不法投棄に大気汚染、黒々とした河川、黄ばんだ青空。神の怒りを買って見棄てられたようなこの国にも、春は訪れる。険しい冬を超えても尚、人々の表情はそれほど変わらない。道路に散乱した生ごみに集る蠅や鼠の群れの方が、季節の変化を喜んでいるように見えた。人々が季節の移ろいの愉しみを忘れてしまったのは、貧困や飢餓が原因ではない。──いや、元を辿ればそれらが原因に当たるのかもしれないが、いくら貧しかろうと、心を失くしていなければ季節の変化を愉しむことはできる。この国で生きる為には、いっそ心を殺してしまうことも一つの方法である。だが、そうまでして生きる意味とはなにか。大抵はその疑問に行き当たる。その結果、路地裏や貧民街には、弔いを忘れられた人間の死体が積み重なっている。この国でなにかを愉しむ権利を与えられるのは、幸運にも定職に就き、自力で一定以上の生活水準を保つことができる者のみである。




 暖かい春の日差しのような、穏やかな日が続いていた。後にブレヒトがメルシィと共に暮らした日々を振り返った時、最も平穏で幸せな期間として、この時期を思い出すことになる。

 階下から少女の甲高い声が聞こえて、書斎の書き物机に向かっていたブレヒトは顔を上げた。滅多にない休日にも関わらず、ブレヒトは持ち帰った事務仕事を片付けていた。両腕を天井に伸ばして大きく伸びをすると、長時間座っていた為に痛む腰を労わりながら、ゆっくりと立ち上がった。

 書斎の窓からは庭が見下ろせる。メルシィが時折メヌエの手も借りながら、かれこれ一カ月近くも庭の手入れに勤しんでいる為、業者を呼ぶ必要もないほど庭は綺麗になった。伸び放題だった草は刈られ、花壇では色鮮やかな花々が風に揺れている。

 メルシィになにか褒美をやらねばならないな、とブレヒトは考えていた。あれくらいの年の子だと、何をあげれば喜ぶだろうか。あの子なら、きっと何を貰っても飛び跳ねて喜びそうだが。こういう時、エリゼに相談できればよかったのにと考えて、少しだけしんみりとする。

 メルシィが頑張ってくれたおかげで、庭はあの頃と同じくらい綺麗になった。ブレヒトの妻、ジゼルが生きていた頃と同じくらいに。ジゼルも暇さえあればいつも庭に出て花壇をいじっていた。病で身体が動かせなくなる直前まで、花に水をやらない日はなかっただろう。ジゼルが亡くなってから庭の手入れを殆どしてこなかったのは、仕事が忙しかったからというのも勿論あるが、手入れの行き届いた庭を見ると、今は亡き愛する妻の姿を思い出してしまうからという理由が大きかったのかもしれない。

 ブレヒトが書斎の窓から庭を眺めていると、甲高い声が響くと同時に、メルシィの走る姿が見えた。

「メヌエさん!見てください!燕の巣がありますよ!ほら、あそこ!メヌエさん!」

 メヌエを呼びに行ったのか、メルシィはブレヒトの視界の外へと慌ただしく駆けていく。まったく騒がしいやつだ。ブレヒトは思わず笑みを漏らした。それからすぐに、今度はメヌエとエリゼの手を引くようにして、メルシィが庭に現れた。どうやら燕の巣は、ブレヒトの書斎の窓からも見える木の上にあるらしい。メルシィが指を指して、メヌエと共に上を見上げている。もう片方の手は、エリゼの手と繋がれていた。

 ジゼル、これでよかったんだよな。

 ブレヒトは心の中で妻に問いかけた。声が返ってくることはないが、その答えはわかりきったことだ。

 その時、ふいに振り返ったメルシィが、書斎の窓から庭を見下ろすブレヒトに気がついたらしく、満面の笑みで手を振ってきた。その口の動きは、「せんせい」と呼んでいるように見える。ブレヒトは小さくメルシィに微笑み返し、部屋を出て庭へ降りていった。庭に出るなり、メルシィがブレヒトの側へ駆け寄ってくる。

「先生!もうお仕事は終わったんですか?」

「まだ終わってはいないが、少し休憩しようと思ってね。窓からみんなの姿が見えたものだから。燕の巣があったんだって?」

 ブレヒトはそう言って、先ほどメルシィたちが見上げていた木に視線を向けた。

「そうなんですよ!ほら、あそこです!」

 メルシィはブレヒトの手を取ると、もう片方の手で燕の巣がある方を指差しながら、彼を木の下へと連れて行った。メルシィの指差す方に目を凝らすと、生い茂る木の葉の影に、お椀のような形をした黄土色の巣がたしかにあった。その中で二、三羽だろうか──親鳥と、巣から顔を覗かせて、餌を求めて小さな嘴を精一杯開けている雛鳥の姿も確認できた。

