ブレヒトが同僚から紹介を受けたというその家庭教師の名は、サンデルという。同僚の話によると、年は三十代半ばから後半くらいで、俄かに信じがたいが、どんなに成績が悪く粗暴な態度の子供でも、彼の手にかかれば瞬く間に優等生へ様変わりすると言われているらしい。実際に、ブレヒトの同僚の息子も、サンデルのマンツーマン指導を受けたようだが、クラスで中の下くらいであった成績は急成長を遂げ、クラスメイトたちをぐんぐん追い越し、ものの二カ月足らずで学年十位以内にまで昇りつめたとのことだ。信じられないような話に、初めのうちはブレヒトも半信半疑で聞き流していたが、滅多に他人を褒めないその同僚があまりにも熱心にサンデルとかいう家庭教師の手腕を語るので、次第にブレヒトも耳を傾けるようになった。セールスのようだとブレヒトは心の中で自嘲したが、わざわざ同僚がその家庭教師の株を持ち上げる理由などないはずだ。それに、良い家庭教師を探しているという相談を持ち掛けたのは、他でもないブレヒト自身だったのだ。

 しかしよく考えてみれば、この国の学校の授業の質は極めて低い。子どもたちは碌に教師の話を聞かない上、教師も教師で、真面目に授業を行う気があるのかと疑いたくなるような態度の者が多い。その為、子どもたちの学力レベルも他国と比べて決して高いとは言えず、真面目に勉強をすればクラスで一番の成績を取ることも、実はそれほど難しいことではない。

 サンデルはその人気もあってか、授業料は他の家庭教師と比べると格段に割高だったが、十分悩んだ末、ブレヒトは同僚にサンデルを紹介してくれるよう頼むに至った。ブレヒトが気に入ったのは、サンデルの人気と実力だけではない。同僚の話によると、サンデルは有名な名門大学の出だそうで、官僚の父を持ち、秀才と持て囃されながら裕福な家庭で育ったそうだ。どこの馬の骨ともわからぬ輩にメルシィの講師を任せるくらいなら、多少値は張っても、清潔な身なりで実力も高い、紳士的な家庭教師を雇いたかった。ブレヒトにとって、今やメルシィは我が子同様に大切な、純粋で可愛い娘になっていたのだ。身分の高さと精神の美しさは必ずしも比例しないと、ブレヒトも頭ではわかっていたのだが、なにかの統計によれば、生活の困窮は精神に支障を来たし、窃盗などの犯罪を引き起こすリスクを高める。ブレヒトはもう二度と、忌々しい悲劇を繰り返すわけにはいかなかった。メルシィまでもがその穢れなき精神を奪われてしまったとしたら──考えただけでも恐ろしい。そんなことになればブレヒトは正気を失い、精神もろとも粉々に砕け散ってしまうだろう。

 サンデルは今ちょうど空きが出ているが、明日にはもう、他の子供が待つ家へ向かっている可能性が十分に有り得る。早速家庭教師を依頼する為、同僚を通してサンデルに連絡を取ったところ、思いの外すぐに連絡はつき、二つ返事で引き受けてくれた。本当なら、サンデルをメルシィに引き合わす前に、ブレヒトとサンデルの二人で会って話をしておきたかったが、生憎とブレヒトにはそんな時間は作れそうになかった。同僚の話を完全に信じるわけではないが、それでもサンデルと直接会って話すまでは、同僚の口から語られるその人物像を元に想像することしか出来ない。清潔感があって紳士的で、とにかく教えるのが上手い。子供にも優しく人気がある。これが同僚の、サンデルへの評価だった。






 家庭教師の話をメルシィに持ち掛けたあの夜──エリゼがメルシィの名を呼んだあの日からおよそ一週間後に、サンデルは初めてブレヒト家を訪問した。初日はメルシィに勉強を教えることはなく、ブレヒトとの面談が目的ということになっている。ブレヒトは本日の面談でサンデルと初めて対面し、彼の身なりや振る舞い、話し方、メルシィとの相性、そして何よりも、夏用のシャツの下に潜む肉体の中にある、精神の清潔さを見抜く必要があった。

