7.予想外の選出
女神であることは、一目で分かった。
夜闇を照らす照明のただ
即ち、「美」である。
柔らかにうねる銀の髪は、地面につきそうなほど長い。着ているものも、遠目では細部まで分からないが――薄青色の一枚布を巻き、上から外衣としてヴェールを羽織った、古代ふうの衣装であることが辛うじて見えた。
彼女は大勢の人々を前にして、まったく動揺する様子はなかった。
ただ、黙ってそこに立っている。
それだけだというのに、誰も、言葉を発せずにいた。
先ほどまで賑やかだった神殿前、そして広場は、異様なまでに静まりかえっている。
誰もが女神を見ている。
おそろしいまでの存在感に気圧されて、誰も彼もが、息をする音さえ聞き咎められまいとしているようだった。
女神は、なにかを探すように、辺りを見渡した。
それから、神殿の階段をゆっくりと降りていく。地面に立ち、呆然と立ったままの王宮騎士の前を通り抜け、集まった民衆の中へ、まるで気にしたふうもなく進んでいく。
人々は、自然と道を開けた。
人垣の道を抜け、歩いてくる。
女神の姿はだんだんと近くなり、顔の造形までもがはっきりと見えるようになった。
テオドアが状況を理解するより早く――
光の女神は、目の前で立ち止まった。
「え」
テオドアは、半ば呆然と女神を見上げた。彼女のほうが、頭ひとつ分、背が高かったからだ。
間近にある女神の尊顔は、文字通り輝かんばかりの美しさである。
銀糸でできたような髪も、ほんのりと緑がかった瞳も。瞼を彩る銀の
うっすらと微笑みを宿した唇が、動いた。
「来なさい」
落ち着いているが、頭のどこかに響くような、声だった。
耐性のない人間であれば、女神の存在を頭で処理しきれずに、棒立ちのままであったかもしれない。
テオドアが早く自我を取り戻せたのは、ひとえに、三柱の女神と関わった前世の記憶のおかげだった。
差し出された右手を、握って良いものかとためらう。
視線を下げると、女神の裸足が見えた。
「あの……大丈夫ですか。お
すると、女神はここで、初めて表情を変えた。
ほんの少し眉を上げ、目を丸くする。人間の感情に当て嵌めても許されるなら、そう――「意外そうな」顔だった。
だが、それも一瞬のこと。
「構わない」
すぐにもとの微笑みを取り戻し、女神は自らテオドアの手を取った。
引かれるがままに、足を踏み出す。一歩一歩、きちんと歩いているはずだが、なぜか、現実のような気がしなかった。
広場を出る直前、テオドアはふと、後ろを振り返る。
クレイグとハンナの双子は、もとの場所で、揃って地面に倒れ伏していた。
神殿内は、荘厳な雰囲気に包まれていた。
観覧席が確保されているのか、神殿内の祭壇下には、美しく着飾った人々がずらりと居並んでいる。
彼らは、みな、上流階級の者だろう。入り口から戻ってきた女神と、その女神が手を引いているテオドアに目線を向けた。
あれは誰だ、という声が公然と囁かれる。テオドアは、貴族たちの席を左右に割る真ん中の道を、居心地悪く思いながら歩いた。
女神が壇上に足をかける。儀式を行い、女神が降臨した場所だろう。
白い大理石には緻密な模様の絨毯が敷かれていたが、女神の足についていた土が、それを汚した。
「女神よ! お待ちください!」
悲鳴のような声とともに、一人の神官が飛び出してくる。まだ年若く、純白の神官服も着慣れていないような青年だった。
彼が女神の「世話役」なのかもしれない。彼は青白くなった顔に汗を浮かべながら、地に這いつくばり、震える手で布を取り出して、女神の足を拭おうとした。
「必要ない」
女神の態度は淡々としていた。怒りもなく、喜びもない。快も不快もない。ただ、青年神官の手からすっと足を逸らすと、祭壇に至る階段を上っていった。
当然、手を引かれているテオドアも、それに従わざるを得なかった。
祭壇は、ひときわ
捧げられた供物が並び、炎が焚かれ、顔を白い布で隠した――体格から見て女性だろうか――神官が数人、うやうやしく膝をついている。
それをも無視して、女神は奥にいる、年を召した男性神官の前で立ち止まった。
老神官は、他とは違い、豪華な服を身に纏っている。確か、長くひげを生やせるのも、神官長の特権ではなかったか。
平伏しながら、彼は言った。
「光の女神よ、なにかお気に召さないことがございましたか。神殿を出て行かれるなど、前代未聞のことです」
やはりそうなのか、とテオドアは思い、ようやく離してくれた女神の手を目で追った。
神官長の声は、広い神殿内でよく響く。特に張り上げた様子もないのに、だ。
外まで拡張する魔法が続いているかは分からないが、神殿内にも、隅々まで声が行き渡るよう工夫がされているのかもしれない。
女神は無感動に答える。
「お前たちの挙げた人間の中に、候補はいなかった」
「不手際をお許しください」
「構わない。自分で導くのも悪くはなかった」
「では、その少年が……?」
老神官がわずかに顔を上げ、テオドアを見る。
急に話を向けられて、テオドアは一歩だけ退がった。
場違いなところにいる自覚はある。
今日のために最高の衣装を仕立ててきた貴族たちとは違い、自分はなけなしのお金で買った質素な装いである。
