メルシィと祖父が暮らす家までは、舗装されていない山道を一時間ほど歩かなければならず、ブレヒトも、まさか少女の家がこれほどまでに人里離れた山奥の中にあるとは思いもしていなかった。毎日のように磨かれている革靴には土や泥がこびり付き、慣れない山道を歩いた為に靴擦れが酷かった。

 医師のかなり先を、少女は森を泳ぐ妖精のように易々と進んでいく。その華奢な背中には繊細な薄い羽でも生えているかのように見えた。

 ブレヒトの趣味はゴルフで、ここの所は仕事や家庭がバタバタとしていた為にゴルフ場にも殆ど通えていなかったものの、学生時代からスポーツはそれなりに得意としていたので、体力にはそれなりに自信があった。しかし、ここ最近の運動不足が災いしたのか、それとも単に年を取っただけなのか、山道を少し歩いただけでも息が上がってしまう。

「ま、待ってくれ。もう少しゆっくりでもいいだろう」

 メルシィは医師の数メートル先で立ち止まり、切羽詰まった表情で振り返った。

「でも、早く行かないとお爺様が……!申し訳ありませんが、あと少しなんです。あと十分ほど進めば家が見えてきますから。もう少しだけ頑張ってください!」

 それだけ言うと、メルシィは息も絶え絶えなブレヒトに背を向け、先程までよりもペースを速めて森の中を進んでいく。ブレヒトは重々しい溜息を吐くと、渋々といった足取りで少女の後に続いた。

『畜生、今日は夜勤上がりだってのに。他の連中と同じように、こんな小娘、相手にしなければよかったか。世の中に死にそうな老人などいくらでもいるんだ。この子の祖父だけが特別だというわけでもない』

 心の中でそう悪態を吐きながらも、街で喧嘩の仲裁に入っているこの幼い少女を見かけた時、どうしても放っておくことが出来なかった。それは、彼女が自分の娘に似ている──いや、似ていたからだろうか。何にせよこの子を初めて見た瞬間、他の子供たちには無い、発光する可能性のようなものを感じたのだ。

 少女の言った通り、そこから十分ほど進んだ先に、今にも崩れ落ちそうな木造の民家──小屋と言った方が相応しいかもしれないが──が見えてきた。

 今にも木片となって崩れ去りそうな扉を荒々しく開け放ち、メルシィは迷うことなく祖父の部屋へと向かって階段を駆け上がっていく。ブレヒトはすぐには二階へと行かずに階段の前で立ち止まると、一階の部屋の中を見回した。簡素なキッチンに手製と思しき古びたダイニングテーブル、向かい合うようにして並べられた二脚の椅子。こう言っちゃ悪いが、ひどく殺風景な家だ。恐らくこのメルシィとかいう少女とその祖父は、ここで二人きりで、ささやかな食卓を囲んでいたのだろう。ブレヒトは見てはいけないものを見てしまったとでも言うように視線を逸らすと、ギシギシと階段を軋ませながら二階へと進んだ。

 二階に上がると手前に一部屋、奥にもう一部屋あり、奥の部屋の扉が開け放たれていたことから、そこに少女と祖父がいるのだとわかった。奥の部屋からは西日が漏れ出し、薄暗い廊下をオレンジ色に染めている。中からは少女の泣き叫ぶ声が聞こえる。

「お爺様、お爺様!」

「起きて!お医者様を連れて来たわよ!」

 悲痛に満ちた叫びを聞く度、医師の心は締めつけられるように痛んだ。だがそれと同時に、その痛みによって自身の心がまだ腐敗していないのだと知ることが出来る。人間とは、斯くも残酷なものだ。

 長年医者という職業に従事しているブレヒトだからこそ感じ取ることの出来る直感なのか、部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、彼はそこに、如何なる治療を以てしても、人間の手では決して抗えない宿命を見た。

