2.女神たちに求婚した男
この世界は、神々の住まう天界と、人間のいる地界、死者の行く冥界に分かれている。
神々は基本的に、地界へは降りてこない。そもそも、肉体を持たずに神気で姿を形作っているため、物質世界に干渉ができないのだ。
まだ最高神が生きていたころなら、神々と人間の交流は盛んだったそうだが。
それも神話の時代のこと。彼らが意志を持って降臨しない限り、人間の側から接触する術はない。
しかし、遡ること百年前。
地上に興味を持った三柱の女神が、肉体を得て地上に降臨した。
知恵と魔法の女神。
夢と眠りの女神。
戦と正義の女神。
この三柱が、どの国にも属さない国境、「境界の森」に居を構え、人間たちと交流を始めたのである。
これに沸き立ったのは、各国の身分ある男たちだった。
本物の神など、一生で一度もお目に掛かれないのが普通である。しかも、女神だ。当然のように至上の美貌で、人間の美女が霞むほど。
神々との渡りをつけよう、あわよくば求婚しようとする男が大勢やってきた。
前世のテオドアも、そんな男たちの一員――
では、なかった。
各国の境界に必ずある深い森、『境界の森』。その森の平穏を保つための『番人』、それが前世のテオドアだった。
境界の森は、神々の威光も国家の繁栄も届かぬ魔境である。
さまざまな魔物が棲み、縄張りを争い、あらゆるものを奪いあう場所。人間など、こっそり通り抜けるだけでも、死を覚悟した装備が必要なくらいである。
魔物というだけあって、彼らは魔力を有している。ゆえに、他者の魔力には敏感だ。王族や貴族ほど、危険度は跳ね上がる。
魔物が万が一にも国境を抜け出さぬよう、見張る者が必要だった。
それが、『番人』。広大な森を管理する、どこの国民でもない一族だ。
神話の時代、最高神がとある人間を指名したのが始まりだとされている。
番人は代々、森を守り、森を通り抜ける者の安全を確保し、なにより魔物との均衡を保って暮らしてきた。
意思疎通はできないものの、魔物を刺激しないように、無益な争いを作り出さないように気を配っていた。
番人は、生まれてから死ぬまで、森から出ない者も多い。そんな気配りは、息を吸うより簡単だったことだろう。
前世のテオドアもまた、そうして生きていた。
名前は覚えていない。呼ばれた記憶がないからだ。先代の番人である父親を早くに亡くして以来、ずっと独りで暮らしていた。
森の家は、今住む小屋よりもさらに小さく、質素だった。細々と狩りをし、何日かに分けて森を見回り、異変や異常がないかを確かめる。その繰り返し。
死ぬ数年前に、小さな魔獣の
番人の血を継ぐために、いつかどこかの国が、年ごろの女性を送ってくる手筈となっていた。
特に忌避感はなかった。自分が男だからかもしれないが、それでも、番人としての運命に不満はなかったのだ。
女神たちが、地上に降りてくるまでは。
初めて姿を拝したのは、彼女たちが降臨してしばらく経ったころ。いつもの見回りの際に、女神の居城の近くを通ったときのことだった。
神の奇跡で築かれた城は、鬱蒼とした森の中とは思えない輝きだった。白亜の建材が太陽を照り返していたのだ。
生まれてこの方、木々と魔物と質素な小屋以外をほとんど見たことがなかった彼には、とてもこの世の光景とは思えなかった。
吸い寄せられるように、足が向く。
荘厳かつ壮麗な庭園から、男女の楽しげな笑い声が聞こえてくる。魔物の巣窟だというのに、周囲には柵も塀も設けられていない。魔物など女神の敵ですらないのだろう。
そうして、彼女たちの姿を、見た。
そのとき自らの内に溢れた感情を、形容する言葉は未だに知らない。愛、恋、羨望、庇護、親愛、敬愛、はたまた――ただ単に、友人になりたかっただけかもしれない。
だが彼は、自らも知らない強い感情に突き動かされ、なりふり構わず庭園へ飛び込んでいった。
「どうか、僕とともに生きてください」
急に飛び出してきた怪しい男を、女神たちは邪険に扱わなかった。
内心ではどう思っていたかわからない。しかし、上品に着飾った女神の〝友人〟たちが嘲笑を零す中で、彼女たちだけは嗤わなかった。
もちろん、三柱三様に、慈悲深い微笑みを浮かべてはいたけれど。
一柱が問うた。
「今の求婚は、私たち三人に言ったのね?」
まさか求婚のつもりもなかった彼は、頬が熱くなるのを感じながら頷いた。彼女たちの視線に晒され、自らが
女神たちは、穏やかに言い交わす。
「今まで求婚してきた男はたくさんいるけれど、三人同時になんて初めてだわ」
「その勇気と豪胆さ、命知らずな態度は賞賛に値する」
「……どうするの? 今ここで、答えを出す?」
「そうねえ。こうしましょう」
明日から、この城に辿り着くまでの道に、幾つもの難所を用意する。
