周囲を木々に囲まれた、閑静な郊外の一角に佇む邸宅。重厚でありながらどこか荒廃した侘しさを湛えるこの屋敷こそ、ブレヒトが愛娘、エリゼと暮らす安寧の箱庭である。近隣に住まう人々は医師や弁護士、政治家などの経済的地位が比較的高いと言える職に就く者とその家族ばかりだ。街中で蔓延るような見苦しい殴り合いや、呆れるほど低俗な言葉の応酬、そういった騒ぎの届かない静かな土地柄であることがブレヒトの気に入っていた。

 ただ、この地域が安全なのかと聞かれると、寧ろその逆だと言う外ない。貧困と飢餓の蔓延するこの国の中で、富裕層が身を寄せ合って暮らしているとなると、当然のことながら腹を空かせたハイエナどもが集まってくる。ブレヒトの可愛い娘までもが被害に遭い、無辜たる精神を余すことなく食い尽くされたのだ。

 あの恐ろしい日の悪夢は、今も尚ブレヒトに牙を向く。エリゼが笑っている。透き通った頬には桜色が淡く滲み、父親譲りのグレーの瞳を綻ばせ、屈託のない愛らしい笑顔で「パパ」と呼んでいる。ブレヒトがエリゼの方へ行こうと一歩踏み出したその時、彼女の顔が恐怖に歪み、耳を劈くような断末魔の悲鳴が轟く。そこでいつも目が覚める。薄暗い寝室の中では少女の寝息も聞こえない。プールにでも行った帰りのように、全身を冷たい汗が濡らしていた。あれから、何度同じ夢を見ただろう。地獄のような現実の夢を。

 朦朧とする意識の中でベッドから這い出ると、おぼつかない足取りで隣の部屋へと向かった。ぬいぐるみにお人形、ドレッサー、みんな娘の笑顔が見たくて買った物だ。

 エリゼはベッドの上で眠っている。微かな寝息を立てながら、凍ったように眠っている。もしも王子様のキスで娘にかけられた呪いが解けるというなら、ブレヒトは喜んで愛娘を送り出すつもりだ。柔らかな前髪を払い、小さな額にそっと触れた。

 ブレヒトが仕事で家を空けている間、悍ましいハイエナどもはエリゼのいる家にやって来た。玄関の鍵はもちろん閉めていた。奴らは何食わぬ顔でベルを鳴らすと、郵便業者の真似をしてエリゼを呼んだ。留守中に誰か来ても出ないでいいと、ブレヒトが普段から言い聞かせていたにも関わらず、居留守を使うことに罪悪感を覚えたのか、エリゼは決して開けてはならない扉を開けてしまった。馬鹿が。いや、馬鹿は俺だ。悔やんでも悔やみきれない。涙は枯れた。希望は死に絶え、親子の瞳は暗雲に濁んだ。

 真面目な郵便屋の演技を崩さぬまま、奴らは玄関へ上がり込むと──いや、嫌だ。やめてくれ。そこから先を少しでも考えようとすると嘔気が込み上げてくる。身体の中が空っぽになるまで何もかも吐き出して、あとには何も残らなかった。短い期間で随分と老けたように見えるブレヒトを、近所に住む者や同僚たちは憐れみ、腫物に触るかのように慎重に扱った。

 エリゼは珍しい子供だった。視線が合えば誰であろうと明るく話しかけるし、困っている人がいれば放っておけない。学校は授業も碌に成り立たぬほど荒廃していたが、劣悪な環境下でもエリゼだけは清らかな光をその身に宿し、その明るさは周囲の人々の心をも浄化した。大人も子供も、みんなエリゼが好きだった。

 他人と話せば騙されると思え。大人は自分の子に幼い頃から言って聞かせる。それがこの世界を生き抜くために必要なことだからだ。もちろん、ブレヒトもエリゼに言い聞かせていたが、エリゼは「わかった!」と元気な声で言いながら、次の瞬間には見知らぬ人の方へ歩み寄っていた。エリゼは特別な子だった。本が大好きで、幼くして学ぶことの悦びを知っていた。将来は作家になりたいとよく言っていた。

 しかし、あの日エリゼの精神は死んでしまった。穢れなき白い魂は食い尽くされ、今の彼女の胸の奥には無惨な残骸が散らばっているだけだろう。エリゼの顔から笑顔が消え、声さえ失ったかのように殆どなにも話さなくなり、学校へ通うこともやめた。表情の無い顔をして、何をするわけでもなく、一日の殆どをリビングの籐椅子に腰掛けて過ごす。身体と生理的欲求は機能しているが、それ以外はほとんど人形と同じ、抜け殻のようになってしまった。エリゼのことを好きだったはずの人々も、いつの間にか彼女の前から消えていた。




 メルシィの精神の美しさは本物である。かつてのエリゼと同等──もしくはそれ以上のものかもしれない。ブレヒトは心から神に感謝した。そういえば、もう何年も祈りを捧げることを忘れていた。

