Ⅴ
その後、メルシィは自身の言葉通り自発的に家事の手伝いをした。今までも祖父との二人暮らしで炊事や掃除などを担当していたからか、頼まれたことの大半はすぐに覚えて卒なく熟した。家事に慣れているだけではなく、地頭も良いのだろう。
「メヌエさん!すみません、このティーカップはどちらに仕舞えばいいですか?」
「それは来客用でたまにしか使わないものですから、この棚の奥へ」
「わかりました!」
家の中をテキパキと動き回るメルシィはまるで、小さな新米家政婦だ。わからないことがあればすぐにメヌエに質問しているらしく、口を開けばメヌエさん、メヌエさんと、仔犬のように彼女の周りを駆け回る。メヌエはメルシィがやって来たばかりの頃こそ困惑した様子だったが、近ごろはそれこそ先輩家政婦──いや、姉と言った方が似合うだろうか──本当の姉のように、口元に小さな微笑を浮かべながらメルシィに優しく教えてやっている。
その様子を見て、ブレヒトはもう長いことメヌエの笑った顔を見ていなかったことに気がついた。メヌエにはブレヒトの妻が生きていた頃から、家政婦としてこの家の仕事をしてもらっている。妻が生きていた頃、そして、エリゼが心を失うまでは、メヌエも笑顔を見せることがあった。元々大人しい性格の女性ではあるが、妻やエリゼがなにか冗談を言うと、口元に手を当てて、小さく上品な笑みを浮かべていた。
メルシィには、やはり人を引き付ける天性の素質があるらしい。それは我が娘、エリゼがかつて持っていたものに限りなく近い。無意識に彼女たちの身体から発散される目には見えない光が、沈殿した暗い空気を払拭する浄化作用を持っているに違いない。
メルシィがやって来てから、メヌエはどこか楽しそうだ。妹のような存在ができて嬉しいのか、今までのようなつんとした無表情もあまり見られなくなった。その視線の先を辿れば大抵メルシィに行き当たる。彼女の眼差しはメルシィを追いかけ、口元は小さく微笑んでいた。顔色も以前よりか良くなったように見える。それに、料理の腕にも更に磨きがかかったようだ。
メルシィの謎めいた力によって変わりつつあるのはメヌエだけではない。ブレヒト自身もまた、メルシィと過ごすうちに心の重荷が解れるような、軽やかな気持ちを味わうことがあった。変わった話や面白い冗談を言うわけでもない。ブレヒトがメルシィと言葉を交わすのは朝食の時と、ブレヒトが仕事から帰った時くらいだった。玄関の戸が開く音が聞こえると、メルシィが駆け足でやって来る。その足音を聞くとブレヒトは、飼い主の帰りに狂喜乱舞する小型犬のようだと思い、思わず笑ってしまう。
「先生、おかえりなさい!」
「ああ、ただいま。今日はどんなことをしていたんだい?」
「いつものように掃除や洗濯をして、その後メヌエさんとエリゼとお茶を飲みながら色々な話をしました!」
「そうかい。それは良かった」
「先生の次のお休みはいつですか?もしお時間があれば、最近は暖かいですから、お庭でお茶会ができたらいいねってメヌエさんと話していたんです」
ブレヒトが脱いだ靴を揃え、ジャケットを脱ぎながら寝室へと向かう彼の後ろをちょこちょこと追いかけながら、メルシィはその広い背中に向かって話しかけ続けた。階段の前でブレヒトが立ち止まり、感情の読めない表情でメルシィを振り返った。メルシィはどきりとした。つい出過ぎたことを言って、先生を怒らせてしまったのではないかと危惧したのだ。
「ご、ごめんなさい。勝手に……」
さっきまでの元気は何処へやら。如何にも子供らしく、しょんぼりと俯くメルシィの頭に、ブレヒトの大きな掌がぽんと置かれた。
不安げな視線を持ち上げた先では、ブレヒトが優しい微笑を浮かべていた。その顔に怒りの感情が含まれていないことに、メルシィは若干安堵したが、自分を見るブレヒトの目が、ひどく哀しそうなことが気がかりだった。
「いや、いい。ただ、私は仕事が忙しくてね。しばらく休みを取れそうにないんだ。すまないが、お茶会はメヌエとやってくれ。それと、よかったらエリゼも仲間に入れてやってほしい」
