窓から差し込む朝の光の眩さに、メルシィは目を覚ました。小鳥の囀りは少女を急かしでもするかのように忙しない。身体を起こすと、木製のベッドが小さく軋んだ。低い天井へ両腕を伸ばし、大きく伸びをする。まだ少し眠い、いつもと何ら変わりない朝。

 だけど、どうしてだろう。嵐の前の静けさ、とでもいうように、メルシィは胸の奥の不穏な騒めきを感じていた。いつもと変わらない朝。けれど何かが、明らかに違う。鳥たちは相変わらず甲高い声で鳴き続けている。まるで、一大事でも起こったかのように騒々しい。

 掛け時計に視線を向ける。いつもならこの時間帯には、お爺様が起こしに来るはずだ。

「メルシィ、いつまで寝てるんだ」

 と言って、呆れた様子で階段を踏みしめてやって来る。それなのに、今朝は家の中から物音一つしない。聞こえてくるのは鳥の囀りに、風が吹き揺らす木の葉の騒めき。家の中は時が止まってしまったかのように静かだ。

 鼓動が不気味な音を立て、次第に早くなっていく。お爺様。お爺様。メルシィはベッドから降りると、恐る恐る部屋を出た。階下に人の動く気配はない。お爺様は、まだ眠っているのかもしれない。朝、祖父がメルシィよりも遅くに起きてくることなど、今までは一度もなかった。珍しい、珍しいと自分に言い聞かせるように何度も心の中で呟きながら、メルシィは祖父の部屋の戸をたたいた。

「お爺様、朝よ」

 部屋の中へ向かって呼びかけるが、祖父の声は返ってこない。

「お爺様、まだ眠っているの?開けるわよ?」

 そう言ってドアノブに手を掛けてからも、メルシィはすぐに部屋の中に入る気にはなれなかった。周囲に漂う異様な空気は、全てこの部屋から流れ出ているものだと直感した。今が朝だということが信じられないほど、家の中が暗く感じられ、不穏な恐怖が胸の中に広がっていく。

 意を決し、メルシィは勢いよくドアを開いて部屋の中に足を踏み入れた。昨日も掃除の為にこの部屋には入ったが、中の様子に変わりは無く、特段おかしなところは見受けられない。部屋の造りや家具の配置はメルシィの寝室と殆ど同じで、棚から溢れ出すほど沢山積まれた本以外には最低限の物しか置かれていない。窓から差し込む白い陽射しが、教会のステンドグラスのように、室内を淡く染め上げていた。

 祖父はベッドの上で仰向けになって眠っている。骨張った大きな右手は腹の上にそっと置かれていた。床に着いた時から一度も寝返りを打っていないのではないかと思われるほど、その寝姿はお手本のように美しい。

「お爺様……?」

 不規則な鼓動は祖父に近付くにつれて大きくなる。何も見たくない。なにかとてつもなく恐ろしいことが起きているような気がして、未だ夢の中にいるのは祖父ではなく自分なのだと、メルシィはそう思いたかった。

 メルシィはゆっくりとベッドの側までやって来ると、健やかな表情で眠る祖父の顔を覗き込んだ。血色の悪いかさついた唇は微動だにしていない。祖父の鼾は森に眠る獣のように豪快で、隣のメルシィの部屋にまで響くほど騒々しいのだが、目の前で眠る祖父は鼾どころか、寝息一つ立てていない。

「お爺様……?」

 祖父は答えない。その寝顔はぴくりとも動かず、目覚めの兆しは見られない。メルシィは小刻みに震える指先を祖父の頬にそっと重ねた。その瞬間、はっとした。祖父の頬は氷のように冷たかった。

 自分は悪い夢でも見ているのだろうか。だって、昨日の夜まで特に変わった様子もなく、いつも通りおやすみの挨拶を交わした。祖父は微動だにせず、凍りついたように眠り続けている。

 神様、これが夢なら、どうか早く目覚めさせて。この世界で最も喪われてはならない存在を、どうか私から奪い去らないでください。

 どれほどの時間が流れただろう。メルシィはしばらくの間、眠る祖父の前に立ち尽くしていたが、弾かれたように部屋を飛び出した。転がるように階段を駆け下り、その勢いで扉を開けて外へ出た。

 陽射しが燦然と降り注ぎ、木々の緑が不穏な音を立てながら風に揺れている。メルシィは裸足のまま、森の中をひたすら走った。どちらへ向かえばいいのかなんてわからない。わからないけれど、足が動く方向へ向かった。鳥たちが驚いて飛び去っていく。

 何も考えられない。考えたくない。目に涙が滲み、少女の走った軌道をなぞるように、風に乗って家の方角へと流れていく。枯れ枝や木の葉が刺さって素足は傷だらけになり、喉は焼けるように熱かった。それでも、走ることはやめられない。やめてしまえば、簡単に絶望へ吞まれてしまうだろう。

 とにかく早く、助けを呼ばなければならない。メルシィは祖父以外の人間と話したことや、街に出たことは一度もない。けれど今は、そのことも忘れて夢中で走った。助けて。助けて。誰か。誰か助けて。