 窓から差し込む西日の、黄金とオレンジ色の混ざった眩い光が、室内を染め上げている。窓際の簡素なベッドの上に一人の老人が眠っており、少女はその皺だらけの手を祈るように握りしめながら、何度も何度も「お爺様、お爺様」と繰り返し呼び続けた。何故かはわからないが、ブレヒトには、すぐに彼等の元へ駆け寄ることが躊躇われた。天から注がれる、黄昏時の幻想的な光の所為か、決して触れてはならない神聖なものを見ているような気がした。彼等は神の家族であり、我々とは住む世界が違うのだ。腐敗したこの国の芸術に碌なものは無く、ブレヒトは絵だの小説だのに心血を注ぐ者を無意識に嗤う性質で、本人もそのことに気付いていたが、そんなブレヒトの心が、目の前の光景を見て僅かに震えた。今までに見たどんな絵画よりも美しく、眩くて犯しがたい光景が今目の前にある。手を伸ばしたところでとても触れられそうにない。彼らと自分との間は見えない壁で隔てられ、それこそ神聖な絵画を見ているように、壁の向こうは別世界であるかのように思えたのだ。

「先生!お爺様が、お爺様が……!」

 ブレヒトは少女の鬼気迫る声で我に返った。治療という自身の使命を急に思い出したかのように彼等の元へ駆け寄ると、屈んで老人の脈を見た。一切の動きが感じられない。枯れ木のような手首はひどく冷たく、力無くだらんと垂れ下がった。眠る老人の顔は穏やかで優しく、孫の悲痛な呼び声など一切耳に入らない様子だ。

「先生……お爺様は、お爺様は助かりますよね?だって、昨日まで普通に買い物に行って、元気だったんです。夜、おやすみなさいを言って……」

 少女は両目に涙をいっぱい溜めて、声を震わせながら、自分自身に言い聞かせるように呟いた。

 長年医者という職業に就いていれば、時には辛い現実を言い渡さなければならないこともあるだろう。尤も、精神科医であるブレヒトには、あまり縁のない話であったが。ブレヒトは、医師の仕事の中でもこれが最も残酷なことなのではないかと考える。それ故に、内科や外科ではなく、精神科医になることを選択したのかもしれない。今目の前にいる少女に家族の訃報を知らせることは、尚のこと辛い。彼女にとって家族とは、恐らく祖父一人だけだったのだろうから。

 ブレヒトは俯き、ゆっくりと首を横に振った。メルシィの青白い顔からみるみるうちに色が失われていく。宝石のような目は飛び出さんばかりに見開かれ、頬や手は小刻みに震えていた。ブレヒトは、メルシィが気を失うのではないかと危惧した。医師は少女の前に屈むと、その両手を取り、つよく握りしめた。言葉の代わりに体温が掌を介して伝わり、少女の目から大粒の雫がこぼれ落ちた。部屋の中には、夜の闇が滲みつつある。



 *



 メルシィの家族が祖父一人であったように、祖父の家族もまた、メルシィただ一人であった。まだ首もすわらない赤ん坊を抱えて街を去ったのがおよそ十年前。かつての仕事仲間や知人とは連絡を取る術を持たなかった上、彼自身も進んで人と関わろうとする性格ではなかった。そのこともあってか、葬儀は行われなかった。

 街で最も大きな教会の裏手にある墓地に、メルシィの祖父も埋葬されることとなった。最も大きい教会と言っても、くすんだ白い壁には下卑た落書きが施され、神も目を背けたくなるような惨めな有様である。名前も知らなければいつ頃亡くなったのかもわからない、見知らぬ誰かの墓石の群れに、メルシィの祖父もひっそりと加わった。

 雨が降っている。空は黒い雲に覆われ、まだ昼間だというのに辺りは薄暗い。誰だって墓石に刻まれた愛する家族の名前をそう簡単に受け入れることなど出来ない。ましてや、メルシィはまだ十歳であり、祖父以外には家族も友達もいないのだ。メルシィは独りぼっちになってしまった。

 ……あの少女は、いつまでああして立っているつもりだろう。ブレヒトはどうしてもメルシィを放っておくことができず、仕事の合間を縫って山奥にある彼女の自宅へ食料を届けたり、自宅に姿がなければ、彼女の祖父が眠る墓地までやって来て、一人立ち尽くす少女の姿を見つけ出した。

