華麗なる精神

白井なみ

 純粋な少女の目からこの世界の汚濁を覆い隠すように、窓ガラスの向こうは生い茂る木の葉に遮られていた。木漏れ日が薄暗い部屋の中に差し込んでいる。東の方角から風が吹き、木の葉が騒めきながらゆらゆらと散っていった。枝に止まって一休みをしていたツグミが怯えた様子で飛び去っていくのを、窓辺に頬杖をつきながら、メルシィは見るともなく眺めていた。

 あの小鳥はこれからどこへ行くのかしら。私も一緒にどこか遠くへ飛び去って行けたらどれだけ良いだろう。だけど、お爺様を独りにはできない。そうよ、お爺様も一緒に行くの。どこか遠くの、美しい楽園の都へ──

 部屋で一人で本を読んでいる時間が長い為か、今年で十歳になるメルシィは想像力の豊かな少女に育った。


 メルシィの暮らす家は、狩人や山菜採りでさえ滅多に入って来ないような深い森の奥にひっそりと佇んでいる。メルシィはここで、祖父と二人で暮らしている。学校には通っておらず、少し憧れもあるようだが、祖父は「学校など狂人の子供たちの集まりだ。あんな所に行ったら一日も経たぬうちに頭がおかしくなって、人生が台無しになってしまうぞ。おまえさんはたった一度きりの人生を棒に振りたいのか?え?なに、勉強なら儂が見てやるだろ。なんも心配せんでいい」と捲し立て、孫を可愛く思うあまり、その胸に宿った淡い憧れを一蹴してしまった。

 だが、メルシィは山奥での祖父と二人だけの暮らしについて、特に不満は抱いていなかった。物心ついた頃からこの森の外に出たことはなく、祖父にしつこく聞かされている通り、外の世界には恐ろしい魔物が闊歩しているのだと信じ込んでいたからだ。

 祖父の言うこともあながち間違いではない。戦争と貧困、独裁で腐敗したこの国は、悪魔が好みそうな、人間の醜悪な感情で満ちている。窃盗に強姦、疫病に精神病、薬物に自殺。此処をこの世の地獄と呼ばずしてなんと呼ぶか。人々の目は異様にぎらつき、皆切迫した顔つきで足早に歩いている。たとえ老婆が転んでいようが、子供が泣いていようが、足を止める者などいない。この世界ではそんな偽善を振るう人間こそが狂人と言われ、蔑視された。ここは既に悪魔の手に堕ちた、救いの無い絶望の国である。



 *



「メルシィ!メルシィ!」

「はあい!」

 階下から祖父の叫ぶ声が聞こえたので、健気な少女は従順な仔犬のように、即座に一階へと下りていった。

 祖父は落ち窪んだ皮膚の中にある宝石のように美しい青い目で、急いで階段を下りてくるメルシィを見上げた。メルシィの目も彼と同じ碧色だが、少女の目は老人の目の何倍も純度の高い煌めきを放っている。これほどまでに美しい目を持つ人間は、国中を捜してもそういないだろう。今や人々の瞳には暗い影が差し、不法投棄の絶えない河川のように濁り、たとえ幼い子供であっても本来の輝きはとうに失われてしまっているのだから。美しい目を持つ家族は世間の濁った視線から逃れるように、森の中に身を隠して暮らしていた。

「それじゃあ、儂は買い物へ行って来る。ちゃんと留守番しているんだぞ」

「はあい。行ってらっしゃい。気を付けて」

「ああ。それじゃ、行って来る」

 木製の扉が祖父の後ろ姿を隠し、バタンと音を立てて閉まると、家の中は埃っぽい静謐で満たされた。はあ、と少女のわざとらしい小さな吐息が室内に沈殿した静謐を払った。

 メルシィが家の中を一歩一歩と歩く度、木造の床はきしきしと鈍い音を立てる。神経質な祖父が定期的に修繕を行っているが、それでも嵐が来れば吹き飛んでしまうのではないかと不安になるくらい、この家はあちこちにガタが来ていた。

