翌日、サンデルは頬に貼り付いたような爽やかな微笑を浮かべて、時間通りにブレヒト家を訪れた。その微笑の裏側では、メルシィの精神を手に入れた日を想像して、舌なめずりをしていたのだが……

 サンデルがドアベルを鳴らしてものの数秒足らずで、メルシィが勢いよく玄関の扉を開けて飛び出してきた。スキップしているかのような足取りでサンデルの腕を引き、手入れの行き届いた花壇の横を通り過ぎて、家の中へと引き込んでいく。

 ブレヒトは仕事の為不在だった。メヌエという物静かな家政婦は母親のような眼差しで、はしゃぐメルシィを柔らかく窘める。お人形のような少女、エリゼは本日もソファに腰掛けて、どこを見ているのかわからない空虚な眼差しを宙の一点に向けていた。

 昨日とは違い、今日はダイニングの椅子に座るようメルシィに勧められた。ダイニングとリビングは繋がっていて、ソファに腰掛けているエリゼの姿もよく見える。エリゼは置物のように違和感なく、アンティーク調の家具で統一されたこの部屋によく馴染んでいた。

 メルシィはダイニングテーブルの上に文房具屋やらノートやらをばらばらと思うままに広げるので、授業を開始する前からテーブルの上は散らかっていた。サンデルは小さく苦笑しつつもメルシィと向かい合って座り、優しい微笑を湛えた口で教えを説く。メルシィは存外飲み込みが早く、頭のいい子だった。捻りの無い問題であれば、一度教えただけですぐに解けるようになってしまう。今まで数多くの子供たちに勉強を教えてきたサンデルも驚くほど、いとも容易く難しい問題を解き明かす。その割には、答え合わせが終わってサンデルが「全問正解だよ」と言った時、メルシィはいつも顔全体で喜びを表しながら、嬉しそうに笑うのだ。

 週に三度のペースでサンデルがやって来る度に、二人は友人のように親しく話すようになっていった。他の子供たちともそれなりに良好な関係を築けていたとは思うが、サンデルにとってメルシィは別格だ。他の子らと比べられるものでもない。メルシィと一緒にいるだけで、この身体の奥にある黒ずんだ精神が洗われていくような感覚を覚えるのだ。

 サンデルはメルシィの澄み切った精神を手に入れる計画をあれこれと練っては、いつもチャンスを伺っていた。まずはメルシィに気に入られることが大前提だ。その点は問題ないだろう。サンデルは子供の扱いには慣れている。メルシィを外へ連れ出すことができればこっちのものだが……ブレヒトには何と言ったものか。いっそ黙って連れ出してしまおうか。しかし、あの家政婦の存在が厄介だ。

 ブレヒトとは最初の面談の時以来顔を合わせていないが、二人の娘を極力家の外へ出さないようにしているような、そんな気配が家の中から感じられる。サンデルはメルシィが問題を解いている姿を眺めながら、頭の中ではずっとそんなことを考えてばかりいた。

 メルシィがペンを置き、なにがそんなに嬉しいのか、頬一杯に可愛らしい笑みを浮かべながら「先生、できました」と言って顔を上げる。眩い笑顔を見る度に、サンデルは自身がひどく愚かで矮小で、欲に塗れたみっともない大人であるような気がして、居た堪れなくなった。恐らくだが、ブレヒトも同じ気持ちを味わったに違いない。精神の壊れた愛娘を救う為に、何の罪も無い、純粋でいたいけな少女の心を奪えるだろうか。無理に決まっている。ましてや、私には精神の壊れた愛娘などいない。ただ己の利益の為に、少女の心を悪魔に売ろうとしているのだ。

 サンデルは、自身の醜い精神の在り方が、猛烈に恥ずかしくてたまらなくなった。同時に、悔い改めると目の前の少女に向かって心の中で誓った。メルシィの精神を手に入れずとも、この子の傍にいるだけで、この身に宿る精神は一時の安寧を得ることができるのだ。これはまるで、天使の力だ。

