4
彼女とはそれから何度もあの場所で会った。いや会いに行ったと言った方が正しいだろう。彼女は僕に時間があれば来て欲しい、と言った。一体何故彼女はそれを僕に望むのかは分からないが、僕は敢えてわけを聞かなかった。おそらく聞けば答えてくれるだろう。しかし、それは彼女の奥底に在る絶対心理に触れるものであった。僕は知ることを恐れた。もし知ろうものなら彼女の全てを受け入れねばならない。そのような覚悟は僕にはまだない。実存を追い求め続けることは人の答えのひとつであるが、果たして全体に埋没した僕らは本当に偽や仮なのであろうか。
あるとき彼女は穏やかな白波の奏でる音に耳をすませながら、あの南洋のように綺麗な眼を向けて僕に問うたことがある。もし仮にわたしやあなたがここに確実に実存しているとしてもその現存在は他人が描く希望や夢の投影であったならどうする、と。
あの時何故彼女はそんなことを言ったのか僕は分からなかった。だが、今は確かに分かる。僕達は全体性のなかの一個人で本質を等しくし、虚無空間に緩衝空間を幻想し、絶対精神へと至る存在なのだ。彼女はカタチは違ったが正にそうであった。僕は少し戸惑いながらも答えた。
たとえ僕らの存在の根拠がどうであろうとも、僕らは今この瞬間を誰かに望まれて生きている。そして僕らはこの世界しか知らないし、だからこの世界の関係性の中でしか論じられない、と。
僕は常々思う、僕たちにはふたつの理性が内在している。ひとつは豪放磊落で上昇志向に満ち、社交的且つ差別的な対外的理性、もうひとつは他に愛憎を持ち、猜疑と信頼に搖れ、叶わぬ憧憬を抱く内在的理性だ。そのふたつは互いに鏡面上の存在なのにも関わらず醜い争いを人類誕生以来続けている。
彼女は聖母像のような笑みを見せて、僕から視線を海岸線遠くへと運ぶ。そこには煙が何条も空に上がっていた。巌に砕かれる波浪の音が耳朶に残る。
「哲学かぶれね、きっと心の中でも何か呟いているんでしょう。痛々しいわ」
「君が先に話題を振ったんじゃないか、僕がそんなにも痛々しい奴なら君もそうじゃないか」
「わたしは別にかぶれてなんかいないわ。しっかりとお勉強しているもの、あなたとは違うわ」
「…………」
僕は彼女の言葉にぐうの音も出なかった。僕はそばの小石を軽く蹴る。小石は地を跳ね、遂には岸壁の下に消える。陽光を受け、白光燦然とする海だけが僕の眼に映った。僕のきまりの悪そうな様子を彼女はいじらしく微笑んで見ていることだろう。
「いいのよ、別にそこまで気に病むことではないわ。ただ、読書と座学で得た知識をこねくり回しただけの理論は言わないでほしいってだけだから」
彼女は僕にそっと近づいて、同じ水面を見つめた。港の方から汽笛が聴こえる。僕は彼女の横顔をちらと見た。天頂の陽を受けて光輝くその綺麗な顔だちは少し淋しそうで何かを達観しているように見えた。が、それはほんの数瞬のことであった。彼女は僕の視線に気づくとまるですべてのことがなかったかのように表情を戻して、二、三歩海崖の先へ出る。
僕は彼女をどう見ているのだろう。海風にゆれる白いワンピース、黒髪に不釣り合いな深緑の髪留めを付けた彼女とはじめて出会った時から向けているこの気持ちはなんであろう。
あの惨憺とした夢を何故見たのだろう。いつも夢で生きる主観は何者なのだろうか。そもそもあの世界はどこなのだろう。全てが彼女を軸とした予定調和の様に思えてしまう。だが、例えそうであろうともそれは夜空に瞬く星々のひとつひとつと同じようなものだ。
「………僕はわからない、考えても考えても」
何故かやるせなくなる。言い表し難い焦りを感じる。どれだけ思考を重ねようと万物の深淵に迫ろうと僕らがそこに見出すものはたったひとつだろう。だがそのものは時間や場所を超越して僕らの奥底にあり続け、回帰させる。そしてそれは僕らが明確にそのものを意識に捉えかけたとき、唐突に僕らを死へと駆り立てる。タヒチに晩年身を置いたゴーギャンはその答えを絵に求め、不朽の傑作を生み出した。いつか僕も彼のように辿り着けるのだろうか。それともこのこと自体は野暮なことだろうか。
彼女は潮風に髪を靡かせ、額に手を翳して天空を翔る飛行機を見る。それは綺麗な飛行機雲を引き、入道雲に隠れて見えなくなる。心なしか彼女は畏怖嫌厭な心持ちでそれを見ていたように僕は思った。いつもの迂路ではなく、崖沿いの獣道のような山道を下って行く。木々を抜けていく。僕の通る道だ。
枝葉を踏み締める音がする。あれほど山々を生命力溢れさせていたものたちは唐紅や橙色に彩られ、有限性のなかに終わりのない螺旋を宿らせる生に静かなる刻の始まりを告げられているようであった。しかしその刻は儚く、不確かでそして次なるものの胎動を感じさせるものであった。
時代は流れ、時間は巡る。それにより諸相が移ろう。円弧のように。ただそれだけのことであるが、そこには生命がある。僕らをこの世界に留める軛がある。僕は彼女がそこから超越しているように思えてならなかった。それと同時に僕はあることを思った。もし彼女が本当にそうなのだとしたら、彼女はひとり海を彷徨う幽霊船に違いない、と。やがて森を抜け、浜辺に出た。
僕は後ろを向く、二人の足跡がそこにはあった。だが、潮が満ちればそれは消える。もう再び描かれることはない。僕は前を向く、彼女が歩みを止め振り返って僕を見ていた。遠くに子供たちの影が見える。海食崖下の磯場で魚取りでもしているのだろう。
彼女はひと息おいて、
「ねぇ、旅行に行きましょう、遠くへ、二人で」
彼女は何かを決意して、僕にそう言った。彼女のその言葉は運命の螺旋に回帰したいかのような切実さを孕んでいた。しかしどうしてだろう。僕には彼女のその願いは杞憂に思えてならなかった。そして僕は心の何処かで来たるべきことが今まさに訪れたと言う聲を聴く。その存在は僕の中に確かに在るが破れた鏡像のようで、また、幾重にも巻きつく鎖に囚われていることを嘆き悲しみ、誰かに赦しを、解放されることをこうているようであった。そして今、それはようやく苦しみから解放されたような安寧の悦びに満たされ、同時に僕に憐れみと赦しの想念を僕に遺して消失した。彼女は真っ直ぐに僕を見据えていた。僕は彼女をしっかりと見れているだろうか。彼女のその瞳の奥には凍てつくようなものを感じた。強烈な鉄の臭いが鼻腔に充満する。空に鳥たちはいなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます