お茶会が開催された日から少し経ち、エリゼはなにかを話すことこそないものの、メルシィがやって来る前と比べて、目に見えて顔つきが柔らかくなっていた。無表情には違いないが、目には仄かな光が灯り、微かにではあるが「表情」が現れてきている。そして、その視線の行く先には、いつもメルシィの姿があった。メヌエに教えられながら、毎日のように掃除や洗濯、料理などの家事全般を熟してきたからか、今ではこの家のどこに何があるのか、メルシィも大体わかっている。メヌエの指示を待たずとも、自身のやるべき仕事を率先して片付けていくので、その日の仕事が随分と早くに終わってしまう。もちろん、メヌエにとってそれは嬉しく有難いことではあるのだが、一方であまりにも仕事が早く片付き過ぎて手持無沙汰になることが多く、所在ないと感じることが度々あった。メルシィはメヌエがそんな風に思っているなどとは、考えもしていないだろう。

「メヌエさん!お茶にしましょう!」

 メルシィはその日の仕事が一段落するなりそう言って、メヌエよりも早くお茶の用意を始めてしまうのだ。メヌエは苦笑しつつも頷いて、勤務時間の三分の一近くをメルシィたちと過ごす、ゆったりとした時間に費やしてしまう。真面目なメヌエは、汚れが残っている所は無いか、磨き足りない所は無いかと、神経質なほど家中をぐるぐると隈なく見て回るのだが、どうやらメルシィには家事の才能があるようで、手抜きと思われるような箇所は一切見つからなかった。「良いお嫁さんになれるわ」と、心の中で彼女の仕事ぶりを褒めつつも、「このままでは旦那様に申し訳ない。メルシィがいれば自分は必要ないのではないか」と、焦燥感を募らせていた。しかし、そんなメヌエの不安は、ブレヒトのある思い付きによって、突如払拭されることとなる。





 その日、珍しく仕事が早く終わったブレヒトは、メルシィとエリゼ、まだ退勤前であったメヌエも交えて夕食を取っていた。食卓にはライ麦パンにポトフ、キッシュなどの料理が並び、夜の静けさの中に、ナイフとフォークを動かす高い音が小さく響いていた。

 お嬢様、以前よりもよく食べるようになった気がするわ。

 向かいの席で、ゆっくりとフォークを口へ運ぶエリゼを見て、メヌエはふと思った。一日の殆どを座って過ごしているのでお腹も空かないのだろうと思っていたが、少し前まで、エリゼの食べる量は極めて少なかった。それが最近では、食べるペースは遅いものの、出された食事に一切手を付けないことはなくなった。それもこれも、お嬢様の隣で美味しそうにパンを頬張っているあの子のおかげかしら。メヌエはちらりと横目でメルシィを見遣り、くすりと小さく微笑んだ。

 それまで黙々と料理を口に運んでいたブレヒトだったが、フォークとナイフをそっと置くと、なにかを決心したかのような真剣な顔つきでメルシィを見た。

「メルシィ、勉強をする気はあるか」

 思いも寄らないブレヒトの言葉に、メルシィとメヌエは驚いて、二人して呆然とした表情を浮かべた。ブレヒトの質問の意味を理解するのに少し時間を要したが、メルシィは言葉を選ぶように慎重に、正直な思いを口にした。

「勉強、ですか……そうですね。正直に申し上げると、したいです。今でも家事が終わった後に、メヌエさんに文字を教えてもらったりはしているのですが……」

 メルシィはそう言って、ちらりと視線をメヌエに向けた。メヌエはそれに答えるように、控えめに頷くと、またすぐに視線をブレヒトの方へ戻した。

 家でのメルシィやエリゼの様子は逐一報告するようにとメヌエに言い付けていた為、メルシィがメヌエから文字を教わっていることはブレヒトも知っていた。

「ああ、メヌエから聞いているよ。だけど、もっとしっかりとした指導を受けてみたいと思わないか?」

「それは……」

 メルシィは答えに窮した。ブレヒトは身寄りのない自分を引き取ってくれただけではなく、三食の食事や寝室まで与えてくれている。少しでもブレヒトに恩返しがしたいと思い、家事を精一杯手伝ってはいるが、まだまだ足りない。にも関わらず、勉強だなんて……

 メルシィのそんな思いを察したのか、ブレヒトは穏やかに微笑んだ。

「遠慮することはないんだよ。メルシィ。私は君がこの家に来てくれてよかったと心から思っているんだ。もちろん私だけじゃない。メヌエも、エリゼだってそうだ」

 ブレヒトが二人に視線を向けると、メヌエは柔らかく微笑みながら頷いてみせた。エリゼは相変わらずの無表情ではあったが、彼女がメルシィによって良い方向へと変わりつつあるのは、誰の目から見ても明白だった。