 ある時、サンデルの頭の中にある考えが浮かんだ。メルシィと少し話をして、その笑顔を見るだけで心が安らぐのなら、もっと多くの人に体験してもらえれば、この穢れた世界を救済することができるのではないか。

 サンデルのその思い付きの裡に私利私欲の念は無い。メルシィの澄み切った心に触発されて、自分にもなにかできることはないかと考えた結果なのである。実際に何かをするのはサンデルではなく、メルシィではあるが。

 メヌエがお茶を置いて引き上げていった時を見計らって、サンデルは名案を思い付いた子供のような顔で、こう切り出した。

「メルシィ。メルシィは、もっと色々な人たちと話をしてみたいとは思わないか?」

 思いも寄らない質問に、メルシィは視線を泳がせ、わかりやすく狼狽えた。

「えっ、そうですね……たしかに、色々な方たちとお話してみたいと思うことはあります。だけど、せんせ──ブレヒトさんにもお爺様にも、あまり外に出るべきではないと言われているので……」

「そんなことはないよ。メルシィ」

 サンデルが身を乗り出して食い気味に言ったので、メルシィは少し驚いた。

「メルシィ。君はね、特別なんだ。君のような子は国中──いや、世界中を捜してもなかなかいない」

「と、特別……?」

「そうだ。君も少しはそのことを自覚した方がいい。君の力で、多くの人を助けられるんだよ」

「私が……?助ける……?」


 メルシィはなにがなんだかわからないといった様子だ。それに反してサンデルの目はこれまで誰にも見せたことがないほど神妙な光を放ってぎらつき、気付けばテーブルの上でメルシィの手をきつく握っていた。らしくもなく熱くなってしまったことに気が付いたサンデルは、はっとした顔をしてメルシィの手を解放した。

「……私が特別だとは思いませんが、誰かのお役に立てるなら、それは素敵なことだと思います」

 メルシィはいつになく落ち着いた声でそう言って、にっこりと笑った。

「メルシィ。この国には、精神の病気に罹って困っている人が数えきれないほどいる。君には彼らを助ける力があるんだ。現に僕も君とこうして一緒にいるだけで、話をするだけで、心が少し楽になる。正直に言おう。実はね、僕は君の家庭教師になったばかりの頃、君の綺麗な精神をお金欲しさに利用しようとしていたんだ。この国では精神を他の人に移植することが法律で認められている。君のような綺麗な精神には物凄い価値があるんだよ」

「えっ……」

「本当にすまなかった。だけど、君と一緒にいるうちに自分の考えが恥ずかしくなってきたんだ。今はもう、君の心をお金に変えようだなんて、そんなことは全く考えていない。僕と同じように、君と話すことで救われる人が多くいるんじゃないかと思うんだ」

 清き聖女の光に当てられては、誰も嘘など吐けまい。己の罪を後悔し懺悔するしかなくなってしまう。サンデルの瞳には薄っすらと涙が滲み、その目は叱責に怯える子供のように目の前の少女を見つめていた。メルシィは驚き、ほんの一瞬哀しそうな顔をして俯いたが、顔を上げた時にはいつもの愛らしい笑みを浮かべていた。その笑みはまるで、普段一切隙を見せない大人が小さなミスをしているところを見て、喜んでいるかのようだった。

「先生、ありがとうございます。正直に話してくださって、とても嬉しいです。最近の先生は特に、心ここにあらずといった様子でしたから」

 メルシィはサンデルを責めるどころか感謝した。ブレヒトが聞けば、サンデルは即刻解雇では済まされないだろうが、メルシィが今回のことをブレヒトに伝えることはなかった。

「その、私もたくさんの人と話をしてみたいと思っていたので、本当に私と話をするだけで救われる人がいるなら……ぜひやってみたいと思います」

「ほ、本当か!」

 サンデルは思わずテーブルの上に身を乗り出し、階下にいるであろうメヌエにも聞こえそうなほどの声を上げた。サンデルの喜びが伝わったのか、メルシィは嬉しそうに微笑んだ。