そこに、百夜通う試練を授けましょう。
武器も持たず、明かりも持たず、たった一人丸腰で挑んで、それでもやってきた日には、私たち三人で出迎えてあげましょう。
そして、万が一、百日間通うことができたのなら。
「そのときは、私たちは貴方の妻となります。貴方を助け、心を通わせ、愛を育みましょう」
稀代の英雄に課せられるほどの難題を、しかし、彼は承諾した。
次の日から、毎夜、女神たちの居城へ通い始めたのである。
女神がどういう思惑で難題を科したか、人の身には到底、思い及ばない。
しかし、彼は健闘した。おそらく、女神たちの予想以上に。
森の中に作られた異様な難所を、一人で乗り越え切った。切り立った崖、荒れ狂う大河、人喰いの魔物。前も見えないほどの大雨と、喉が乾涸びるほど照りつける太陽。極寒の大地と、灼熱の大地を。意志と、『番人』としてのあらゆる知恵を駆使して、踏破した。
その日数、九十九日。
女神たちも、夜ごとに難所を潜り抜けて現れ、また帰っていく彼に、少しずつ心を開いていたようだった。少なくとも、彼は――おこがましくも、そう思っていた。
だから、気の緩みがあったのかもしれない。
彼は、百日目を、生きて越えることはなかった。
「――女神さまたちは、九十九日通い詰めた愚かな男へ、神獣を送って喰い殺させたの。身の程知らずは懲罰されて、冥界の裁きを受けました、めでたしめでたし……っていうお話よ」
「なーんか、エグくないっすか? 約束守って何日も通ったのに、やっぱやめたって殺されるなんて。その男、ちょっと可哀想すよ」
「うーん。でも、神さまってそういうものじゃないかしら。それに、このお話が実話とは限らないわ。誰かが作ったお話よ、きっと」
着替えを済ませて戻ると、母がちょうどリュカに、物語を終えたところだった。
朗らかな表情の彼女を見て、少し安堵する。好きな昔話を、息子以外に語り聞かせることができて、満足しているのだろう。
対するリュカの表情は微妙だった。彼の好む話ではなかったらしい。
「ううん……もうちょっとこう……明るく終わる話が良いっすね。それか、冒険の話とか」
それだったらと、テオドアは助け船を出した。
「最高神の逸話を、面白おかしく話すだけでも良いんじゃないかな? 神話を小さい子にもわかりやすくするとか」
「あ、名案。それでいきます。坊ちゃん頭良いっす。例の〝選定〟も近いですもんね、少しでも勉強させとかないと」
リュカは頭を下げて、「では奥さま、坊ちゃん、失礼いたします」と礼儀正しく去っていった。こういう所作がさらりとできるのも、彼が世渡り上手たる
「ランプ、直してあげてたの?」
リュカの背が遠ざかっていくのを眺めながら問う。母は微笑んだ。
「ええ。小さな弟が壊してしまったんですって。家では貴重な光源だって言うし、彼、いつも仲良くしてくれるでしょう? だから、ちょっとだけ直してあげたの。昔を思い出して楽しかったわ」
母は、城下町に店を出す魔道具屋の娘だ。
膨大な魔力を持って生まれた平民の子は、周囲から腫れ物扱いをされがちだが、その点、彼女は幸運だった。
魔道具屋は、文字通り魔力の籠った道具を扱うので、他よりも魔法というものに精通していたのである。
彼女は理解ある両親に愛されて育ち、魔道具の扱いを身につけていった。
ヴィンテリオ公爵に見初められなければ、店の立派な跡継ぎになっていたことだろう。
「まだ髪が濡れてるわね。ほら、こっちに来なさい」
「いいよ、放っておけば乾くから」
母が再び小枝を持って、手招きをする。魔法使いって、どうして棒を持つんだろう、という微かな疑問が浮かぶが、今はどうでも良いことだ。
「本当に風邪ひくでしょう。たたでさえあなたは、夜は外で寝てるんだから。子どもはお母さんの言うことを聞きなさい」
「もう十三歳だよ、母さん」
「私にとってはまだまだ子どもです」
ふわりと、温かい風が吹く。母の魔法だ。
テオドアは躊躇いつつも母のそばに近寄った。濡れて冷え切っていた髪が、柔らかな風に晒されて、少しずつ乾いていくのを感じる。
『番人』のときは、母親を知らずに生きていた。彼を産んだあと、産後の肥立ちが悪く、そのまま亡くなったらしい。
今世の母しか、〝母親〟を知らない。
待望の息子が『魔力無し』であろうが、第一夫人たちから酷い言葉を投げかけられようが、決してテオドアに当たらない、強く優しい母の姿しか。
「……」
自分のような、おかしな息子を産んだせいで、彼女は迫害されているというのに。
母には幸せになってほしいと、願わずにはいられなかった。
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