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 その日は黎明に秋霜が晨光を受け休耕地や路傍の多年草の草々をところどころ輝かせ、八束穂が平野に波打ち、河原の薄野には赤トンボが飛び交っていた。小春日和だった。高き空には鰯雲が靡いていた。

彼女とは駅前で待ち合わせた。服装がいつもとは違い流行りのロングスカートにモッズの船員帽を被っていた。今の都会暮らしの若者感溢れつつもシックな趣であった。変な期待を抱き、アイビールックで洒落に着込んで意気込んでいた自分に少し嫌気がさした。彼女はポッケから懐中時計を取り出した。やや黒ずんでいる、随分と年季がはいっているようだ。都会の喧騒の中に独立したように時を刻む音がかすかに聴こえる。その時計の文字盤に錨の紋章が一瞬見えた気がした。だとしたら彼女は………

 僕は苦虫を噛み潰したような表情を数瞬浮かべていただろう。抑え難い悋気を抱かずにはいられなかった。僕はハッとした。ようやく彼女に向けているこの気持ちがわかった気がした。だが、僕がいくら伝えようが届くことはないだろう。もう解が求まっている方程式を解こうとは思わない。このまま胸の内に秘めていよう。彼女はきっともう気づいているのだろう。敢えて言わないだけだ。言ってしまえば僕が明確にそれを意識してしまうからだ。胸が締め付けられる。

 駅前商店街には若いアベックたちが買い物をしていた。バス停にはサラリーマンや職工がタバコを吹かしながらバスを待っていた。作業車輌がしきりに往来している。休日返上で学生活動家達がプラカードを掲げて学生会館自治や学費減免を声高に唱えていた。安保闘争の激情は冷めやらぬようであった。

「なにを立ち止まっているの、おいていくわよ」

「あ、あぁすぐ行くよ」

 彼女はいくらか先にいた。彼女は僕の意識を感じるやいなや前を向き直した。僕はどこに行くのか分からなかった。しかしそれは本音と建前の間に苛まれているような居心地のなさを伴う感覚だった。彼女に導かれるまま駅舎に足を向けた。

 駅構内はそれほど混んではいなかったがまばらに人がいた。昼近くということもあるが、たとえ先の皮肉な特需から経済や生活水準が上向いていてもまだ人々にそんな余裕があるわけではないのだ。しかしやっと人々は過去を何らかのカタチで記憶にして、忘れまいと決意して、上を向けた気がする。きっとまたしっかりと歩き出せる。僕は空を振り仰ぐ。太陽が眩しかった。

 しばらく待合室で時間を潰しているとディーゼル機関の軽やかながら力強い音を轟かせ、汽笛を高らかに鳴らしながら京都行きの普通列車がやってきた。乗車すると直ぐに車掌のホイッスルが吹かれ、ドアが閉まる。電鈴が鳴り列車は駅を出発した。ホームは流れ、街は視界から段々と遠ざかってゆき、土手を登りスピードを上げトンネルに入るとその姿は見えなくなってしまった。

 短いトンネルを連続して抜け、山あいを縫うように列車はゆっくりと進んでいく。天頂の太陽は渓流の水面を煌かせ、そよぐ山風は木々の枝を撫で葉を散らせていく。汽笛が谷間に響き渡る。車窓の先に鳶が優雅に飛翔していた。彼女は静かに松本清張の「ゼロの焦点」を読んでいた。その姿は文学少女然としていてある種の奥ゆかしさと孤独感を感じさせた。僕は彼女の心境を探ろうとはしなかった。僕は何も知らないからだ。だが、僕は知らねばならない。それが僕ではない僕が僕に示した懺悔であり、僕自身の役割であるからだ。ジョイント音は心地良く聞こえてくる。やがて列車は終着駅に到着した。

 ホーム上は乗車位置を示す文字記号や白線で埋め尽くされていた。特急や夜行列車に対応した長大なホームにはしきりに列車が往来発着していた。この地方の中心的な都市に位置するターミナル駅なだけあって構内は人で賑わっていた。僕と彼女は蓬莱の豚まんを食べて腹を満たし、昼行急行「雲仙」に乗車した。

