる時間は、一日につき一人当たり十分以内とする。お話会はサンデルやメヌエなど第三者の監視の元、当家の庭で行われる。

・たとえ本人の承諾を得ていたとしても、メルシィに触れることを一切禁ずる。

・当然のことながら、暴力行為は絶対禁止。暴力を振るおうとした者がいた場合、即刻警察に通報する。また、メルシィに対して侮辱的な発言をすることも禁ずる。メルシィを傷付けるような発言があった場合は即座にお帰り願い、以降その者が当家へ出入りすることを禁ずる。


 更に細かく言うとまだいくつかの条件が提示されていたが、大きく分けると今紹介した四つになる。ブレヒトはこれでも、十分猶予したつもりだった。

 そして、その日はやって来た。憐れなブレヒトは心配で夜も眠れず、目の下に青黒いクマを作って、とぼとぼと元気の無い足取りで職場へと向かった。第一回目のお話会の朝は、家の中の空気が明らかに普段とは違っていた。騒々しくもなければ、静かというわけでもない。他人の家を借りて生活しているような──もしくは、自分たちがドールハウスの住人にでもなったかのような奇妙なよそよそしさが家の中に立ち込めていた。

 メヌエは使われていない椅子を持って来てその上に立ち上がると、食器棚の奥で長年眠り続けていたティーカップや小皿を引っ張り出しては、訪れた人々に振舞うお菓子を焼いたりしていた。おかげで、朝から家の中にはクッキーやマフィンの甘い匂いが満ちていた。

 ブレヒトが仕事に行ってからおよそ一時間後にサンデルはやって来た。清潔なグレーのスーツ姿に、いつもと変わらぬ紳士的で爽やかな微笑を浮かべている。

 メルシィはメヌエの仕事を手伝ったり、特にやることがないとわかれば、どこか緊張した面持ちで家の中を無意味に歩き回ったりしていた。エリゼだけはいつもと変わらぬ様子で、忙しなく動き回るメルシィたちを静かに見守っていた。

 不安な様子のメルシィの肩を抱きながら、サンデルは発表会を前にした我が子を鼓舞するかのような、優しくも熱の籠った声で言った。

「メルシィ、君なら大丈夫だ。いつも通りでいるだけでいいんだ」

「はい……だけど、やっぱり少し不安なんです。どんな話をしたら楽しんでもらえるんだろうって、昨晩もずっと考えていて眠れませんでした」

 大きな双眸の下にある薄い皮膚には、薄っすらと不健康な青紫色が滲んでいる。しかし、それが返って儚げな雰囲気を演出し、いつも明るいメルシィの別の魅力を引き出しているかのように見えた。

「来てくれた人をがっかりさせてしまうんじゃないかって、正直に言うと少し怖いんです」

 サンデルはメルシィの背中に大きな掌をそっと重ねた。服の上からでも伝わる背骨の感触や、少女特有の温かいミルクのような体温にはっとさせられて、触れた手を思わずすぐに引っ込めてしまいそうになった。やっとのことで吐き出した言葉は、少しばかり震えていた。

「そんな心配はしなくていい。不安かもしれないが、それ以上に楽しみだろう?今は楽しみなことだけを考えていればいいんだよ」

「……はい、わかりました。先生」

薄っすらと不安の滲む上目遣いでサンデルを見上げながら、メルシィは頷いたが、その時サンデルの視線はメルシィではなく、どこか別のところに向けられていた。

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