 その日、ブレヒトはサンデルとの面談の為に、どうにか休日を取り付けた。貧困の為に満足な教育を受けられない者が多いこの国では、専門知識を持つ医師は希少な存在である。にも関わらず、医師の数に反比例して、病人や怪我人、そして何より、精神的な病に苦しむ者は多い。一人診察すれば、また一人。その背後には何十人もの人々が、ブレヒトの診察を受ける為に順番待ちをしている。しかし、診察を受けて薬を処方されたからといって、心の病は治ることの方が遥かに少ないのだ。

 体力的にも精神的にも疲弊することが多い医師──それも、精神科医という職に就くブレヒトは、本当なら貴重な休日は出来る限り休息に当てたいと考えていたが、そうも言っていられない。なにしろ職場を離れても、彼にはやるべきことが山ほどあるのだ。

 家庭教師のサンデルは午後一時に来ることになっている。疲れ果て、このまま目覚めないのではないかと思われるほど深い眠りの中に沈んでいたブレヒトの意識は、騒々しい声と足音によって、徐々に光の方へと引き寄せられた。眼球に貼り付く瞼を上げると、薄暗い寝室の中を窓から差し込む白い旭光が照らし出していた。窓の向こうでは新緑が黄金の木漏れ日を纏いながら、風にその身を揺らしている。

 ブレヒトの意思に逆らうように、身体は起き上がることを拒んで関節が些細な痛みを発した。特に痛む腰を摩りながら、ブレヒトは慎重に身体を起こした。ベッドに座ったまま、暫しの間なにを考えるでもなくぼんやりと部屋の中に視線を漂わせていると、階下から聞こえる甲高い声が、ブレヒトの意識を明瞭に覚醒させた。

 まったく、朝から騒がしいな。ブレヒトはそう小さく呟くと、勢いをつけてベッドから立ち上がった。廊下へ出ると、メルシィとメヌエがきゃいきゃい言いながら楽しそうにしている声が、その内容まで鮮明に聞こえてくる。と言っても、落ち着いたメヌエの声は途切れがちで、常にはっきりと聞こえるのはメルシィの声のみだ。恐らく、サンデルの来訪に備えて早い時間からうちの掃除でもしているのだろう。

 騒々しい場所や人を好まないブレヒトではあるが、なぜかそれがメルシィだと微笑ましく、愛らしく感じる。メルシィにはあの純真な明るさを持ったまま、可憐な女性に成長してほしいと願っているが、少しくらいは淑女の嗜みや気品といったものを覚えてもらった方がいいかもしれない。今日の面談で、サンデルを家庭教師に採用することが正式に決まれば、彼にはメルシィ淑女化計画の大きな役割を果たしてもらうこととなるだろう。





 約束の時間のちょうど五分前に、来訪者の訪れを知らせるベルが鳴らされた。どこか緊張した空気の中、リビングに集まっていた一同はベルが鳴った瞬間に顔を見合わせ、一斉にソファから立ち上がった。ブレヒト、メルシィ、メヌエの順にリビングを出て、競争の如く我先にと玄関へと向かう。リビングにはエリゼだけがぽつんと残されたが、エリゼは周囲の騒ぎなど耳に入らぬ様子で、いつも通りソファに腰掛け、人形の真似に徹していた。

「はい!」

 ブレヒトの太い声と共に玄関の扉が開かれた。門の向こうには、グレーの背広に山高帽を身に着けた若々しい紳士が立っていて、ブレヒトたちに向かって小さくはにかむと、帽子を取って会釈した。

 耳につく甲高い音を立てながら、鉄の門が内側から開かれる。ブレヒトは、少なくともサンデルの容貌は及第点を越していることに少しばかり気を緩め、気の抜けた笑みを浮かべながら右手を差し出した。