 ブレヒトが街で初めてメルシィを見かけた日──メルシィの祖父が亡くなった日から今日で七日が経つ。ブレヒトが墓地を訪れると、メルシィはいつもそこにいた。魂を抜かれたように墓石の前に立ち尽くすか、何もかも諦めたような様子で屈み込んでいた。今日だってそうだ。メルシィは雨の中、傘も差さずに同じ場所に立っていた。身に着けている擦り切れたワンピースは雨を吸い、白い肌にべっとりと貼り付いている。まるでボロ雑巾でも着ているかのようだ。二日前だったろうか。ブレヒトが様子を見に、彼女の元を訪れた時よりも、更に痩せているように見える。家には帰っているのだろうか。少し前にブレヒトがメルシィの自宅を訪れた時、そこに彼女の姿は無かった。仕方なく、持って来たパンなどの食料をテーブルの上に置いて家を後にし、その足で墓地へ向かうと、やはりメルシィはそこにいた。まさか、ずっと此処にいるんじゃあるまいな。

 この数日間、ブレヒトがメルシィに声をかけても、メルシィが答えることは殆どなかった。中身をごっそりと抜き取られてしまったかのように、か細い肉体だけがなんとか現実に留まっているといった様子だ。青い瞳は光を失い、曇天と同じ色をしている。このままでは、メルシィは直に死んでしまうだろう。身寄りを失った幼い少女が一人で死んでいくところなど見たくはない。ブレヒトは今日、メルシィをこの街の児童養護施設へ連れて行こうと決めていた。もっと早くに決断するべきだったんだ、と後悔さえしていた。メルシィをすぐに養護施設へ連れて行かなかった理由は、少女の家で見た、あの神聖な光景がいつまでも頭を離れなかったからだ。あれは聖少女だ。この腐敗した世界を救済しに来た神の使いだ。ブレヒトの目にはそのように映った。 

 天使のようなこの少女を養護施設などという、劣悪な環境に入れてしまっては罰当たりなのではないか。この街の養護施設は、少年院と同じくらい酷い状態なのだと噂に聞く。碌な食べ物は出ず、施設内では職員も子供たちも関係なく、弱い者苛めが横行し、力無き者は声も上げられずに死んでいく。あんな所へ行けば、誰であろうと数時間足らずで精神を壊し、発狂に至るだろう。メルシィをそんな環境へ放り込むことは躊躇われた。だが、今のあの状態を見ればわかる。残念なことだが、彼女はもう救えない。祖父の眠るこの場所で最期を迎える方が彼女にとっては幸せなのかもしれないが、それでも、これ以上墓地に居続けられては、墓地を訪れる他の人々も良く思わないだろう。

 ブレヒトはメルシィの元へ歩み寄ると、その小さな頭の上に傘を差しだした。メルシィはブレヒトの方を見ようともせず、彼の存在にさえ気が付いていない様子だ。

「いつまでそうしている。家には帰っているのか?」

 ブレヒトの声が聞こえているのかいないのか、メルシィは虚ろな目で祖父の名前をいつまでも見つめたまま微動だにしない。

「腹、減っただろう。街へ行こう。なにか美味いものでも食わせてやろう」

 メルシィをこの場から動かす為、ブレヒトは提案を持ち掛けた。この提案にメルシィが乗ってこなければ、たとえ引き摺ってでも街へ連れて行くしかあるまい。やや時間があり、メルシィは渇いた瞳でゆっくりとブレヒトを見上げた。

「先生。ひとつ、お伺いしてもよろしいですか」

「何だね」

「私は、お爺様に何もしてあげることが出来ませんでした。お爺様は、たった一人で私をここまで育ててくれたのに、いつも守ってもらっていたのに、私はお爺様を助けられなかった」

 ややあってから、ブレヒトは慎重に言葉を選ぶようにして答えた。

「それは仕方のないことだ。人は死の運命には抗えない。医者の手でも救えない時がある。君はなにも、悪くない」

 それは肉体の死のみならず、精神の死についても同じことが言える。精神は肉体よりも、遥かに治療が難しい。

 その時、ブレヒトの頭の中にある考えが浮かんだ。この少女の精神は、さぞかし澄み切った美しい色をしていることだろう。胸部を切り開いて確認しなくたってわかる。きっとこの子の精神は一点の汚れも無い、華麗なる精神に違いない。