 メルシィはどう答えていいかわからないといった様子で、困ったように俯いた。

「君の働きぶりは凄いとメヌエから聞いている。おかげで家はいつでもピカピカだ。庭だって綺麗になった。本当に感謝しているよ。だけど、君はまだ子供だ。子供が本来やるべきことは掃除や洗濯じゃない。勉強だ」

 ブレヒトのこの言葉を受けても尚、メルシィは答えに窮していた。勉強が嫌いなわけではない。読書好きなメルシィは知識欲も旺盛である上、将来安定した収入のある仕事に就く為には、勉強することが何よりも大切なのだとわかっていた。それに、学校という場所に通ってみたいという気持ちもある。そこには年の近い子供たちがたくさんいて、一緒に「授業」を受けたりしているらしいのだ。休み時間には友達と話したり、外で遊んだり──学校生活を送る自分の姿を想像しただけで、メルシィの胸は大いに高鳴った。前にも述べた通り、実際はこの国の学校は、メルシィの想像しているほど良い所ではないのだが……

 ブレヒトもそのことは重々承知していた。至上の精神を持つメルシィを、学校などという場所に通わせるつもりはない。メルシィの美しい精神を、下卑た街の子供らに少しでも触れさせるわけにはいかない。

メルシィがずっと黙っているので、ブレヒトが続けて口を開いた。

「メルシィ。私は君に勉強を、教育を受けてもらいたいと思っているが、君を学校に通わせるつもりはないんだ。家庭教師の先生を家に呼ぼうと考えている」

「かていきょうし……」

 メルシィはそう呟いた。あまりに突然の話に、明晰な頭も理解が追いついていない様子だ。家庭教師という言葉をメルシィはそれまで知らなかった。しかし、ブレヒトの短い説明から、それが一体どういうものなのか、ある程度汲み取ることは出来た。

 メヌエも些か驚いた様子で、ブレヒトとメルシィに視線を投げ掛けている。エリゼだけは表情一つ変えず、フォークとナイフを動かしながら、口をもごもごと動かしていた。まるで妻に話しかけるかのように、ブレヒトはメヌエを見た。

「職場の同僚も、息子に家庭教師をつけているらしいんだよ。それで話を聞いてみたら、知り合いの家庭教師を紹介してくれることになったんだ。なんでも教えるのがすごく上手くて人気の家庭教師のようだが、ちょうど暇が出たところだったらしい」

 ブレヒトは視線をメルシィに戻すと、まるで本当の父親のような、真剣な顔付きで言った。

「というわけだが、どうだいメルシィ?それとも、勉強は嫌いかね?」

 メルシィは首を大きく横に振った。

「そんなことはないです!私などに家庭教師をつけていただいて、勉強を教えてもらえるなんて、すごく有難いことだと思っています。ですが……本当によろしいのでしょうか。私は先生のご厚意で、この家に住まわせてもらっている身です。なにもお返しできていないのに……その上家庭教師なんて……」

 念のため書き添えておくが、この時メルシィは十一歳。にも関わらず、このように大人顔負けの丁寧な言葉をすらすらと操れるのだから、大したものである。一体どこで覚えたのか。考えられるとすれば本か、祖父に教わっていたかのどちらかである。

「メルシィ、さっきも言ったと思うが、子供は勉強することが仕事だ。私に遠慮する必要はない。私は──私たちは、君のことを本当の家族のように思っているのだから」

 そう言って笑うブレヒトの目は、慈悲深き神父のような優しさと温もりを湛えている。かつてメルシィの精神を愛娘の為に利用しようと画策していたことなど微塵も感じさせない、穏やかな微笑がそこにはあった。メルシィと出会う前、もしくは出会ったばかりの頃のブレヒトに、果たしてこれほどまでに優しい顔ができただろうか。恐らく、できなかっただろう。あの頃は笑うことさえ忘れていた。

 奇しくもブレヒトは、精神を奪わんとしていた少女に、自身の荒んだ精神を浄化され、救われたのだった。

 ブレヒトの心からの厚意を受け、メルシィの精神も今、更に美しく光り輝いている。体内の精神が見通せるとしたら、それは純白に発光し、彼女の肌を透かして眩い光を発散していることだろう。

 碧い瞳に透き通った涙が浮かび、白い頬を伝ってこぼれ落ちた。メルシィもブレヒトも、傍でこのやり取りを見守っているメヌエさえもが、自身の心が洗われていくかのような温かな恍惚に身を浸していた。今、彼らの心の中には、不安や迷い、悔恨に憤りなどの負の感情は一切混入していない。澄み切った優しい感情だけが、この部屋の中を満たしている。

