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 どれくらい走ったのだろうか、ただ僕に唯一分かることは坂を登り下り、幾つもの路地裏を抜け、通りを抜け、半ば遮二無二に、しかしこれで辿り着けると確信めいたものを抱きながら走ったことだけだ。

 聲に導かれた先、そこは街はずれにある岬だった。見ると陽は水平線の下に没しつつあった。偶然なのか、必然だったのかは今でも分からないが夕日から太平洋に燦然と照らされた一筋の光の路は岬の先に延びていた。微かに波の音が聞こえる。

 小さな浜堤の縁に佇み、しばし夕映えの海に見惚れていた僕はある意味浮世離れしていた。雲行き星耀き出す空、月に急かされる太陽、陸風吹く大地、波囁く大洋、全てが僕を創り僕を僕であらしめている様であった。

 嗚呼、なんと人為の愚かで浅ましく醜いことなのだろう。アジア初の五輪開催に人々は夢と希望を抱き、都市開発は加速度的に進む今、もうあの記憶は、あの暑い夏の日は確実に昔日のことであり、僕たちはそのことを知らない。親や周囲の人達は負い目引け目を感じて話そうとしない。時代は目まぐるしく変わりゆくが大きな循環の中の一弧に過ぎない。現に米ソはいつもギクシャクしているし、どこかには革命の萌芽がある。

 けれども僕達は生きねばならない。どんなことがあろうとも僕達は歴史の円環からは逃れられない。明治の志士達は坂の上の雲を目指して歩いたわけであるが、僕達は蒼い宇宙を見上げて駆けている。カタチは違えど本質は同じである。

 僕はひとつ溜め息を吐く、そして自嘲的に笑む。永続的で霊的な月の引力と風に揺れて波動は一過性だが連続性のある動きを見せる。夜の帷の下りていく中、暗い大洋が水平線の彼方へと蠢いている。

 僕は常々思う、海だけが全てを知っている。ただ静かに見守っているだけだ、と。

 そう感傷的になっていると後ろから草を踏み分ける音がする。振り返るが誰もいない、泡沫の潮の残響が耳朶に重く残る。けれどあたりの空気は先ほどまでとまったく趣きを異にしていた。背筋にくる悍ましいほどの寒気、焼けるような灼熱の熱さ、すべてを圧するような鉄の匂い、迫り来るナニカ。ハッとして岬の先に視線を戻す。落陽の残滓が照らしていた。僕は、僕の右頬には一筋の雫が垂れた。あまりにも唐突のことで理解ができない。

 眼前に少女がいた。歳は僕と同じくらいの一七、八ぐらい、身体はほどよく熟れ、華奢だが絶壁の百合のように凛とした佇まいは美しく、顔はいつか見たルネサンス期の美人画のように綺麗であった。艶やかな漆黒の長い髪が靡いていた。彼女は僕の方を向いているが、僕は目を合わせられずに宙空にあてなく彷徨わせ、漸く水平線上の任意の一点に落ち着かせた。彼女は小さく微笑っているようだった。なんだか恥ずかしく、バツが悪かった。

 暫くのぎこちない沈黙の後、彼女が話しはじめた。聲は泉の清水のように澄んでいた。

「あなたもそう思うのですか、わたしも同感します。この広い海は全部知ってるんですよ、遥か昔からずっと………」

「あの詩は君が歌っていたのか」

「ずいぶんと急ね……ええそうよ、よかったでしょ、わたしの自信作なの」

「あんなに距離があるのに聲が聴こえるわけないだろそれに他には聞こえていなかった、何をした」

「いいじゃない、それくらいの不思議さがあって。あなた理屈っぽくて嫌われてそうだわ。…………強いて言うならことばを風に乗せたのよ」

「で、なんでこんなとこにこんな時間にいる」

「あなたほんとに夢がないわね………」

 彼女は呆れ顔を見せ、そのまま口をつぐんでしまった。僕は慌てて拗ねた彼女の機嫌を取ろうとしたが時既に遅く、もう話さないわ、と一蹴されてしまった。

 時は風に吹かれ、もう陽は落ち、闇の世界であった。木立から葉の囁きが聞こえ、夜漁に向かう漁船の航海灯がぼんやりと見えた。涼やかな音色がしんみりと流れる、もう虫が鳴きはじめる頃のようだ。

 もう帰らねばならない。これ以上居ては女手ひとつで僕を育て上げた母に余計な心配をさせてしまう。だが、この時間はもう少しだけ続いて欲しい。僕が欲しいと思ったがついぞ得ることのなかったただひとつのものが彼女の存在の内に内在しているような気がしたからだ。

 そんな僕の葛藤を彼女は夜闇からその双眸で灯し、先程のふくれっつらとは打って変わって慈母のような優しく愛おしい表情を見せていた。全てを知りながら敢えて何も述べようとしないようであった。僕はその理外の微笑みに一抹の憐憫と悔恨、そして安堵を見た。彼女の視線は僕を確かに見据えていた。

 頬に少しの火照りを感じた僕は海夜に、彼方に行脚する旅商人の標たらんと白熱光を円弧に輝やかせる灯台へ目を向けた。夜凪が来たのか静寂のときが来ていた。虫たちの歌劇は幕であった。だが耳朶に自然の息遣いは確かに聴こえる。

「僕はもう帰らなくちゃならん、家は何処だ、送って行く。嫌だと言っても送って行く」

 ぶっきらぼうに呟いて視線を戻すがそこに彼女はいなかった。短夜の幻想を僕は見ていたのか、狐狸に化かされたのか、はたまた幽霊なのか。僕は辺りを二、三度見回す。そして僕は足跡を見とめた。それはしっかりと春に芽吹き梅雨を経た背丈の低い柔草の上に残っていた。続く先はようとして知れない。果ては暗い迂路に沈んでいた。もしかしたら同じ街に住む娘かもしれない。いまはそのぐらいの憶測でよい。僕は彼女の後を追いかけはしない。彼女も僕もそれを求めていない。僕は微苦笑して、足を家路に向けた。

 僕の心音に語りかける聲がまたした。なんと心地よい響なのだろうか。あぁ、わかったよ、僕はそう返す。牽牛星と織女星を逢わせる鵲の橋が遥か西に永く架かっていた。

 帰宅後、母に烈火の如く怒られたのは言うまでもない。

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