「もちろんです、先生。お忙しい中、無理を言ってしまって申し訳ございません」
「そんなこと気にしなくたっていい。また話を聞かせておくれ」
ブレヒトはそれだけ言うと、その場にメルシィを残して二階へ続く暗い階段を上り始めた。半分ほど行った所で視線を感じて振り返ると、メルシィが未だ同じ場所からブレヒトを見上げていた。
「あ、そうだ。もう長いこと庭の手入れをしていないからな。君も知っての通り、うちの庭はよくわからない草花の群生地だ。本当にお茶会を開きたいなら業者を呼んでもいいが、どうする?」
メルシィは笑顔で、しかしゆっくりと首を横に振った。
「ありがとうございます。でも、業者の方は呼んで頂かなくて大丈夫です。先生にご迷惑はかけられません。私だけで、頑張ってお庭を綺麗にしてみせます!」
庭をいつまでも今のような状態で放置しておくわけにはいかないし、メルシィのお茶会の話がなくとも、近いうちに業者に来てもらおうとは考えていたのだが……
しかし、ブレヒトはそのことはメルシィには明かさず、微笑みながら頷いた。
「ああ。楽しみにしているよ」
メルシィは嬉しそうに、愛らしい笑みを浮かべた。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
庭の手入れをメルシィに任せることにしたのには理由がある。この子が頑張っているところを、なんとなく見てみたいと思った。それは、困難に立ち向かい奮闘する物語のヒロインを見守り、応援したいと思う感情に近いかもしれない。挫けそうになって落ち込んでいたり、かと思えばまたやる気を出して駆け回ったり、遂に目的を成し遂げた時に浮かび上がる太陽のような笑顔──目まぐるしく移り変わる表情を想像するだけで、愛娘の笑顔を見ているような、温かい気持ちになるだろう。
*
ブレヒトは寝室へ入ると部屋の明かりも点けぬまま、しばらくの間扉を背に、暗い室内に佇んでいた。目を閉じれば、まるでそこにいるかのように鮮度を保って浮かび上がる、メルシィの笑顔、あどけない無邪気な声!
メルシィがこの家へやって来てから、ブレヒトは不自然に思われない程度に極力彼女と距離を保ち、情が湧かないよう注意を払ってきたつもりだった。だが、ブレヒトは同情から彼女を家へ招いたわけではない。欲しいのは彼女の穢れなき精神、それだけだ。メルシィの精神はエリゼを救う為に存在するのだ。そう割り切ってメルシィを迎えたはずだった。それなのに何故──
ブレヒトは、メルシィがこの家へやって来てまだそれほど経たない頃から、精神移植を実行する機会を伺っていた。それがどうしてか、メルシィに声をかける度、いつもタイミングを逃してしまうのだ。二、三度はメルシィを自身の書斎に招き、二人きりになるところまでは漕ぎつけた。あとは彼女に全てを打ち明ければいい。「エリゼを救う為に、君の精神が必要なんだ」と、そう言ってしまえばいい。きっと優しいメルシィのことだから、エリゼを不憫に思って自らの精神を差し出す決断をするだろう。
それなのに、たったそれだけの簡単なことが、どうして躊躇われるのか。無垢な少女を欺けるほど、この老いぼれた精神は腐ってはいなかったということか。
メルシィを書斎に招いた時も、さっき階下で少し話した時だって、何も知らないメルシィは愛らしく笑っていた。先生、先生と言って後ろをついて来た。やめろ。お願いだからやめてくれ。私は君を殺そうとしているんだ。自分の娘を救う為に。
ブレヒトは扉に凭れながらその場に屈み込むと、自嘲的な笑いを漏らした。泣いているのか笑っているのかわからないような笑い声が、暗い室内に小さく響いた。傍から見れば、頭がおかしくなったのではないかと思われるかもしれない。
自分にメルシィは殺せない。メルシィにはメルシィの歩むべき人生がある。あの子の未来も精神も、あの子だけのものだ。