「ほんとうだ。これはなんだか、良いことがありそうだね」

「はいっ、きっと良いことがたくさんありますよ!」

 ブレヒトとメルシィは顔を見合わせながら笑った。二人のことを知らない者が見れば、彼らは仲の良い父と子にしか見えないだろう。メヌエはそんなことを考えながら、絵画のように幸福なこの光景を静かに見守っていた。

「旦那様、お茶にされますか?」

「ああ、そうだな。そうしよう。折角メルシィたちが庭を綺麗にしてくれたんだ。ここでお茶会をしよう」

 ブレヒトがそう言ってメルシィを見ると、メルシィは嬉しそうに笑いながら頷いた。

「それじゃあ、私は準備してきますね」

「私も行きます!先生とエリゼは座って待っていてください!」

 メヌエの後に続いて、メルシィも忙しなく家の中に入っていった。メルシィの姿が見えなくなった途端、辺りが急に静かになった。少し前まではこの静けさこそが当たり前の日常であったはずなのに、メルシィがやって来てから、この家全体が太陽の光を吸収しているかのように眩く発光し始めた。

 ブレヒトは隣に立つエリゼに視線を向けた。エリゼは相変わらず人形のような無表情で、先ほどまでメルシィがいた所をじっと見つめている。その目は、メルシィの姿が見えなくなったことを寂しがっているかのように、ブレヒトには見えた。

 普段、エリゼがなにかを話すことは基本的にない。精神を壊してしまった人の中でも、発狂し暴れ回る者もいれば、抜け殻のような状態になってしまう者もいる。エリゼは後者であった。しかし、メルシィがやって来てからというもの、ほんの僅かにではあるが、エリゼの顔に表情が取り戻されつつあるように見えるのだ。ブレヒトは、愛娘のそんな変化を誰よりも喜ばしく思っていた。

「エリゼ、あっちで座って待っていよう」

 ブレヒトは娘の背中に手を当てると、誘導するようにガーデンテーブルのある方へと歩み始めた。




 春の陽光が降り注ぐ庭にて、メルシィ達ての願いであったお茶会が開かれた。ガーデンテーブルの上には、メヌエとメルシィお手製の温かな紅茶にスコーン、サンドウィッチなどが並べられている。陶器のポットからティーカップへ紅茶を注ぐと、湯気と共に芳しい甘い香りが漂った。スコーンにはクロテッドクリームか、甘酸っぱい苺のジャムをたっぷりと塗って食べるのがメルシィは好きだった。この家で暮らすようになるまで、スコーンなど食べたこともなければ、そういう食べ物があることさえ知らなかった。山奥での祖父との二人暮らしが困窮していたわけではない。この家での生活が豊か過ぎるのだ。祖父との暮らしは決して裕福とは言えなかったが、節約をすれば明日食べていくものには困らなかった。

 この国では、全体のおよそ三分の一近くの人々が、明日食べるものが無くて困っている。食べるという行為に、飢餓からの脱却ではなく愉しみを見出すことができるのは、中流階級以上の国民のみに与えられた特権だ。飢えは身体だらけでなく、精神をも確実に蝕んでいく。明日食べるものが無いという苦しみは、経験したことのない者にはわかるまい。だから、空腹で死にかけている人がいることを知っていても、愉しみを目的とした食事ができるのだ。

 まだ幼いメルシィがそこまで深く考えていたわけではない。しかしながら、甘いスコーンを口に運んだ時、かつて祖父と囲んだ食卓の光景がふと脳裏を掠めた。どちらが良いということでもない。ただ、優しいこの少女は「こんなに美味しいものを食べてもいいのだろうか」と、少し不安になっただけだ。

「これは美味いな。甘いものなんて久々に食べたよ」

 ブレヒトはそう言った後も、一口大にちぎったスコーンにクロテッドクリームをたっぷりと塗って、口に運んでは咀嚼する。それを見ていたメヌエが小さく微笑み、遠慮がちにスコーンに手を伸ばした。

