8

 その後のことはあまりよく覚えていない。疲労ゆえにいつのまにか眠っていたのかもしれない、或いはそれそのものが夢だったのかもしれない。ただ彼女と共に同じ時を過ごしたことは確かだ。今でもふとしたとき、目覚めの朝のまどろみの中に僕のすぐそばに彼女の面影を見る。ずっとずっときれいなまま……

 明瞭に彼女を記憶という媒体から思い描けるのは再び老人の漁船に乗っているときからであった。しかし、どういう経緯を経てそこに至ったのかは僕は覚えていない。彼女は水平線の先に暮れていく夕陽を背に陸地のほう、海間際まで迫る山々の間間に開かれた村々や築かれた港湾街に目を向けていた。埠頭や桟橋には数え切れないくらいの漁船や大型貨物船、近海定期航路用の客船が繋留されている。まのびした汽笛がかすかに聞こえ、工業地帯からの煙は淡く茜色に染まり、凪いだ海辺に行き場を求めていた。電光の明かりが極彩色に眩しく煌めき出して、夕闇の紫紺と気味悪く混ざり合っている。

 彼女は自分のなかにじんわりと染み出す気持ちをひとつひとつ丁寧に言葉にした。それはまるで逆さまにした砂時計のこぼれ落ちていく砂のひと粒ひと粒に刻を見出しているようであった。

「綺麗ね……ほんとに、昔よりずっと……でもなんだかわたしには眩しすぎるわ。それにもうどこにも往時を偲ばせる面影はないのね……わかっていたことだけれども辛いわ」

「でも昔……あの時代は結局は何も残さなかったじゃないか、ただどうしようもない虚しさと抑え難い感情が残っただけじゃないか。振り返ったところで何もないではないか。だから大人は僕たちに何も語らないし隠そうとする……」

「たといそうだったとしてもあの時代を一生懸命生きたことに変わりはないわ。でも肯定も否定もしたくない、だってそうしたらあの時代のなかで生きて死んだ全ての人たちはどうなってしまうの。無かったことにしたくないの………それに、ね、大人たちはそうすることでしか自分たちのしてきた過ちを償えないし残してきたものを見ることができない、そしてあなたたち子どもに背負わされるであろう自分たちの因果を少しでも軽く、楽にしてあげたいの」

 僕は無意識のうちに拳を固く握りしめていた。だから何も語らないというのか、矛盾と読み違いを孕んだ夢物語に酔っているというのか、極端な直接行動に走るというのか……

「勝手に決めてくれるな、それは僕たちも背負うことだろ。ちゃんと向き合ってもう繰り返さないように努めなきゃいけないんだろ、だったら尚更……」

 僕はそこで言葉に詰まった。彼女は泣いていた。溢れ出る涙は暮色に染まる頬をつたい哀しく光輝いていた。

「わたしにはわからないわ。どうして人はうしない、嘆き、悩み、苦しみ、足掻き、慟哭し、試されることによってのみ存在を赦されないのか。たしかにひとは醜く愚かで浅はかで卑猥よ、でもそれだけで人は形容できないわ。それと同じくらい優しくたおやかで明るいのよ。根拠はない、でも確信できる」

 彼女はしんみりとしているが泉水の透き通るような清らかな声音でそう呟く。でもその切実な訴えは夕映えの空と海に溶けていく、掻き消されていく。

「それは僕たちが救われるにも罰せられるにも値しないということだからじゃないか。であるからこそ僕たちはそうやって存在を示していくんだ。僕たちは神にも世界にも期待されていないのかもしれない。ただ『運命』というやつに揉まれながら抗いながら生きたまえ、そうとしか思われていないんじゃないか」

「そうかもしれないわね……」

「僕は少なくとも知りたいと思う。好奇でも思想でもない……僕にとって使命みたいなものだ」

「……あなたみたいなひとがわたしに意味を持たせてくれるのね。わたしの大切な人たちに赦しを与えてくれるのね」

「それは……どういう……」

 彼女はアルカイック・スマイルを浮かべていた。見ると彼女の姿が薄くなっていた。黄昏の黄金色の太陽光線が彼女の身体を透過し、僕の影を作る。

「時間が来たのよ、実はわたしこの世に実在していなかったの。正確には存在が存在としての意義を失って消滅したけど、わたしの存在をわたしに思い入れのある人たちが各々の記憶と集団記憶がわたしをこの世に投影していたの。でもわたしが投影される必要がなくなったの、だからもうわたしたちはここでは生きていけない。わたしたちは過去に生き、死んだひとたちなんだよ。もう生きることは許されない。この世界は今を生きるひとたちのもの。わたしたちは過ぎ去りし時代のなかで完結し、神となる。後の世は貴方達の世界だよ。でも、わたしたちはずっと貴方達のそばに居るから」