 メルシィは涙を流しながら頷いた。メヌエがハンカチを持って来て、彼女の頬をそっと拭ってやっている。

「ありがとうごさいます……先生。私、がんばります。もっともっとがんばって、必ずお役に立ちます」

「ああ。君が来てから、私の楽しみが二倍になったよ。エリゼの成長と、メルシィ──君の成長を見ることだ。君は頭が良いから、たくさん勉強をすれば、必ずや素敵な大人になることだろう」

「はい。ありがとうございます……がんばります」

 メルシィの声には嗚咽が混じり、その言葉はほとんど聞き取れないほどか弱かった。いくら拭っても、碧い瞳からは次々と涙がこぼれ落ちてくる。

「さあ、メルシィ。顔を洗ってきなさい。家庭教師が来る日が決まれば、また報告しよう」

 メルシィは「はい」と頷いて椅子から立ち上がると、言われた通り顔を洗いに部屋を出て行った。途端に、誰もいなくなったかのような静謐が漂い始めた。ブレヒトは小さく息を吐くと、グラスに入ったワインを一口喉に流し込んだ。メヌエはというと、穏やかな澄んだ眼差しをブレヒトに向けている。何年もこの家に仕えているとは言え、使用人が家庭の話に首を突っ込むものではないと彼女は弁えていたが、ブレヒトがメルシィの為に家庭教師を招く決断をしたことは、メヌエにとっても純粋に喜ばしいことだった。いつしかメヌエは、メルシィのことを本当の妹のように可愛く思うようになっていたのだ。

 少しして、顔を洗ったメルシィが戻って来た。泣き過ぎた為に両眼は赤く滲んでいるが、その顔からは先ほどまでのような不安や迷いは消えている。抑えきれず喜びの余韻が微笑となって顔に現れている。メルシィがいるだけで、この空間がぱっと明るくなったような気がするのだから不思議だ。黒く淀んだこの国の中で、この一家だけが幻の孤島のように白く煌めいているかのような、幸福に満ちた食卓がそこにはあった。

 その時だった。

「……メル、シィ」

 三人の視線が即座にエリゼへと向けられた。

 エリゼは表情こそ変わらないが、唇を小さく動かして、小鳥が囀るような小さな声で、またもやメルシィを呼んだのだ。

 エリゼの視線は確固たる意思を持ち、メルシィを真っ直ぐに捉えていた。エリゼがなにかを伝えようとしている。そのことはメルシィにもはっきりと見て取れたが、エリゼが二言目を発することはなく、夜の静謐が音もなく流れていくばかりであった。

 メルシィは、膝の上に置かれているエリゼの手を、自身の両手でそっと包み込んだ。エリゼの目は、未だメルシィを捉えて離さない。灰色の瞳に、一人の少女の影が映っている。深い霧の彼方からこちらを見つめる少女の目。そこにいるのがメルシィなのか、それともエリゼであるのかさえわからない。

 ブレヒトは石像にでもなったかのように、固唾を呑んでふたりのやり取りを見守っていた。庭でお茶会が開かれた日──エリゼが恐らく初めてメルシィの名を呼んだあの日とほとんど違わぬ呆然とした顔つきをしていた。なぜエリゼは呼び慣れた「パパ」ではなく、かつて呼んだことさえなかったメルシィの名を呼ぶのだろう。胸の奥に微かな嫉妬心のような複雑な感情が芽生えたが、ブレヒトはそんな思いを抱く自分自身を稚拙だと恥じ、後ろめたい感情の芽を潰した。

 エリゼはメルシィに一体なにを伝えようとしているのだろう。私が彼女の声にならない思いを汲み取って、代わりにメルシィに引き渡す役割を果たしてやれたならどれほど良いだろうかとブレヒトは考える。しかし、エリゼはとても大切なことを伝えようとしているらしい。大切なことほど、直接言わなければ伝わらない時がある。

 エリゼの視線はふいに力無く逸らされた。なにかを諦めたような様子で、しかしそこに絶望や虚無の色は浮かんでいない。いつもと同じ、お人形のような無表情に戻っただけだ。健常者だって、常になにかしらの感情を顔に浮かべていると、表情筋が凝り固まって疲れてしまう。それ故に人は、時に独りになりたいと願うのかもしれない。エリゼはきっと、今までの人生の中で笑い過ぎたのだ。他の人々の分まで笑っていたのだ。だから、今は少し休んでいるだけ。女優だって家に帰れば、可笑しくもないのに笑っている理由などなくなるだろうし、向日葵だって夜が来れば俯いて目を閉じる。その中で例外があるとすれば──メルシィ、君はどうして笑うのだ?

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