 そんな祖父ももう、御年七十五歳になる。背中や腰はそれほど曲がっておらず、身長も未だ一七五センチ近くある。森の奥深くにあるこの家から街までの、片道一時間近くある舗装されていない山道を杖も持たずにしっかりとした足取りで歩いて行く。祖父はあと十年くらいは平気で生きられそうに見えたが、それでも腰の痛みを頻繁に訴えていたし、腎臓が悪く、街で医者に処方された薬がかかせなかった。だが、この老人は可愛い孫娘が一人でも生きていけるような齢になるまでは、死んでも死に切れないと毎晩のように息巻いていた。メルシィの身寄りは、祖父一人だけなのだ。


 メルシィの父親は大酒呑みで、毎晩のように街の酒場をうろついては酔っ払って記憶を失くした。祖父はメルシィの母親である美しい娘に対して「あの男とだけは結婚するな」としつこく言って聞かせたが、母親は結局、結婚する前にメルシィを妊娠した。新たな命の芽吹きを知って、父親も少しは自身の行いを顧みるかのように見えたが、メルシィが生まれるよりも前に、父親は酔っ払って車に轢かれてあっさりと死んでしまった。母親は街の小さな産院でメルシィを出産したが、その頃の彼女の精神は、朽ちた果実のような状態であった。祖父が話しかけてもまともな受け答えさえ出来ないことが多く、メルシィの出産は奇跡としか言いようがなかった。「メルシィ」という名は、この国の言葉で奇跡を意味する。だが、母親はメルシィを生んで間も無く、祖父の目を盗んで首を括ってしまった。

 悪夢のような現実を前にしても祖父の心がなんとか死なずに済んだのは、老いた腕の中に小さな温かい命があったからに他ならない。まだこの世の汚濁を映していない、澄み切った大きな青い瞳。まん丸い、林檎のようなほっぺた。儂が死んでしまったら、一体誰がこの子を守ってくれる?

 そして、老人は赤ん坊を抱えて汚染された街から去った。一点の穢れも知らぬこの美しい目が、これから先も濁ることのないように。世間の汚濁に指先さえも触れさせないよう、メルシィが成長しても、決して自宅が見えない範囲には行かないように口うるさく何度も言って聞かせた。

 父と母がいない分、メルシィは祖父からこれ以上ないほどの愛情を受け、すくすくと素直に成長した。祖父の言いつけを破ろうという気は一切起こさず、家の中で退屈を持て余しながらも、読書や空想に耽って一人の時間を過ごした。メルシィにとって一人の時間は当たり前の日常で、それが苦痛だと感じることもなかった。


 お爺様は、外の世界は汚濁と醜悪に満ちているのだと言う。実際にその通りなのだろう。哀しいことに、この崩れかかった世界から犯罪や病気や自殺がなくなる気配など微塵も感じられない。お爺様は私のことを思って、家から離れないようにといつも厳しく言って聞かせるのだ。だから私もお爺様を心配させないように、言うことをきちんと聞かなければいけない。天国にいるお父様やお母様だって、私がお爺様の言うことを聞いて良い子にしている姿を見れば、喜んでくれるに違いないのだから。──メルシィは自分自身にそう言って聞かせた。

 だけど、一人で過ごす時間はやはり寂しい。メルシィはこんな時、友達がいたらどれほど良いだろうかと考えずにはいられなかった。家の周辺には、小鳥やリス、ウサギなどの動物たちはたくさんいるけれど、当然のことながら言葉を話すことはない。

 小説の主人公には、ほとんどの場合気心の知れた友達がいる。他愛ないことで笑い合ったり、落ち込んでいる時は誰よりも早く励まそうと即座に駆け付けてくれる。「友達」とは、そういった大切な存在のことを言うようだ。お互いに人間であるからこそ、時には意見をぶつけ合い、喧嘩をしてしまうことだってある。それでも、友達がいるからこそ自己の欠点を見つめ直し、互いの存在の大きさに気付くことができる。嗚呼、「友達」とは、なんて素晴らしいのかしら!