「はい。でも、ブレヒトさんに許可をいただかなくてはいけません。私からお願いしてみましょう」

 ブレヒトのいない所で話はどんどん進んでいき、やがて二人の会話は、サンデルの計画が通ることを前提とした内容になっていった。盗み聞きするつもりはなかったものの、お茶を運んできたメヌエは、扉の前で二人の会話の内容を知った。部屋から聞こえる声には時折笑い声が混じり、勉強しているとは思えないほど楽しそうだった為に、つい気になって、立ち止まって聞いてしまったのだ。もちろん、メヌエは、二人から直接この「計画」のことを聞かされてはいない。

「場所はこの家でいいだろう。この家の庭を解放するってのはどうだい?」

「まずは僕の知り合いの何人かに声を掛けてみよう。それで君の力が評判になれば、多くの人が集まるだろう」

「もちろんお金は取った方がいい。人と話すだけとはいえ、これは意外にも体力と精神力を使う仕事だ。君の将来の為にも役立つだろうからね」

「話す内容?そんなのは何だっていいさ。君や、相手の話したいことを話せばいい。人が多く集まれば、一人当たりの時間は限られてくるだろうけどね。長く話したい人からは、延長料金を取ってもいいかもしれない。まあその辺りは、実際にどれだけ人が集まるかを見て考えればいいだろう。多くの場合は悩み相談をすることになるだろうけどね。君に出来ることは、明るい言葉で励ますことだ」

 ブレヒトの許可を得る前から、サンデルとメルシィの間で計画は進んでいき、メルシィが勉強を教わっている時間は、本来の持ち時間の半分ほどにまで縮小されていた。基本的にはメルシィは、楽しそうに頷いたりしながら、サンデルの考えたプランに賛同している。サンデルに気を遣って断れないわけではなく、メルシィ本人も、サンデルの計画が実現され、多くの人と話せる機会を心から楽しみにしていた。ただ賛同してばかりでメルシィが殆ど口を挟まなかったのは、何を言えばいいのか、どうすることが良いのかわからなかったからだ。傍から見れば、二人の姿はファンイベントの打ち合わせをするアイドルと、そのマネージャーのようだ。

 お話会。このイベントは二人の間でそう名付けられた。あとはブレヒトの許可さえ下りれば、この計画を実行できる。メルシィも人々と話をすることを心待ちにしているようだ。本人から聞いた話によると、彼女は今まで、外の世界の汚濁に極力触れないで済むよう、祖父やブレヒトに守られて、要塞の中で可愛がられてきたようだ。しかし、いくら家の中が安全といえど、この年の少女なら自由に外を出歩きたいに決まっているし、家族以外の人間とも話がしたいだろう。メルシィが多少なりとも今の暮らしに窮屈な思いを抱いていることに違いはなかった。鳥籠に入れられた美しい鳥を解放し、より多くの人にその美しさを知らせることが自分の役割なのだと、サンデルは確信していた。

 しかし、計画が進み、「お話会」がより具体的で現実味を帯びたものになっていくほど、サンデルの胸の片隅に痼のような疑問が生じ始めた。料金、持ち時間、開始予定時期──様々なことを細かく練ってきたが、本来どうして、こんなことを始めようと思ったのか。みんなにも自分と同じように、メルシィの純真な心に触れて、無邪気な少女のような心の美しさを取り戻してほしかったから?そうすることで腐敗に満ちたこの国そのものも、いずれ変わるんじゃないかと淡い期待を抱いたから?本当にそうだろうか。本当に自分以外の誰かの為に、メルシィの精神を使おうとしたのか。サンデルは自身の精神に問いを投げ続ける。本当はそれは、自分の為だったんじゃないのか。メルシィの精神を使って慈善活動のようなイベントを計画することで、少しでも積み重ねてきた己の過ちを洗い流そうとしていただけではないのか。

 この身に宿る使い古された精神を取り出して、聖水にでも漬けながらばしゃばしゃと濯ぐことができたら、どれほど安心できるだろう。そうしたら、終わりの見えない夜を苛む不安という名の不眠症さえも、洗い流すことができるだろうに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る