 この国では、法律で精神移植が認められている。過度なストレス等、様々な理由によって正常に機能しなくなった精神は発狂を誘発し、そうなると改善の見込みは限りなく少ない。唯一の救済措置が、精神移植だ。健康な精神を移植することによって、狂気という、人間の内側にのみ存在する悪魔を祓うことが叶う。しかし、精神を譲り渡した側の人間は、言うなれば心を失い、肉体だけの空っぽな抜け殻となってしまう。それは、死ぬことと同義だ。

 メルシィの精神を売ったとしたら、一体どれほどの値段がつくだろう。だが、売るなんてそんな勿体ないことはしない。なにせ身近にいるかけがえのない人が、新品同様の美しい精神を必要としているのだ。それを売るなど、愚行にもほどがある。

 ブレヒトは身寄りのない少女に向けて、優しい笑みを浮かべた。そういえば、もう何年も笑っていない気がする。上手く笑えている自信はなかった。

「メルシィ、もし行くところがないなら、私の家へ来ないか?うちにはおまえと同じくらいの年の娘がいてね。もちろん君がよければだが、どうだろう」

 降り頻る雨の中、メルシィは虚ろな目でブレヒトを見上げた。ブレヒトの言ったことがわからなかったわけではない。ただ、祖父以外の人間から向けられる善意に慣れていなかったのだ。たとえそれが、表面上のみの善意であったとしても。

「君のお爺さんも、きっと君の幸せを一番に願っているはずだ。メルシィ、君がやりたいようにやればいいんだよ」

 その言葉に、虚ろだったメルシィの目が、少しずつにではあるが色を取り戻していく。滲んだ涙は光の結晶となってこぼれ落ちた。不思議なことに、メルシィの瞳が本来の碧い煌めきを宿し始めると、それに呼応するかのように暗雲は彼方へと散っていき、空には虹が現れた。陰鬱で薄暗かった墓地には天の光が降り注ぎ、周囲には白い光の粒子が舞い踊る。その中で、目に涙を浮かべながら微笑むメルシィは、正しくこの荒廃した現世に降りた天使そのものである。ブレヒトは言葉を忘れてしまったかのように薄っすらと口を開いたまま、目の前に立つ少女にいつまでも魅入っていた。もしかしたら、この子は本当に神の子なのかもしれない。そんな希望に満ちた空想が頭を過った。

 メルシィは当然のことながら、自分が神の子だなどとは全く思いもしていない。今、彼女の胸の中を占めているのは温かな善意。たとえそれが心からのものでなかったとしても、メルシィにとってそれ以上に得難いものなどなかった。

「ああ、ブレヒト先生。これ以上素敵なことってありません。先生の仰る通り、お爺様はいつでも私の幸せを願ってくれています。お爺様だけでなく、お母様やお父様も、きっとどこかで私を見守ってくれていることでしょう。先生、私はまだ生きていたいです。私はまだ生きる意味を知らない。この世界には、綺麗なものが沢山あると思うのです。私はそれを見てみたい」

 ブレヒトは暫しの間、魂を抜き取られたような顔つきで、呆然とメルシィを見つめていた。やがて我に返ると、屈んで少女と目線を合わせ、慣れない微笑を浮かべてみせた。

「ああ。君の言う通りだ、メルシィ。君の目は美しいものを見る為にある。歓迎しよう。私と娘だけの静かな家ではあるが、君が来てくれたら賑やかになりそうだ」

 ブレヒトが右手を差し出すと、メルシィの小さな手はゆっくりとその骨張った手の中に滑り込んだ。メルシィにとって、初めて触れる祖父以外の手の感触だった。

 その手をきつく握りながらも、ブレヒトはメルシィの曇りなき瞳を、長い間真っ直ぐに見ることがどうしてもできなかった。それもそのはず、ブレヒトはメルシィを家族に迎え入れる気など初めからないのだから。誰だって血を分けた自分の家族が一番大切だ。その為なら、他人の命など取るに足りないものだと言ってもいい。

 悪く思うな。これであの子がもう一度笑ってくれるなら、君だって喜んでくれるはずだ。なぜならば、君はいい子だ。さあ、その清廉なる精神を捧げるがいい。

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