 次第に木々の緑が薄くなり、視界が開けた。森を抜けたのだ。メルシィは少しずつ速度を落とし、家を出てから初めて立ち止まった。白い素足はひりひりと痛み、傷口から血が流れ出ている。焼けるように渇いた喉からはヒューヒューと細い息が漏れるばかりで、呼吸さえままならない。メルシィが立ち止まって休んでいたのは、ほんの数分足らずだった。呼吸はまだ乱れていたが、痛む足を奮い立たせ、再び走り出した。

 やがて土気色をした四角い建物の連なりが見え始め、街に辿り着いたのだと安堵した。骨張った身体つきの野良犬や、丸々と肥えた鴉が、訝しげにメルシィを見ていた。構わず走り続けると、ちらほらと人の姿が見えてきた。それは少女にとって、初めて見る祖父以外の人間。

 声をかけようと口を開きかけたが、なかなか声が出ない。今まで生きてきた中で、これほど水を飲みたいと思ったことはなかっただろう。それでもなんとか喉から声を振り絞り、建物から出てきた中年の男性に縋りつくように声をかけた。

「す、すみません……!あの、祖父が……!」

 ああ、これでやっとお爺様を助けられる。お医者様を呼んで診てもらえるだろう。メルシィの口元に僅かな微笑が浮かんだが、それは無惨にも、一瞬のうちに掻き消されることとなる。

 建物から現れた男性はメルシィを一瞥すると、迷惑そうな表情をして顔を背けた。

「ここには君にあげられるような余分な食べ物なんて無いよ。悪いが他を当たってくれ」

 男性は野良犬でも見るような目で、しっしと手でメルシィを追い払う仕草をした。

「私は食べ物を頂きに来たわけではないんです。お医者様を捜しに来たんです」

メルシィはそう言おうとして口を開きかけたが、その時には既に、男性はメルシィに背を向けて歩き去ってしまっていた。

 初めて接する祖父以外の人に邪険に扱われ、メルシィの胸は痛んだが、今は落ち込んでいる暇などない。あの男性も、きっと忙しくて心にゆとりがなかっただけだろう。メルシィはそう思うことにして、街を歩いていた別の人の所へと駆け出した。だが、荒廃したこの世界で「心にゆとりのある人間」を見つけ出すことは、絶滅危惧生物を探すのと同じくらい難しい。

「すみません!祖父が大変なんです!」

「お願いです!病院の場所を教えて頂けるだけでいいんです!」

「すみません!このままじゃ祖父が……」

 祖父が死んでしまう。それまで考えないようにしてきたことが脳裏にちらつき始め、メルシィの目に涙が滲んだ。老若男女関係無く、通りを行き交う人々にメルシィは声をかけ続けたが、皆迷惑そうな目でメルシィを一瞥するだけだ。あろうことか、中には少女に向かって酷い言葉を浴びせる者までいた。

 ただ、哀しい。燦然と照り付ける陽射しとは対照的に、メルシィの心の中は黒々とした雲に覆われ、冷たい雨が降り注いでいた。どうして誰も私の話を聞いてくれないのだろう。人というものは、こうも残酷な生き物だったのか。今まで読んだ本の中では、登場人物たちは皆助け合って生きていた。もちろん、複雑な感情を持つ人間同士だから、時には互いを憎んだりぶつかり合ったりすることもある。それでも、その憎しみの中には何らかの理由があった。私は彼等になにか憎まれるようなことをしただろうか。会ったこともないというのに。

 メルシィなどまるで存在しないかのように、人々は路上の真ん中で立ち止まる裸足の少女の横を通り過ぎていく。その目はどれも乾き切った、光の無い色をしていた。

 その時、背後で荒々しい罵声が響き、メルシィはその声を聞くだけで心臓が跳ね上がるような思いがした。

「おい!どこ見てんだ気を付けろ!」

「ああ⁉そっちがぶつかってきたんだろうがよ殺すぞ!」

「なんだとてめえ!」

 声の聞こえた方を見ると、二人の男が互いの胸倉を掴み合い、本当に殺してしまいそうなほどの剣幕で睨み合っている。メルシィは恐ろしくてたまらなかった。早く止めなければ──そう思い周囲を見回すが、その場にいる人々は、変わらず光の無い目でその男たちを見ているだけで、近付こうとする者は誰一人としていないようだ。

 心臓は今に破裂してしまいそうなほど強く波打っている。血の滲んだ傷だらけの素足は恐怖に震えていた。それでも、それでも助けなければいけない。このままでは、人死にという最悪の事態が引き起こされる可能性だって有り得る。

 誰かに手を差し伸べることの出来ない人間に、救いは与えられない。これは祖父がよく言っていたことだ。メルシィは震える足を一歩、二歩と踏み出し、既に殴り合いの喧嘩を始めている男たちの方へと向かっていった。

「やめてください!」

 悪鬼に憑かれたかのように目を見開き、互いの髪や衣服を掴み合っていた男たちの動きがぴたりと静止した。鋭利な刃の如く、ぎらついた鈍い視線がメルシィ一人へと向けられる。