医師であるブレヒトは、今までに何度か精神移植の手術を行ってきた。双方合意の上での精神移植は、この国では罪に問われない。精神を授かる者は健常な心を取り戻し、精神を譲り渡す者もまた、自らの精神と引き換えに莫大な謝礼金を手に入れる。その金があれば、飢餓に喘ぐ家族を助けられるだろう。尤も、貧困に苦しむ人々の中に、価値ある美しい精神を持つ者などなかなかいない。少なくとも大人には。しかし、まだそれほど世間を知らない子供なら、苦しい環境下に置かれていても、精神はそれほど汚れていない場合もある。小さな子供の精神を移植することは、双方にとってリスクが大きい。精神を譲った子供は命を落とす可能性が高く、精神を譲り受けた者もまた、精神が適合せずに更なる発狂を引き起こすことがある。その為、精神移植ができる年齢は、譲る方も譲られる方も十歳以上であると法律で定められていた。
ここまで来て倫理やら道徳やらといった、普段なら歯牙にもかけないような言葉が脳裏を掠め始めた。腐敗したこの国で、同情や罪の意識などといった感情は命取りになる。そんな当たり前のことが間違っていると、ブレヒトは今になって気付き始めていた。何が彼を変えたのか。考えるまでもない。
ブレヒトは億劫そうに立ち上がると、扉を開けて明かりの漏れる廊下へ出た。これから余命宣告でも受けに行くかのような面持ちで、一歩一歩踏みしめるような足取りで階段を下りる。リビングからは少女の笑い声が漏れている。
「先生がお庭をお茶会に使ってもいいと仰ってくださったの!もちろん、今の状態ではできないわよ。私がお手入れするわ。お茶会ができるくらいにはね。先生はお忙しいみたいだから参加できないと言われていたけど……もしかしたら、少しだけでも時間を取っていただけるかもしれない。お庭を綺麗にして、先生をびっくりさせてあげるの!だって、折角こんなに広いお庭があるんだもの。草が伸び放題のままじゃ勿体ないと思わない?あ、もちろん、お庭の手入れは他のやるべきことが済んだ後にやるつもりよ。メヌエさんにも迷惑はかけられないから、私一人でやるわ。ふふっ、楽しみ!」
メルシィはエリゼを相手に、一人で喋り、一人で笑い続けている。楽しそうに、仲の良い友達と会ってでもいるかのように。
ブレヒトはしばらくの間、リビングのドアの前に立ち、中から漏れ聞こえるメルシィの話に耳を傾けていた。自分の家にも関わらず、どうしてか部屋の中に入ることが躊躇われた。女の子同士の会話に水を差してはいけない、という思いがあったからかもしれない。明らかに独り言ではない、誰かとの会話であるにも関わらず、一人分の声しか聞こえてこないというのは、場合によっては一種不気味なようにも感じられる。だが、ブレヒトは一人扉の前で、胸の中から込み上げてくる熱い感情にその心を浸し、忘れかけていた喜びが傷口に染み入る優しい痛みに打ち震えていた。薄いグレーの虹彩に半透明の膜が張り、瞳孔が不規則に揺らいでは滲んだ水滴が睫毛を濡らして乾いた頬に静かに触れた。指先でそっと頬をなぞると、温かい雫が吸い付くように指先に付着した。
なんだこの感情。長らくこんな気持ちを味わっていなかったから、どう表したらいいか、ブレヒトはすぐに言葉が思い浮かばなかった。
今のブレヒトの胸の中にあるのは喜びと、メルシィに対する感謝の気持ち、それだけだった。メルシィ、ありがとう。私の愛する娘と仲良くしてくれて。あの子は精神は壊れてしまったが、心を失くしたわけではない。周りにいたはずの沢山の人がいなくなってしまって、寂しいと感じていただろう。嗚呼、メルシィ。我が娘の為とは言え、君の、君だけの心を犠牲にしようとした愚かな男を、どうか許してほしい。
ブレヒトは子供のようにシャツの袖でごしごしと涙を拭うと、まだ赤みの残る目をして明かりの漏れる部屋の中へ入っていった。
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