 彼女は僕に向かって満面の笑みを浮かべた。その濁りなき澄みきった感情に僕はどうしようもない気持ちを抱いた。越えられない河がある。彼女達は此岸の全てに折り合いをつけて、後ろを決して見ることなく先に渡った友のもとへ舟を漕ぎ行く。そこは暖かく、光に満ち溢れた安寧の土地。

 先逝く者たちはそれで良いのかもしれない、けれども残された者たちはそうはいかない。そんなこと誰だって考えることだ。だが僕は彼女に叫びたかった。それはいかにも当たり前な普通のこと。でもそれしか思い浮かばなかったんだ。

「お前は、お前たちは側に居ると言いながら僕らを残して遠い遠い果てに行ってしまう。存在はどんどん小さくなって掠れて消えてしまう。いかないでくれ、やがて僕らがゆくであろう果てでずっと待っていてくれ、神話とならないでくれ」

 彼女は一瞬驚いた表情を見せるやふふっと笑った。美しかった。愛おしく思えた。

「消えはしないわ、それにすべてはものがたりなのよ。ひとつひとつがすべてにつながるの、わたしはあなたよ。そしてあなたたちはひとりひとりが誰かの欠片なの」

「僕は誰かの欠片じゃない……僕は鏡だよ。誰も僕を見ちゃいない、君もそうだ、僕を見てはいない……」

「あなたはわたしの何を今まで見ていたというの、鏡は誰を写していると思っているの……わたしを、わたしとして投影されたあなたたちを写しているのよ。決してあなたを見ていないなんてないわ」

「でも……僕は、僕は……」

 膝に力が入らない、崩れ落ちる。彼女のロングスカートの裾を強く握る。嗚咽が漏れた。立てなかった、顔を上げれなかった。彼女を最後まで看取るべきなのに……

「だらしがないんだから。立ちなさい、ほら……」

 彼女は僕の手を取り立ち上がらせた。僕の顔を見るやみっともない、と可笑しく微笑した。彼女は滲んで見えた。うわずったような変な声が漏れる。

「いいこと、あなたは確かに今生きているわ。でも誰かの記憶の結晶でもあるのよ、そしてそれは過去も未来をも含んでいるわ。あなたはあなただけのものではないの……良いにつけ悪いにつけ、ね」

 僕はそのときハッとした。僕の中に居たあの存在は他人ではなかった、あれは僕自身の声だったんだ。そして………

僕は思い描く、やがては誰かの夫となり、父となり、祖父となり、そして死ぬ。いまだってそうだがそのとき僕は個でもあるし総体でもあるのだ。しかし僕はそれ以外に何をこの世に残せるのだろう。

 人生は風前の塵芥と等しく虚しくて儚い。しかし、それでも僕らは生きていくし、その生にあてなく意味を求め続ける。たとえどんな生き様だろうが死に様だろうが僕らが居た証は行政の記録には半永久に遺り続けるし、誰かが僕らの生死を客体化しなんらかの体で慰めの意味を与えてくれる。

 でも、だからといって僕たちはその意味を断じて受け入れようとはしない。そこにかつて生きていた「僕ら」はいないからだ。僕らが本質的に求めるのものは誰かの記憶の中で生きていけること、僕らの居た証が誰かにどんなに小さくてでも前を進む、生きていける意味を持たせられうることだ。しかしそれらは時として人を如何様な方向にでも導く。そして「時」は結晶化され、個々人の内での記憶は集団記憶との相補性と自己完結性を持ち、個々人によって都合よく解釈され得る。永遠性と神話性を兼ね備えるのである。

 彼女は僕の手を優しく握る。その手は凍てついたように冷たくて。彼女は握った僕の手を胸元に寄せる。祈りを捧げているかのようであった。

 僕はたしかに今、波の彼方に果てを感じられた。愛の彷徨う姿を見た。これまでの自分と残された「自分」を重ねられる場所を僕はようやく見つけられた。彼女は僕の愛そのものであったのだ。

 そして光の粒子となり落日の空に、海の向こう黄金色に輝くゆったりとした弧状の水平線の遥か彼方に僕の温もりを抱いたまま静かに風に優しく吹かれるように消えていった。僕は無言のままその場に立ち尽くした。漁船はゆりかごのように波間を揺らめいている。変に甲高い汽笛が沖合から聞こえてくる。潮汐は夜を呼ぶように満ちていった……

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