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 焼玉エンジンの独特なポンポンポンという軽やかでリズミカルな音がウェーキーとともに海面にひとの営みを描き出す。老人は煙草を咥え、鼻歌交じりに舵を操っている。ラジオから聞こえてくる陽気な音楽は漁船が波間をかける音をコーラスに見知らぬ女性の天気予報番組を導く。今日は快晴のようだ。

 朝まだき、僕と彼女は起こされた。どうやら漁仕事を手伝えというらしい。老人はマリンサロペット、通称カッパを着てねじり鉢巻を巻いているといういかにも漁師という感じであった。僕も老人に手渡されたカッパを着て長靴を履き、昨晩世話になった例のオート三輪の荷台に乗り込んだ。助手席にはもう彼女が座っていた。彼女は目を瞑り、何か物想いに耽っているようであった。西の彼方、まだ紫紺の空の片隅には月が所在なさげに佇んでいた。

 オート三輪に揺られること十数分、僕たちはリアス式海岸の奥まったところ、波静かな海を持つ小さな漁港に着いた。海鳥が甲高い鳴き声をあげながら港内を低く飛んでいる。もやいに繋がれた漁船の上甲板では漁師たちが出港の準備に追われていた。オート三輪を駐車場に停めた後、僕たちも老人の漁船に乗り込んだ。大きさは十数トンほどで船体には「第一雲仙丸」と荒々しい書体で船名が書かれていた。船上にはもう既に何人かが乗り込んでいて出漁準備を始めていた。吐息は白く、風は肌を凍てつかせ、手はかじかむ。僕も老人に仕事を頼まれるが慣れてない作業の数々に右往左往、老人に叱咤されながら努め、そして輝かしく陽光が山の瀬から漏れ出した頃出漁した。

 漁港のある入り江はもうとっくに幾重も連なる半島や岬の影に隠れ、眼前の海が段々ひらけてきた。ポツンポツンと数万トン級の貨物船や油槽船、客船が遥か先の大洋に浮かんでいる。灯台の灯りはまだついていた。しかしその夜の船乗り達の道標たる白熱の光は黄金色の日の光に掻き消されていく。彼女は船首に立ち、両手を広げ凛怜の海風を全身に受けていた。魅入られるような黒色をした彼女の長い髪と彼女の纏う神の御使いを思わせる純白のワンピースは波飛沫とともに風に靡き、海と天の狭間にいる彼女のその姿は天空を翔る有翼人のようであった。僕は惚れ惚れと見とれていた。それは他の乗組員も同じようであった。だが僕と違ったのは彼らはこの光景が初めてではないということだ。彼らは僕と彼女が老人と共に漁船に乗り込んだとき彼女にまた来たか嬢ちゃん、と顔馴染みの飲み仲間のように声をかけていたからだ。そのとき僕は胸の内に相当なざわめきを感じた。自分は踏み出すべきではないのか、告げるべきではないのか、そう自問する。しかしそうしたところでどうなるというのか。もう気付いてる。僕は「僕」として見られてはいない。僕は鏡なのだ。真実をその身で告げることはあってもその身自身は能動的に告げてはならぬ。そう言い聞かせるしかないのだ。

 僕は船縁に突っ伏すようにもたれかかった。船底から唸るエンジン音がいやに心地良く僕の身体に染み渡った。

 しばらくして漁船はその動きを止めた。漁場に着いたようだ。僕は出漁した時間から考えてけっこうな沖合まで来たじゃないか、と合点していたがどうやら陸地からは左程離れていないらしい。遠くの工業地帯に築かれたその無骨で複雑な構造物群とそこから天高くもうもうと吐き出される煙が手のひらに収まるぐらいの距離感だ。老人はおい始めるぞ、と僕に野太い声で言った。見ると船の側の波間に浮き玉が数多く規則正しく、まるで星座の形のように揺らめいていた。どこから嗅ぎつけたのかカモメが幾羽か頭上を舞っている。彼女はそのカモメたちを愛おしむかのように見つめていた。その彼女の横顔は、視線はどこか遠く遠くをも見つめているように僕は感じた。

 似つかわしく据えられていた漁労クレーンがやかましく動き、乗組員たちが慣れた手つきで手繰り寄せられた定置網の箱網を揚網機にへと掛け巻き上げていく。老人も含めて誰もが緊張した面持ちで巻き上げられる箱網を見ている。すると水面が揺らめきだしやがて多くの水飛沫が上がりはじめる。カモメが一段と集まってきた。皆一様に顔を見合わせて破顔する。僕は老人に命じられ船備え付けの生簀の蓋を外す。蓋は船が激しく揺れてもびくともしないように、甲板を洗い流すほどの波浪にも負けぬように鉄塊でできているにも関わらず楽々と持ち上げられた。

 巻き揚げられる箱網に絡まれたスズキやボラ、ブリなどが活き活きと跳ねている。鱗の一部が剥がれ飛び散り暁光に照らされ綺羅星の如くチラチラと輝く。その生への本能的な渇望と避けようもない意味ある死出の途への忌避と悦びの発現は僕の眼には生々しく映った。しかし僕はそれにしっかりと向き合わねばならない、がその訳を問われた際返答に窮してしまうだろう。何故ならば僕をそのように行為させているのは命をいただくというその行為にドグマ的な観念を抱かなければという人倫を支え得る道徳律から生じる高尚なものではなくて命あるものがなんの因果かその生を終わらせねばならないその刹那の抵抗と諦観の相克とそれらから帯びるすべての生きとし生けるものの本性の直喩としての淡い光を心の内に活写して永久に留めたいという素朴な衝動であったからだ。

 魚たちは漁師の長年に培われた勘に依って荒く選別されて売れそうもなかったり食すに適さないものは海へと返され、それ以外は生簀に放り込まれる。生簀に飛び込む魚たちの水音がそこで反響して重層さを孕みながらも生来の曖昧さを捨て去ることなくくぐもって聞こえる。こうして僕たちは小一時間ほどで網起こしを終え、極彩色な大漁旗を波風にはためかせながら意気揚々と漁港に戻っていった。

 魚を水揚げし、氷が敷き詰められたトロ箱に魚種ごとに分け入れ、魚市場に卸したころには陽は完全に昇っていて、放射冷却する大地を優しく温めていた。しかし山々はもの寂しげに木々を佇ませていた。ところどころに木の葉を囁かせる常緑広葉樹が浮いて見えた。

 


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