3

 彼女と逢ったその夜、僕は夢を見た。久方ぶりの夢であった。

 いつも見ている夢は同じ類いのものだ。僕が貨物船の機関長になっている夢だ。

パイレーツ征く時化の海、エキゾチックな霧深き海、碧く澄み渡り天と渾然一体となるばかりに遠大な海、水底透け珊瑚礁に魚舞う南国の海、冒険心擽り未知への恐怖と憧憬がないまぜになった異様な感情を胸に僕は拗ねたら面倒だが愛嬌のあるディーゼル機関の鼓動に身を委ねながら何十年も何百回も航海をした。あるときはシアトル、あるときは旅順、またあるときはシンガポールと北へ南へ、東へ西へ。

 行く先々で様々な経験をした。

 禁酒法下の米国で税関にコッソリとビール瓶をあげ、「ユーアーマイフレンズ!」と抱きしめられたこともあった。

 ボルネオで機関科員総員で似非密林探検をして迷い、オランウータンにバナナを貰い、なんとか帰船した後船長にコッテリ絞られたこともあった。

 鴎舞う異国の港で果てなき先に遺した者たちへ想いを馳せ、沈む夕日を眺め続けたこともあった。

 全てが煌めく僕らの母なる海での物語であり、忘れがたい夜半の記憶の飛沫であった。無限遠の海と空の中に僕らの航路は確かに存在し、ウェーキーはいつも僕らに後ろを振り向かせて去り行く陸への郷愁と誓いを曳いた。雄大で煌びやかな世界であった。

 だが、今宵の夢は過去の反転世界の様であった。

 闇夜の海を焔が煌々と照らしていた。鵜飼の篝火や八代海の不知火のような幻想的で古から連綿と灯り続ける火ではなく、戦場に永劫回帰し続ける御魂が花と散る火であった。

 その紫焔に抱かれて沈みゆく一隻の貨物船、第二船艙右舷付近に敵潜の放った魚雷二本が命中したのだ。折下ヒ八八D船団を他の油槽船や貨物船と組み、ボーキサイトやゴム、錫、ジルコンそして航空用揮発油といった重要戦略物資を満載し、昭南から門司への航海の途中であった。


 昭南と内地を結ぶ海上交通路は主に石油輸送に使われ、帝國が継戦能力を維持するために何としてでも確保しておかねばならぬ航路であった。しかし、昭和一八年末頃から米潜水艦が跳梁し始め、群狼戦術を採り、激烈な通商破壊戦を行った。海上護衛を怠ったことも祟って次々と商船は再び内地を見ることなく遠く南海の蒼深い水底に沈められていった。次第に船腹量は致命的なほどにまで減少し、それが國民生活と軍需生産を圧迫し、軍の作戦能力を束縛した。

 そして戦局は急速に悪化、絶対国防圏の一角であるマリアナ諸島は奮戦虚しくサイパン島、テニアン島を失陥し、グアム島は奪還され脆くも崩れ去った。その責任を取らされ東條内閣は退陣、新たに小磯國昭内閣が組閣された。米軍の次なる目標は比島であった。帝國の海上交通路を寸断しにかかったのである。そして前年秋、ついに雪辱に燃えるマッカーサーに率いられた米軍はレイテ島に上陸、聯合艦隊や同地の第十四方面軍は総力を振り絞って決戦に挑んだが惨敗、比島は米軍の手に帰した。聯合艦隊は事実上壊滅し、方面軍は戦力のほぼ全てを喪失した。か細く残っていた南方の資源輸送路はハルゼー率いる米機動部隊に蹂躙され、大量の商船と残存していた海軍艦艇は壊滅的被害を蒙り、本ヒ八八船団より先行していたヒ八六、八七船団に至っては全滅の憂き目に遭った。

 南方航路は遂に終焉の刻を迎えようとしていたのである。

 そこで大本営は石油などの最重要戦略資源の還送のみを限定して南方海上交通路の維持に努め、特攻精神による「特攻輸送」を決意。「南号作戦」の呼称の元、数次に亘って昭南やボルネオに空襲や米潜の攻撃を免れ残存していた油槽船や貨物船を残らず動員して内地へ重油や航空揮発油などの輸送任務を遂行していたのだ。


 辺りの火の粉躍る油まみれの海上には船員や船舶砲兵達が波間に揺られながら茫然としていた。唯々涙を流す者もいた。何度か浮きつ沈みつして遂には浮かぶことのない者もいた。角材や被雷の衝撃で噴き上げられた船体の破片が荒々しく漂っている。運良く海上に降ろせた船備え付けの救命筏や短艇が甲斐甲斐しく溺者救助に努めていた。護衛艦が対潜掃蕩に走り廻っていた。腹に響くような爆雷の爆発音が海中にこだまする。

 この船団では二隻目の被害であった。一隻目はつい先ほど日本郵船所属の戦標船型油槽船「延元丸」が被雷し、沈没した。どうやら機関室付近だったようで紅蓮の炎は夜闇に踊ることはなかった。これがもし重油を満載していた船艙付近であったら瞬時に引火爆発して木端微塵に轟沈していたことだろう。

 また沈んでいく。苦悶にのたうち、再び故郷を見ることなく、獄火に焼かれ、冷たく暗い虚無の水底へ………

 幾千年の眠りにつけばよいのだろう。どれだけの無念、怨念、後悔、絶望、忿怒そして生命を載せればよいのだろう。もう……どうしようも無い。

 あの日、はじめて海に出たことが憎らしい。

 あの日、船渠に入ったことが恨めしい。

 あの日、鉄の嵐荒びたことをゆるさない。 

 貨物船が沈んでいくのは早かった。船体に開いた破口から大量の海水が流れ込み、はるばる昭南から積んできたボーキサイトや錫、ゴムが重しとなって浮力バランスが崩れたのであろう。行き脚で惰性の様に面に回頭しながら右舷前方に大きく沈み込み、そして船尾を高々と虚空に掲げ、二軸のスクリューを空転させつつ海面下に没した。最期まで長恨の汽笛長声が慟哭の海に連続として流れていた。渦を巻いて、全てを共に呑もうとした。

 ………そして暗澹とし、深く、硝煙燻る総てを知る果てなき夜海だけがそこにはあった。

翌朝、僕が起きたとき左眼から涙を流していた。その日は何故だか不思議と幼い頃に不慮の事故で死んだという親父の位牌に一言掛けて家を出た。親父は無言で此方に笑いかけているだけであった。

 その息子の姿を母はやさしい眼差しを向けていた。そして小さくつぶやく。

「あなたにずいぶんと似てきましたよ。そちらからみえていますか。あの子もいずれ遠い世界に行ってしまうのですね」

 早朝の街には初霜がおりていた。

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