 列車に揺られ未だに遺るトタン屋根のバラック住宅や不自然と浮かぶ空き地の数々におさめどころのない複雑な気持ちになりながら、内海に沿って無数の煙突から上る煙と龍骨のようなガントリークレーン群や林立とする工事現場を車窓に見、海峡トンネルを抜け、着いた先は古来からこの国と外とを繋ぎ今もなお異国情緒薫る国内有数の港湾都市であった。

「さあ着いたわよ、と言ってももう夕方ね。晩秋の日没は早いものね」

 ビルの隙間から見える斜陽は遥か海の果てに沈んでいき、茜色の残滓は西空を染め上げる。宵闇は星影を瞬かせ、月の王国を現出させる。だが太古から変わることなく天に在り続けるその幻想的な光の大海は都会のネオンサインやスモッグに霞んで暗く澱んでいた。

「どこに泊まるんだ、決めていないのなら早く宿をとらないと駅近辺のは満室になるぞ」

 僕の声が聞こえないのか、はたまた聞く気がないのか彼女は駅前通りの方を見ていた。通りを往来する車の数は多く、バスターミナルには長蛇の列ができていた。すると一台のオート三輪が僕らの近くの路傍に停車し、一人の男が降りた。彼女は古い顔馴染みに会ったかのように懐かしげな表情を浮かべていた。しかしその表情はあたたかな懐古の情だけではなく、暗く深い悔恨の情も包含しているように僕には感じた。彼は僕らのもとへ向かってきた。彼女は彼に敬礼した。その動作は数え切れないほど反復したことによって洗練されたかのようであり、それ自身が行為されるようになった意味は消え、存在と形式だけがとあるプロセスの鍵としてのみ機能する必要条件になってしまったものだとしても僕にはそれが意義が無価値となりながらも行為自体が意味となった今秋の豊作を慶び、感謝し奉ずる祭禮の神楽のように美しく思えた。

「航海長わざわざありがとうございます」

「久しぶりだな嬢ちゃん、元気そうで何よりだ」

 その老人は彼女に対して返礼をした。初老近いように見えるが声は野太く朗々として、背筋は真っ直ぐに延び、体格は彼の人生を正確に投射した様な重厚さと生を帯びていた。

「で、嬢ちゃん、その少年が………」

 老人は僕を見るや言葉を詰まらせた。言葉を出そうにも出せない様子であった。僕は彼の言わんとしていることがなんとなく分かって気がした。それと同時に彼女は隠喩的な笑みを小さく浮かべる。その姿は女性として熟れる直前の少女に薫る艶やかさを醸し出しているかのようであり、そして時折彼女の見せるその笑みは彼女が時空連続体そのものと一蓮の上にあるようにも思えた。時を超え、場所を越え彼女が持つ性は常に僕らの側に在り続けている。僕はどうしようもなくセンチメンタルな気持ちになる。

「航海長、そうですよ……そう、だからそれ以上は言ってはいけない………」

「………そうだな」

 老人は寂しく笑い、停めていたオート三輪のもとへ足を向けた。僕は終始黙っているしかなかった。いや、沈黙することが最善であったのだ。言葉が受動意志であるなるならば、沈黙は能動意志なのだ。しかしそれと同時に僕は彼女と老人との間に奥深く脈々と底流するものを感じざるをえなかった。ひるがえって僕には彼女を結びつけ、繋ぐものは果たしてあるだろうか。そもそも彼女とどうしてあの日あの場所で巡り逢ったのだろうか。

 僕と彼女は先に行く老人の後を追った。空は完全に暗闇に覆われ、空気は一層秋涼を孕み、風は落葉した街路樹の間を通り抜け肌を凛冽にたおやかに撫でた。都会の雑踏は僕の耳には遠くそして僕をこの世界に留めるよすがのように感じられた。

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