「これはこれは。サンデル先生ですね。ブレヒトです。こちらがメルシィ。お待ちしておりました。どうぞ中へ」

 サンデルは綺麗に整列した乳白色の歯列を覗かせながら、潮風のように爽やかな笑顔で答えた。

「はじめまして。サンデルです。この度はご連絡をいただきましてありがとうございます。それでは、お邪魔いたします」

 心なしか機嫌が良いように見えるブレヒトの後ろにメヌエ、メルシィ、サンデルと続いた。メルシィはこの場では言葉を発することはなかったが、サンデルと話したくて仕方がないといった様子で、にこにこと微笑みながら背の高い彼を横目で見上げていた。無邪気な視線に気が付いたのか、夏の日差しを受けてきらめくサンデルの瞳が掬い取るようにメルシィを見た。サンデルが優しく微笑みかけると、メルシィは嬉しそうににっこりと笑い、その後は前を向いて歩き出した。





 リビングに通されたサンデルは、さほど興味もなさそうな目で、室内にぐるりと視線を巡らせた。その視線はソファに腰掛けているメルシィと同年代と思しき少女に行き当たると、ここへ来て初めて、サンデルの目に僅かな驚きの色が滲んだ。見知らぬ人間が家の中に入って来たというのに、その少女は一切顔を動かさず、表情一つ変えはしない。彼女の周りには透明な幕が張られていて、その幕が外界との通信を一切遮断しているのかと思われるほど、その少女は人形のように微動だにしない。

 ブレヒトとメルシィはその少女、エリゼのいるソファの方へ、メヌエと呼ばれた家政婦はお茶の用意をする為か、キッチンへと向かっていった。

「さあ、先生。こちらへどうぞ」

 ブレヒトに促されたサンデルは、少し戸惑いながらも、お得意の微笑でそれを隠して頷いた。

「エリゼ、悪いんだがちょっと移動してくれ。今からここでメルシィの大事な話をするんだ」

 ブレヒトがそう言ってエリゼと呼ばれた少女の背を軽く叩くが、彼女はブレヒトの方を見ようともしなければ、ぴくりとも動こうとしない。思春期か、反抗期か。そんな言葉では説明できないような異様な空気感が、二人の間を漂っていた。サンデルの微笑が困惑に変わっていく。その間も、ブレヒトは全く動こうとしないエリゼの細腕を引っ張り、それでもびくともしないので、終いには抱き上げて半ば強引にソファから引き剥がした。

 メルシィがブレヒト氏の本当の娘ではなく、養子だということは聞いていたが──この少女は、ブレヒト氏と血の繋がった、本当の娘なのだろうか。だとすれば、家庭教師をつけるべきは彼女の方ではないのか。それとも、既に他の家庭教師をつけているのだろうか。 

 サンデルはあれこれと、この家族について思考を巡らせた。他人の家の事情に首を突っ込む趣味はないが、家庭教師としてある程度は知っておく必要があるのではないだろうか。エリゼと呼ばれたこの少女は、思春期や反抗期にしては、あまりに感情が欠落しているように見える。人並み以上に勘の良いサンデルは、そこで「ああ、なるほどな」とおおよその察しがついた。恐らく、エリゼは精神を壊している。人間の精神は果実と同様に、腐食が進行すると真っ黒に朽ち、じくじくと汁を垂らしながら最後には形を失う。エリゼの精神の腐食がどれほど進んでいるのかはわからないが、今見ただけでもかなり重症だということはわかる。何があったのかは知らないが、彼女が元通りの生活を送れるようになるには、精神移植という選択しか残されていないだろう。精神科医をやっているらしい、この父親なら、さぞや金も持っているだろうし、真っ先に精神移植で娘を救おうと考えつきそうなものだが──まあ、この国じゃ精神の提供者となれるほどの精神には、ダイヤモンドよりも希少価値がある。金持ちはみんな、どれだけの大金を積んででも美しい精神を手に入れようと躍起になっている。この父親も、恐らくその一人なのだろう。