 この純粋な少女は、これから自身の身に起こることなどきっと想像もしていない。猜疑心など一切持ち合わせていないだろうから、まるでカルガモの親子のように、ブレヒトの後ろをノコノコとついて来た。まあ、他に行く宛てもないだろうから、嫌でもそうするしかないか。メルシィは爛々と輝くその目で、醜悪なこの世界をどう見るのだろう。

 ブレヒトの家まではタクシーで向かったが、窓ガラスの向こうを凄まじい速さで流れゆく街の景色を、メルシィは食い入るように見つめていた。クラクションが鳴り響いては罵声が飛び交い、身体に悪そうな排気ガスが充満し、歩道を歩く人々は当たり前の顔をして塵を投げ捨てる。路地裏から飛び出して来た痩せた猫が車に轢かれても、まるで何事もなかったかのように時間が進んでいく。猫の死体は無惨に車輪に踏み潰されていく。メルシィを山奥に隔離していたという祖父の気持ちがブレヒトにはよくわかった。自分もそうすべきだったのかもしれない。そうすればエリゼは──いや、たらればは止そう。虚しくてたまらなくなる。それに、この少女を生贄にエリゼは救われるのだ。メルシィの穢れなき精神をエリゼの中に移植すれば、エリゼはきっとまた笑ってくれるはずだ。その為なら、俺は少女の未来を奪う悪魔にだってなれる。


「さあ、着いたよ。今日からここが君の家だ」

 短い余生を過ごすことになる家だ、と悪魔は優しい笑顔の下で付け加えた。無垢な少女は目を輝かせる。祖父の死から何日か経過し、まだ心の傷は深いものの、墓地で廃人のようになって泣いていた頃と比べれば、かなり回復したように見える。

「こんなにも素敵なお家で暮らせるなんて、なんだか夢を見ているみたいです!お爺様も一緒だったら……いえ、本当に夢みたい。先生になんとお礼を申し上げたらいいか……」

「大袈裟だよ。古い家で不便なところもあるだろうが、困ったことがあれば何でも言ってほしい。今日から君は家族になるんだから」

 愛娘の為を思えば、目の前にいる少女の嬉しそうな笑顔など、ブレヒトにとっては取るに足りないもののように思えた。





 広々とした庭は初夏になると色鮮やかな薔薇が美しい。元来の虚弱体質が災いし、若くして肺炎で亡くなったブレヒトの妻が植えたものだ。ブレヒトは常駐の庭師を雇うほどでもないと思っている為、現在は草が伸び放題で殺伐としている。瀟洒な煉瓦造りの建物の外壁には蔦が絡まり、どこか退廃的な空気を纏っていた。玄関に入ってすぐの所に二階へと続く階段があり、広々とした廊下がある。アダムスタイルの応接室に、庭に面したサンルーム。二階にはブレヒトとエリゼの寝室、加えて客室が二部屋ある。父とその娘が二人で暮らすには些か広すぎる家だ。メヌエという名の若い──と言っても、二十代後半にはなるのだろうが──通いの家政婦が一名いる他には、ブレヒトとエリゼを除いてこの家に出入りする者は一人もいなかった。

 山奥の小さな小屋で、祖父と二人で暮らしていたメルシィからすると、この家は王様やお姫様が暮らすお城に見えた。自分は夢でも見ているんじゃないか。だとしたら、お爺様が死んでしまったことも夢ではないのか。どこからどこまでが夢なんだろう。これが夢ならば、どうしてお爺様はどこにもいないのだろう。深い哀しみは時にメルシィの心を曇らせるが、それによって魂が濁ることはない。傷を負いながらも今生きていることの喜びに感謝する、ひたむきな姿勢が防腐剤になっていた。

 ブレヒトに続いてリビングに入ると、メルシィはそこに二人の人物を認めた。一人はメルシィと年の近そうな銀髪の少女である。草花模様のアンティークソファに腰掛けている、お人形のように可憐な横顔の少女だ。もう一人は二十代後半くらいの女性で、エプロンを身に着けていることから家政婦かそれに近い存在だとわかる。

 家政婦と思しき女性が、まずは視線だけをブレヒトとメルシィにちらりと向けた。それから二人の方に身体ごと向き直ると、「おかえりなさいませ。旦那様」と恭しく言った。

 この人はお手伝いさんだろうか。あそこで本を読んでいるのは、先生の娘さん?お手伝いさんがいるなんて、本当にここはお城みたいだ!それに、あの女の子はお姫様みたい!

 ブレヒトがコートを「お手伝いさん」に手渡す一連の流れををきらきらとした目で見つめながら、メルシィはこの家の生活を想像して胸を膨らませた。

「この子がメルシィだよ。前に話しただろ。メルシィ、彼女はメヌエ。この家の家事をやってもらっている。日中私は家にいないことが殆どだが、困ったことがあれば、なんでもメヌエに言うといい」

 ブレヒトからの紹介を受けて、メヌエは彼のコートを抱えたまま、にこりともせずに無言で礼をした。頭を上げた時のその顔からは、礼をする前よりも更に表情が消えているかのように見えた。深い緑色の瞳は真っ直ぐにメルシィに向けられているが、さして興味の無さそうな、人形のような目だ。そんな家政婦をメルシィは少し奇妙に思ったが、特に気に留めることはなく、弾けるような無邪気な笑みをメヌエに向けた。

