9.戦いの場へ

「明日お迎えがいらっしゃいます。今日は、ここでゆっくりお寛ぎください」


 そう言われて案内されたのは、神殿の賓客が使うであろう、広い寝室だった。


 寝具も調度品も、テオドアの目にはとても高級なもののように見える。

 前世は独りで質素な小屋に住み、今世も母と狭い小屋暮らしだったためか、どうにも庶民的な考えが抜けきれない。いちおう、公爵家子息であるはずなのだが。


 恐る恐る寝台の端に腰を下ろし、倒れ込んで背中を預けてみる。寝台なんて、生まれてこの方、寝たことがない。

 窓から差し込む月明かりを見るに、今はおそらく深夜。祭りもとうに終わっているだろう。

 

 この短時間で、さまざまなことが起こりすぎた。

 天井を見上げながら、ふう、と長く息を吐く。目が冴えてしまって、どうにも眠れそうになかった。


「どうしたらいいんだろう」

 

 〝依代〟候補に選ばれたために、他の候補者と争わなくてはいけない。

 それは分かっている。嫌というほど知っている。この国だけでも、自分のこの地位を渇望する人間はごまんといる。彼らからすれば、今のテオドアの姿は、癪に障る以外の何物でもないだろう。

 浮かぶのは、あの儀式のとき、納得がいかないと抗議し続けた第一夫人たちの姿だ。


 ふさわしくない、という言葉が、耳の奥にこびりついている。

 彼らとは相容れないが、今回ばかりは、テオドアもその意見に同意する。


 ――前世で女神たちを怒らせた男が、果たして、〝依代〟にふさわしいのだろうか?


 前世と今世の人生は別物だ。けれど、その記憶があるせいで、どうしても気後れしてしまう。

 それに。


「お別れも言えなかったな……」


 〝依代〟候補に選ばれれば、そのあと、家族や友人には会えなくなる。儀式のあとは神殿で隔離されて、すぐに試練の会場へと送られるらしい。

 再び会えるのは、〝依代〟が決まったあとだ。……生きていたら、の話だが。

 テオドアを寝室に案内してくれた神官は、おおむねそのようなことを言っていた。


 だから、あの儀式の場にいた年ごろの少年たちは、みんな、選ばれたときのために家族と別れの挨拶を済ませているという。


 テオドアは言えなかった。母との最後は、ただ祭りに行って帰ってくることを前提とした、母子の会話である。

 今ごろ――誰かが、自分の現状を知らせているころだろうか。

 もしかすると、母は未だなにも知らず、テオドアの帰りを待っているのかもしれない。

 そう思うと、少し切ない気がした。


 双子たちの安否も確認できていないし、仕事先の店長にも、なにも言えていない。リュカにだって、黙って行ってしまう形になる。

 心残りばかりだ、と思う。


 本音では、今すぐ辞退してしまいたい。

 けれど、女神の決定は絶対だ。地界にいる限り、どうやってもこちらの都合で変えることはできない。

 ともかく、行こう。

 行って、できることなら、女神に直談判して、考え直していただこう。


 ひとまずの方向性が決まったため、胸のわだかまりもいくらか晴れた。

 

 テオドアは勢いをつけて起き上がった。

 お別れが言えなかったのなら、手紙を書けばいい。そう思って備え付けの机の上を探し、紙のたぐいが見当たらなかったため、部屋の外にいた神官に「書くものが欲しい」と頼んだ。


 幸い、要望は断られず、もらった紙とペンでなんとか別れの手紙を書き上げることができた。

 と言っても、別れの言葉は使わず、ただ簡潔に事情を述べただけの内容だった。母宛てのものと、店長宛てのもの。店長のほうには、騙していてすみませんと、謝罪を丁寧に書き加えた。

 死ぬかもしれない可能性を、極力、匂わせたくなかった。


「すみません。これを、僕が発ったあとでいいので、宛先のところに届けてくれませんか」


 神官は神妙な顔をして、「お預かりはいたしますが、確実に届けられるかは分かりません」と言いながら受け取った。

 まあ、それでもいいだろう。渡る可能性があるだけでも嬉しい。

 お礼を言って、去っていく神官の背中を見送った。


 

 次の日、早朝。

 結局、一睡もできなかったテオドアの耳に、なにやら騒ぐ声が聞こえてきた。

 身支度もそこそこに神殿の外へ出ると、中庭に神官が大勢集まって、暴れる馬を手懐けようとしているのが見えた。


 ――いや、馬なんだろうか、あれは?