「先生、すみません。お恥ずかしいところをお見せしてしまいました」

 ブレヒトは紳士的な笑みを浮かべながら、サンデルにソファに座るよう促した。エリゼはというと、部屋の片隅にひっそりと置かれた籐椅子に移動していた。

「いえいえ、とんでもありません。可愛いお嬢さんが二人もいて、羨ましい限りです」

「そうですね。見ていて飽きませんよ。先生はご結婚は?」

「いえ、していません。考えてはいるのですが……このご時世、お相手を探すのにも一苦労ですから。それに今は仕事が私の心を支えてくれる、生き甲斐みたいなものです。子供はやはり可愛いですしね」

 サンデルがソファに腰掛けると、メルシィが弾むようにしてその隣に腰を下ろした。嬉しそうにサンデルを見上げる二つの目は、透き通った海のように眩いきらめきを放っている。ほんの一瞬ではあったが、サンデルはその輝きに思わず見惚れてしまった。瞳の純度は心の美しさに比例すると言われている。未だ社会の汚濁を知らず、経済的にもそれなりに恵まれた家庭に生まれた──サンデルの授業を受けられるような子供の中には、純粋で真っ直ぐな目をしている子も稀にいるが、メルシィの目の光は群を抜いている。きっとこの子の精神は、真っ白に透き通ったblancheに違いない。

「……先生?どうかされましたか?」

 メヌエがお茶を運んできたことにさえ気がつかず、信じられないものでも見たような顔つきで、サンデルはメルシィを見つめていたが、訝るようなブレヒトの声で、ようやく我に返った。

「すみません。大丈夫です」

「そうですか……では、早速本題に入らせていただきますが……」

 ブレヒトの話の最中も、言葉だけがサンデルの耳に届いて、内容は頭の中をすり抜けていくような感じがしていた。今まで何度もそうしてきたように、保護者との最初の面談で説明すべきことを、機械的に口にした。ブレヒトと話をしながらも、サンデルの頭の中は横にいるメルシィのことでいっぱいだった。正確に言えば、「メルシィの精神」に目が眩んでいた。

 その日の面談をなんとか事務的にやり過ごしたサンデルは、早速次の日からメルシィの家庭教師としてこの家に来ることが決まった。ブレヒトとメルシィに庭の門の前で見送られ、家を後にして、少し行った先でなんとなくサンデルが後ろを振り返ってみると、満面の笑みを浮かべたメルシィがいつまでも大きく手を振っているのが見えた。

 これはあくまで勝手な想像だが──サンデルは一人帰路を歩みながら、ブレヒト家の事情を考察した。メルシィはブレヒトの実子ではなく養子である。それも話によると、一緒に暮らし始めたのはたった一年前のことらしい。なぜブレヒトがメルシィを養子に取ったのか。考えられることは一つ。彼もまた、メルシィの穢れなき精神に魅せられたのだろう。そして、ブレヒトの実の娘であるエリゼは、精神を壊してまともに話も出来ない様子だ。恐らく彼は、メルシィの精神を我が子に移植しようとしているのだろう。しかし、気になることはいくつかある。メルシィを養子に取って一年も経つというのに、なぜ早々に精神移植を行わなかった?心を失う予定の少女に、家庭教師をつける理由とはなんだ?ブレヒトは、メルシィの精神をエリゼに移植する気はない──いや、なくなったと言った方が正しいだろうか。

 サンデルの推理は概ね的中していたが、彼にはまだ腑に落ちないところがあるらしかった。だが、しばらくするとサンデルは、妙に晴れやかな顔になって軽快に歩き出した。

 あの父親がどういうつもりなのかはわからないが、あの一家に付け入ってメルシィの精神を入手すること、それが不可能なら、利用だけでもできたなら──いい金儲けになるに違いない。そのような考えを抱くくらいには、サンデルの精神もまた、腐食が進んでいたということだ。

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