6

 海岸線に沿うように続く道をオート三輪は進んでいく。時折激しく車体は揺れ、振動であちこちが軋む音がする。空冷エンジンの安心感を与える落ち着いた響きが風に流れる。僕は幌のついた荷台の上に乗っていた。ひとりになりたかったからだ。僕は足を投げ出すように鳥居部にもたれかかって坐り後方を見る。底の知れない暗さに満ちて横たわる内海の向こうに都市の電光の眩いほどの煌めきが僕には妖しく異様に思えてならなかった。その中に満たされる人々の営みは享楽と怨嗟の気配を四方に溢出させていた。そしてそれはさらに人々を蝕んでいき、山海のあるがままの輝きを濁らせていた。しかしだからといって純粋無垢な大地とそのなかでの人為に帰結しようとも回帰しようとも思わない。

 キャブ後方の覗き窓からは計器の光が見て取れる。薄ぼんやりとしたその輝きは彼女と老人の気配を宵闇のなかに息づかせる。ヘッドライトの燭光は明々と道を照らしていた。

 僕はふと思う。どうして母は僕を快く送り出したのだろうか、と。今まで分不相応な僕の勝手は許さなかったというのに………

父は早くに死に、母が懸命に僕を育てつつ働いた。それでも貧しかった。今だって母は運送会社の事務員に就いているが僕に食わせ、公立高校に通わすのがやっとの稼ぎでしかない。小遣いなど貰ったこともなかった。

 母はいつでも僕を第一に考えていた。僕には痛いほどそれが分かっていた。どれだけ愛されているか、どれだけ大切にされているか僕はそれだけで胸にたくさんのもので満たされていた。だから僕は彼女の誘いに迷った。両天秤にかけることはできなかった。だが、僕は行かねばならなかった。

 そんな懊悩の時間のなか、ある日の夕食後僕が食器を流しへ運ぼうと立ち上がった時、母は僕を呼び止めた。僕は再び座り母とちゃぶ台を介して向き合った。ラジオからは名も知らぬ交響曲が流れていた。その旋律はある種の緊張の合間を一層引き立たせていた。

 母が何故呼び止めたのか僕はなんとなく分かった気がした。僕から無意識のうちに外に見せていたジレンマを感じ取っていたのだろう。母は少し寂しげな表情を見せていた。そしてまたそのときの母の眼はここではないどこかを、誰かを僕の眼を通して見つめている。母の瞳は彼女と同じ輝きをしていた。僕はその眼差しに少し胸のざわめきを覚えた。居間には一切の音が止み、時すらも静寂の中に包まれているようであった。

 僕はうつむいて黙考した。母は僕の決断の如何を何も言わずに待っていた。ただ微笑んでいた。

 そして僕が選んだ結果は彼女と旅行に行くことだった。その決意を母に告げると母はタンスの引き出しから封筒を取り出し、僕に手渡した。

「これを使いなさい。母さんのことは心配しなくていいわ、いってらっしゃい」

 母はまるでこのときがいつか来るのではないかとずっと前から分かっているようであった。だが僕が明確にその問題に向き合う前に認識すらさせないでいたのは恐らく運命的な或いは超時空的な何者かにそのように導かれることを何よりも願っていたからなのではないだろうか………

 僕がそんなことをぼんやりと考えているうちにオート三輪は停車した。どうやら目的地に着いたようだ。ヘッドライトの明かりは落とされ、エンジンは切られた。身震いするようにオート三輪は静物となった。彼女と老人がドアを開ける音がする。僕も荷台から降りた。少しひらけた場所であった。

 見上げると薄くたなびく雲の合間に漏れ出る月影は天地を青白く照らしている。その光のなかに一軒の平屋が静かに佇んでいた。窓からぼんやりと人の営みが感じられた。吐息は儚げに虚空に舞い刹那のうちに月夜に溶け込む。

「俺の家だ、今はガキどもは家を出て妻と二人暮らしだ。余計な心配はいらん」

 老人は言った。彼女は子どもたちが家を出て寂しかったのね、といつも僕に言うように茶化した。老人は何も応えずに家の戸を開けた。玄関の照明の温かな橙色の灯はまるで幸いの木漏れ日のようであった。

 僕は玄関の軒先でふと立ち止まって耳をすます。海潮の囁きは吹き抜けていく風音が受け止めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る