「なんだ?このガキ」

「てめえも殺されてえのか」

 怖い。怖い。怖い。今すぐにでも此処から逃げ出して家へ帰り、お爺様に会いたい。けれど、私はそのお爺様を助ける為に此処にいるのだ。

無垢なる少女の涙に濡れた視線は、天使が放つ光の鉄槌のように、無粋な街の男たちへと向けられた。

「こ、殺されたくありません。でも、あなたたちのどちらかが死ぬところも、見たくないのです」

 やっとの思いで口にした声はひどく上ずり、恐怖に震えていた。それでも、メルシィの言葉は睨み合っていた男たちだけでなく、何をするわけでもなく成り行きを眺めていた周囲の人々の耳にも鮮明に届いた。

 男たちは何も言わずに鋭い視線をメルシィに向けたままで、突然現れたこの少女は何者かと考えているようにも見える。

「おい、やめるんだ」

 その時、メルシィの背後から背広を纏った一人の紳士が現れて、男たちの間に割って入った。年は四、五十代といったところだろうか。痩せてはいないが、すらりとした長身で、山高帽からは白髪が覗いている。思慮深そうな薄いグレーの瞳がほんの一瞬、メルシィに向けられたが、すぐに逸らされた。

 男たち二人は、突然現れたこの紳士を睨みつけたが、彼らを見返す紳士の眼光はその何倍も鋭く、野卑な言葉を口にさせる隙さえ与えなかった。

「つまらない争いはそろそろ止めにして、早く家へ帰りたまえ。でないと、もうすぐ此処へ警察がやって来るだろう」

 紳士の口ぶりは淡々としていたが、その声には、逆らうことを決して許さない、異様なまでの圧力が込められていた。男たちは今にも嚙みつかんとする野犬のような目つきで紳士を睥睨していたが、やがて一人が舌打ちをして紳士に背を向けると、もう一人の方も存外大人しく歩き去って行った。成り行きを見守っていた人々も、騒ぎが収まって安堵したのか、それとも単に興味を失くしただけなのか、徐々に散っていき、その場には紳士とメルシィのみが残された。

 紳士は何も言わず、メルシィの方を見ようともせずにその場を立ち去ろうとしたが、メルシィは慌ててその背中を呼び止めた。

「あ、あの!待ってください!」

 紳士は革靴の足を止め、穏やかだが冷淡さの滲むグレーの瞳をメルシィに向けた。

「何かね」

「あ、その……ありがとうございます。喧嘩を止めてくださって」

「いや、どうってことはないよ。あそこでいつまでも騒がれていちゃ迷惑だったからね。それじゃあ、私は失礼するよ」

「ま、待ってください!助けて頂きたいんです!私の祖父が、祖父が大変なんです!」

 メルシィの言葉に、紳士は再び足を止めて振り返った。

「君のお爺さんが?」

「はい……朝起きてこないから部屋に様子を見に行ったら、ベッドに横たわったままピクリとも動かなくて、寝息も立てていないみたいなんです。このままでは、祖父は死んでしまうかもしれません!どうかお願いです。教えて頂きたいんです。お医者様には、どこに行けば会えますか?」

 メルシィは今まで生きてきた中で、これほどまでに必死に何かを伝えようとして、言葉を並べ立てたことなどなかった。

 紳士はなにかを考えるような視線をじっとメルシィに向けていたが、表情一つ変えずに頷いた。

「医者なら今君の目の前にいる。と言っても、私は心の医者だから専門外だがね。しかし、今から他の医者を連れてくるのも難しいだろう。まあ、多少の応急処置くらいなら、出来るかもしれん。さあ、君の家まで案内してくれ」

 それは、メルシィが街を訪れてから初めて触れた善意であった。紳士の言うことが信じられないわけではなかったが、慣れない人の優しさを理解するまでに、少しばかり時間を要した。

 この紳士が悪人である可能性もゼロではない。なにせこの腐敗した世界では、強盗や誘拐などが日常に溶け込んでいる。この紳士が少女の家に押し入り、金目の物を奪い取ろうと目論んでいる可能性も考えられなくはないが、メルシィはそのようなことは思いもしていなかった。実際、この紳士の職業は精神科医であり、安定した生活と地位を手にしている。風格のある立ち姿と落ち着き払った瞳を一目見ただけで、メルシィはこの紳士のことを信用した。

「あ、ありがとうございます!」

 目の前に立つ紳士の姿が涙で滲む。メルシィが深々と頭を下げると、乾いた大地に一滴の透明な雫がこぼれ落ちた。

「私はブレヒトという。君の名前は?」

「メルシィ……」

 メルシィは汚れた指で涙に濡れた目を擦りながら答えた。その声はか細く、耳を澄まさなければ聞こえないほどだったが、ブレヒトにははっきりと届いたようだ。

「メルシィか。いい名だ」

 涙に濡れたメルシィの瞳はアクアマリンの海のように透き通った光を纏い、きらきらと輝いていた。その鮮烈なまでの煌めきに、ほんの一瞬ではあるが、ブレヒトは魅入ってしまった。

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