 その様子を見て、メルシィもスコーンを口に運んだ。その瞬間、ジャムの甘味が口の中いっぱいに広がった。

 エリゼだけが未だにテーブルの上の食事に手をつけず、ただそこに座っている。父親譲りの薄いグレーの瞳はどこを見ているのか。彼女が精神を壊してしまってからは、父親であるブレヒトでさえも、彼女の視線の先にいつまでも辿り着けないでいる。ブレヒトたちの会話は、果たしてエリゼに聞こえているのか。陶器のようなその表情からは、何一つ読み取ることができない。人形の顔には一切の感情が浮かんでいないのと同じように。

「エリゼ、美味しいよ。食べてみて」

 エリゼの薄い唇の前に、小さくちぎったスコーンが差し出された。たっぷりと塗りつけられた苺ジャムは、陽の光に当てられてきらきらと赤い宝石のように煌めいている。

 エリゼの瞳孔が伸ばされた白い細腕を辿って、ゆっくりとメルシィの方を見た。メルシィは春に咲く向日葵のような、満面の笑みを浮かべながら、エリゼがスコーンを食べるのを今か今かと待っている。少女二人の視線のやり取りを、ブレヒトとメヌエは固唾を呑んで見守った。

 エリゼがメルシィを見た。今もじっと見つめている。ブレヒトは、自身の鼓動の音がこの緊張を破ってしまうのではないかと危惧した。そして、ブレヒトは目にした。この国の言語ではとても言い表せない、奇跡のようなその一幕を。

「メ……ル、シ……」

 エリゼの唇が僅かに開き、その中から白い花弁のような歯列が覗いた。吸い寄せられるようにエリゼが顔を傾ける。銀色の髪が滑り落ち、危うく苺ジャムが付きそうになった。一口大にちぎられたスコーンはメルシィの指を離れ、赤い舌を伝ってエリゼの口の中へと消えていった。

 ブレヒトもメルシィも、そしてメヌエも、「信じられない」という言葉を含んだ視線をエリゼに向けている。時が止まったかのような静謐の中、エリゼは周囲の動揺など知りもしないといった様子で、白く艶やかな頬を膨らませたり窪ませたりして一生懸命咀嚼していた。やがて口の中のものが無くなったのか、エリゼの顔にはいつもと同じ無表情が戻った。しかし、まだ三人は夢の中にいるのか、魂の抜けたような間の抜けた顔をしていた。

 そんな中、続けざまに奇跡は起こる。これは神の気まぐれか。それとも少女の悪戯か。

 苺ジャムが付着した赤い唇が、再び小さく開いた。

「メル、シィ……」

 耳を澄ましていなければ聞こえない、蝶の羽音のように小さな声ではあったが、たしかにエリゼはそう言った。メルシィ、と。その名を呼んだのだ。

 何が何だかわからない。俺は夢でも見ているのか?いや、この奇跡が夢だなんて、そんな悪い冗談はやめてくれよ、エリゼ?

 その時、一際つよい風が吹いて、白いテーブルクロスと少女らの髪を乱した。ゆらりゆらりと、スコーンの皿のすぐ側に、どこからともなく舞い落ちてきた木の葉の鮮明な緑色が、これが紛れもない現実なのだということをブレヒトに知らせているかのようだった。その瞬間、ブレヒトの目から一筋の涙がこぼれ落ちた。娘の声を聞いたのはいつ以来だろう。少し声質が変わっているような気がした。どうしようもないほどの喜びと愛おしさが、胸の奥から込み上げて来ては涙となって溢れ出す。

 エリゼがメルシィの名を呼んだのは、彼女になにか伝えたいことがあったからなのだろう。スコーンが思いの外美味しかったから、もっと食べさせろと言いたかったのか?ブレヒトは苦笑した。いいや、そんな単純なことではないだろう。エリゼの発した短い声には、家族に対してのものと同等の、深い親愛が込められているように聞こえた。

 暫しの間、ブレヒトと同じように呆然としていたメルシィだったが、夢から目覚めるかのように、はっと我に返ると、徐に立ち上がった。そして、隣に座るエリゼの前へ一歩踏み出すと、その身体をふわりときつく抱き寄せた。メルシィは、肩を震わせて泣いていた。エリゼに名前を呼ばれたことが、よほど嬉しかったのだろう。エリゼはというと、やはり感情の浮かばない目で、メルシィの肩越しにブレヒトをじっと見つめている。「自分はどうして抱きしめられているのだろう」とでも思っているのだろうか。長い睫毛に縁取られた虚ろな瞳が、じっとブレヒトを見つめていた。



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