 馬ならば羽はないはずだ。純白の毛並みは朝日を反射して、虹のような不思議な輝きを放っている。馬具もまた、きらきらと黄金にきらめいていた。

 それは大きく羽ばたいて前足を上げ、手綱を取ろうとしていた青年神官を弾き飛ばした。


 どう近寄ったものか迷っていると、蹴散らされた人間ばかりが倒れるさなかに、興奮した馬らしきものへひらりと飛び乗る影があった。


「おろか。人間には、神獣をてなづけることはできない」


 どことなく幼げな口調で、姿も相応に幼かった。六、七歳ごろだろうか。豊かな金の髪を後ろでひとつにくくり、乗馬用だろう短いズボンを履いている。

 しかし、途端に大人しくなった馬の上から睥睨へいげいするさまは、とても少女のものとは思えない。


「〝依代〟候補をむかえにきただけだ。早くつれてこい」

「しょ、少々お待ちを!」


 蹴散らされたうちの一人が、慌てて起き上がって神殿に駆け込もうとする。

 その前に、事態を静観していたテオドアと目が合った。

 救いが見つかった、みたいな顔をされても、困ってしまうのだが。上手く助けられる気がしないので。


「こ、こ、候補者さま! おいでだったんですね!」


 観念して頷き、騒ぎの元凶に歩み寄る。

 

「今来たばかりです……ええと、これはいったいどういう?」

「この人間たちが、ペガサスを馬房にもちこもうとした。まだ朝が早いから、おまえをつれてこれないと言った」


 少女は淡々と説明した。下では馬、いやペガサスが首を振り、荒く鼻息を吐いている。


「神獣をただの獣とあなどらないことだな。こいつらは知能にすぐれている。ただの馬といっしょにあつかわれたことが、ゆるせなかった」


 少女がペガサスの首を軽く叩くと、ペガサスは同意するかのようにぶるると鳴いた。

 それから少女は、テオドアのほうに視線をやり、「用意ができているなら乗れ」と言う。


「え? でも……」


 人間が近づいたら暴れるんじゃないか。そう危惧したのを読み取ったか、少女は無愛想に続けた。


「そこらの人間と、おまえのような候補者はちがう。最高神の素体――ともなるべきものだ。ペガサスもそれくらいはわきまえている」

「そう……いうものですか?」

「おまえはおどろくほど謙虚だな。ほかの候補者とはずいぶん……」


 そこで彼女は急に黙り込んだ。しばらくして、「しゃべりすぎた。わるい癖だ」とさして気にしてもなさそうに言って、頬にかかるほつれた髪を払った。


「まあいい。乗れ。乗れないならひっぱりあげる」

「お、お願いします」


 恥ずかしながら、前世も今世も、馬に乗った経験はない。

 ぐいと右手を引き上げられて、テオドアは少女の後ろ、ペガサスの上に収まった。ペガサスも、人間に乗られているというのに、静かに落ち着いた態度だ。

 少女の腕は、見た目にそぐわぬ力強さだった。きっと人間ではないのだろう。


「手綱につかまれ」


 どう考えても少女に後ろから抱きつくような形になるが、ためらっていてもどうにもならない。覚悟を決めて腕を回す。

 テオドアが手綱に掴まったのを感じ取ったか、ペガサスは駆けるようにふわりと舞い上がる。


 冷たい風が頬を叩く。

 浮いている、と自覚したときには既に、神殿も中庭も神官たちも、遙か遠く小さな粒になっていた。


 雲まで高い場所に来るなど、夢にも思っていなかった。

 速さがすさまじいが、寒さも風の勢いもそこまでではない。せいぜい、髪が乱れるくらいだ。

 しかし、耳元では叩きつけるように強い風の音がする。もしかしたら、ペガサスの恩恵か少女の魔法かで、馬上が保護されているのかもしれなかった。


 周囲は霧のようにけぶっている。雲の中をいくぞ、と端的に少女に告げられ、この霧のようなものが雲なのだと初めて分かった。


「そういえば、その、候補者が争う場所はどこにあるんでしょうか」


 風の音に負けないよう、声を張り上げる。

 対する少女の答えは、大声を出した様子もないのに、はっきりと鮮明に聞こえてきた。

 

「大陸の中心にある山だ。きいたことぐらいはあるだろう」

「神話にある……神々が昔住んでいた、あの?」

 

 候補者を選出する五ヶ国は、この世界唯一の大陸をほぼ五分割している。

 しかし、その大陸の中心に位置する山は、どこの国のものでもない。

 峻厳しゅんげんに切り立つ、天まで届くかと思うほど高い山。古来より、人々はそこを神域として崇めた。遠い千年前までは、神々が住んでいたとも伝わっている。

 〝神々の楽園〟――人間たちが、憧れを込めて呼び習わした山だ。


「せいかくには、そこで争うわけではない。試練は『光の女神』からつたえられる」


 意味を図りかねていると、腕の中の少女は不意に、下を指差した。


「もう着くぞ。こころの準備くらいはしていろ」


 指の先を見ると、雲でけぶって真っ白だった下の景色が、徐々に明らかになってくる。

 ペガサスが少しずつ、高度を下げていっているのだろう。


 雲の隙間から、ごつごつとした岩肌の、大きな山の頂が見えた。

 

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