「はじめまして、メルシィです。メヌエさん、どうぞよろしくお願いいたします!」

 一点の穢れも無い無垢な笑顔を見た瞬間、メヌエの顔には微かに驚きの表情が浮かび、退屈そうだった目が僅かに見開かれた。隣に立つブレヒトを困惑した様子でちらりと見たが、すぐに視線をメルシィに戻した。

「は、はじめまして……こちらこそ、よろしく」

 乾いた唇を小さく動かしただけの細い声ではあったが、メルシィの耳にもしっかりと届いたようだ。メルシィはメヌエと挨拶できたことがよほど嬉しかったのか、更に目を細めて両頬の靨を深くした。あまりに眩いその笑顔から思わず顔を背けてしまったのは、メヌエだけではなくブレヒトも同じだった。

 私はこの子の精神を本当に奪うのか?……いや、奪うと言うと語弊がある。エリゼへ移植するのか?精神を抜き取られれば何の感情も抱かない人形と同じ、廃人になるだろう。この子の人生を奪う権利が俺にあるのか?いや、だがしかし、これはエリゼの為だ。あの子が救われるなら他に何も要らない筈ではなかったか?何を躊躇う必要がある。メルシィの精神はエリゼの心臓となり、無垢な聖女の魂は永久的に生き続けることだろう。

 メルシィはブレヒトの娘と思われる、銀髪の少女が気になって仕方がなかった。彼女はメルシィがこの部屋へ現れてから、ただの一度もメルシィの方を見ようとせず、それどころか人形のように微動だにしない。その横顔は無関心ともまた違い、まるでメルシィの声や周囲のあらゆる音が一切届いていないかのようだった。彼女は本当にお人形なのではないか。先生のお嬢様は、別の所にいるのではないか。メルシィがそんな疑いを抱き始めたのを察したのか、ブレヒトがエリゼの側へ歩み寄りつつ紹介した。

「この子はエリゼ。私の娘だ。君とは年も近いだろうし、仲良くしてやってほしい」

 ブレヒトの大きな掌がエリゼの小さな頭の上に重ねられたが、エリゼは眉一つ動かさない。単に無口で恥ずかしがりやなのか、それとも感情表現が希薄なのか──いや、きっとそのどちらも当て嵌まらない。剥製のようなエリゼの表情からは、一切の感情を読み取ることができない。まるで、心が抜け落ちているかのようだ。

 ブレヒトはエリゼの頭を軽く撫でつつ、メルシィを見て困ったように微笑した。困惑しつつもメルシィはエリゼの方へ歩み寄り、彼女の顔を明るい笑顔で覗き込んだ。

「はじめまして、エリゼ。メルシィです。どうぞよろしくね」

 室内は凍りついた静謐で満たされた。ブレヒトはエリゼの事情をメルシィになんと説明すればいいのか、そもそもその為にこれから犠牲となるこの憐れな少女に説明する必要があるのか、どうしていいかわからず、その場に立ち尽くしていた。

 ブレヒトの心中など意にも介さず、何も知らないメルシィはエリゼに話しかけ続ける。

「私、年の近い友達がずっと欲しかったんです。ねえ、エリゼって呼んでもいいかしら?」

 メルシィはエリゼに笑いかける。エリゼは変わらぬ無表情のまま、少しもメルシィを見ようとしないが、その瞳孔がほんの僅かに開いたように見えた。普段から愛娘の動きを注視しているブレヒトでないとわからないような、ほとんど誤差に近い変化ではあったが、その誤差が齎されたのがエリゼであったなら、それは天文学者にとっての小惑星の発見と同じくらい、絶対的な価値を持つのだ。

「エリゼ。私、あなたと仲良くなりたい。これからよろしくね」

 エリゼは頷きも拒みもしない。メルシィなどそこにいないかのように、空虚な瞳で宙の一点と対話をするばかりだ。それでも、メルシィは構わずエリゼに話しかけ続ける。

「どうしてかわからないんだけど、私、あなたとはとても仲良くなれそうな気がするの。だから私の一人目の友達は、エリゼ、あなたがいいな」

 メルシィはそう言ってエリゼの顔を覗き込みながら、無邪気に微笑んだ。ブレヒトにはメルシィの心情が測りかねた。一切反応の無い相手に話しかけて何が楽しい?うちの娘相手に、人形遊びでもしているつもりなのだろうか。それとも馬鹿にしているのか。ブレヒトの精神を黒い霧が満たしていく。まあいい。少女とお人形の立場は、今に入れ替わるだろうから。

 しかし、そんなブレヒトの思惑になど、メルシィが気付くはずもない。

「先生、本当にありがとうございます!私、この家に来られてよかったです。私にできることなんて何もないかもしれませんが、お手伝いでも何でもしますので、これからよろしくお願いします!」

 メルシィはそう言って、ブレヒトとメヌエに向かって深々とお辞儀をした。再び頭を上げた時、金色の髪が弧を描いて舞い上がり、頬にかかった髪の中に穢れなき天使の笑顔が顕れた。

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