母からのプレゼントであるから恥には思わないにしろ、この場に即していないことは肌で感じ取っていた。
女神は、テオドアに向き直る。微笑みを崩さないその姿が、いつかの前世の記憶を彷彿とさせた。
もちろん、目の前の女神と『彼女たち』は、別神ではあるが。
「お前の名は?」
テオドアは一瞬、ためらった。答えて良いものかと迷い、助けを求めて周囲を見渡す。
しかし、神官たちはみな、顔を伏せている。女神の顔をまじまじと見ないように、という配慮だろう。
祭壇下からのざわめきは、ますます高くなる。おそらく、自分について憶測が交わされているのだ。
その中にあって、女神は泰然と待っていた。
こちらを真っ直ぐ見つめたまま、急かすこともなく。
それに押されるように、テオドアは、からからに乾いた喉から声を絞り出した。
「テオドア……、テオドア・ヴィンテリオと申します」
小さく囁いたはずが、予想外に大きく響き渡り、驚いて口をつぐむ。
ざわめきが、いっそう強くなった。
女神は僅かに目を細め、次いで神官長のほうを見遣る。
心得たもので、神官長はゆっくりと立ち上がり、テオドアの前にやってきて言った。
「テオドア・ヴィンテリオ。この名前に相違はないね?」
「は……はい」
「ヴィンテリオ公爵家の適齢期の子息は、二人だけだと聞いていたんだが、どうやら違ったようだ」
「は、母が第二夫人で……」
「ああ、なるほど。しかし、女神に選ばれるほどの逸材が――」
そのとき、甲高い声が神殿の空気を切り裂いた。
「嘘! 嘘よ! そんなはずがあるわけないわ!!」
神殿中の視線が、叫び声の主に集まる。テオドアもそちらを見た。
ヴィンテリオ公爵家、第一夫人。いつもよりも優美に着飾り、品位ある姿の彼女は、しかし、整った顔をゆがませて叫んだ。
「どうしてそんな出来損ないが選ばれるのですっ! 魔術学院にも、普通の社交界にも出ていないような穀潰しが! わ――私の子どもたちの、なにがいけないのですか! そんなものより、よほど、よほど……っ」
言葉に詰まったのか、喘ぐように口をはくはくと動かす。よほどショックだったのだろう。顔色が見る間に真っ赤になっていた。
母親の剣幕に同調するように、近くに座っていた異母兄・パウラも立ち上がった。
「そ、そうだ! どうしてお前なんかが! 魔力無しが選ばれるはずがないだろう!」
よほど頭にきているのか、真っ赤な顔で唾を飛ばし、臆面もなくテオドアを指差す。その近くに尊き女神がいることなど、忘れているようだ。
「薄汚い平民腹のクズめ! どうにかして神殿に取り入ったに決まっている! そうだ――それ以外にない! こんなもの、無効だ! やりなおせっ! 今すぐにだ!」
隣のツィロも、こちらを射殺さんばかりに睨み上げてぶつぶつと言っているが、それはこちらまで届かなかった。
「そんなものを候補にするなんて、アルカノスティアの名が汚れ――」
「私の選定に不服が?」
パウラの叫びに、涼やかな声が被さる。
女神だ。やはり微笑んだままだが、彼女の声には有無を言わさぬ力がある。
パウラも、さすがに言葉に詰まったようだった。
二の句を継ごうと口を開けたまま、しかし何も言えずにぽかんと女神を見上げる。
それを見て、興味を無くしたらしい。女神はさっさと貴族たちに背を向け、祭壇の奥に消えていった。
そのあとを慌てて、数人の女性神官が追う。
どうやら、祭壇の奥に、他へ繋がる通路があるようだ。
女神が去ったのを受けて、神官長は、貴族たちの前に進み出た。
「〝依代〟候補に不服がおありということは、即ち、女神を疑うことと同義。それを分かっておいででしょうな?」
確かにそうだ、不敬なのではないか、という声が、貴族たちの間で伝播していく。
ざわめきは密やかな囁きに変わり、その場のほとんどの人間が、――あまり良くない目で、ヴィンテリオ公爵一家を見ていた。
自分たちの周囲に、じわじわと猜疑と不審が
逆に勢いを取り戻した二人は、なにやら大声で喚き立てる。ふさわしくない、やりなおせ、引きずり下ろせ――と。
しかし、神官長は最早、それを一切無視した。
どころか、手振りひとつで祭壇の下にいる神官たちに指示を出し、騒ぐヴィンテリオ公爵家の面々を、無理やり外へと放り出した。
彼らの声が遠くなっていく。
神官長は、改めてテオドアに向き直った。心なしか、笑っているように見える。
そうすると、威厳ある神官長というより、親しみやすい老爺に思えてくるから、不思議だ。
「さて、今から君を、候補者として別室に連れて行かなくてはいけない」
「こ、このままですか?」
「そうとも。不安だろうが、まあ、あとのことは儀式が終わってから考えよう」
そう言われるが早いか、顔を隠した女性神官たちがやってきて、テオドアの周りを取り囲んだ。
あちらです、と指示されるがまま、来た道とは違うほうから祭壇を下り、広間をあとにする。
そうして、しばらく経ってから、外まで響く大音声で宣言された。
『――選ばれし候補者は、ヴィンテリオ公爵家が子息、テオドア・ヴィンテリオである!』
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