 メルシィは家の中で一人でいる時も、極力明るい表情を浮かべるよう心がけていた。笑顔でいれば気持ちが明るくなり、そういった人のいる所には、自然と人が集まってくる。そのように本に書かれてあったのだ。青い目は爛々とした輝きに満ち、平常時でも口角は少し上がっている。次第にその表情はメルシィの愛らしい顔立ちによく馴染んでいき、いつしか特に意識せずとも、明るい微笑を保っていられるようになった。

 けれども、こんな森の中を訪れる人などそうそういるはずもなく……ドアの開く音がしたかと思えば、それは祖父以外の何者でもなかった。もちろん、祖父が帰って来てくれた時は嬉しいのだけれど。

 この日も例外ではなかった。祖父は家を出てから、およそ三時間後に帰って来た。街で購入した食材や生活用品が入った鞄を背中に担ぎ、玄関の戸を開いて「ただいま」とメルシィに呼び掛けた声には、隠し通せない疲労の色が滲んでいた。祖父が家へ帰って来た頃には、窓の向こうに見える空には宵闇の色が滲み、辺りを薄暗く染めていた。

 食事はメルシィが作ることが殆どである。メルシィは祖父が買い物から帰って来ると、待ってましたと言わんばかりに読んでいた本を机に置き、すぐに夕食の支度に取り掛かった。まるで、「自分の役目を果たせる時が来て嬉しい」とでも言うように、軽やかな足取りで、口元にはいつもの微笑を湛えながら。

 夕食の支度と言っても、ごく少量の簡単なもので済ませることが多い。祖父と孫との二人暮らしは決して裕福な暮らしとは言えない上、ここの所は不景気で、どこもかしこも食材が値上がりしていた。誰もが自分の家族の生活を立てることに必死で、商売人は少しでも高く、客に商品を売りつけようと血眼になっている。

 本日の夕食は黒パンに野菜と豆のスープ、それに加えてチーズが少し。静謐の室内に、テーブルの上に置かれたオレンジ色の蝋燭の灯が揺らめいている。窓の外は夜の闇に沈み、虫の鳴く心細そうな声が木造の家の中にまで根強く響いていた。テーブルを挟んで向かい合い、祖父と孫はささやかな食卓を囲んだ。

 そこで交わされるは会話は変わり映えしないが、メルシィと祖父にとっては世界で一番幸福な時間であった。祖父は「今日はどんな本を読んだのか」とメルシィに聞き、メルシィが声を弾ませながら喜々として答えると、祖父も嬉しそうに笑い、「今度はもっと面白い本を図書館で借りてきてやろう」と言う。メルシィは街の様子を聞きたがったが、祖父は言葉を濁し、メルシィに気付かれない程度に瞳を曇らせた。そして、汚濁に満ちた街の中の、まだマシだと思えるような僅かな部分を記憶の端から切り取って、それをさらに美化した言葉で語って聞かせるのだった。


 お爺様さえいればいい。街に行ってみたいとは思うけど、この家の中は世界中の何処よりも安全だ。こうしてお爺様と二人でささやかに暮らしていけるだけで、私は十分幸せなのだ。──メルシィは心からそう思っていた。


 しかし、ささやかな幸福は、悪魔の格好の餌食となる。そうして絶望の断崖へと立たされた者は、人々の嘲笑の的となり、何も残らなくなるまで搾取され続ける。それ故に人は己の精神を隠し、この世の汚濁に染まらないよう、守り通さなくてはならない。それはこの世界ではごく当たり前の日常であり、子供でも知っている常識である。知らない者があるとすれば──そう。それは、祖父の愛によって守られていた純真な少女だけ。

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