最高神の〝依代〟
青波希京
第一部 最高神の〝依代〟選抜
第一章 ヴィンテリオ公爵家と〝儀式〟
1.公爵家の〝魔力無し〟
二度目の生を受けて幸運だったのは、どんな仕打ちを受けてもあまり落ち込まないことだ。
そう思いながら、テオドアはびしょ濡れになった自身の身体を見下ろした。
頭から水を掛けられたので、髪は額や顔に張りつき、質素な服も水を吸って重くなっている。
目の中にも水が入りかけ、ゆっくりと瞬きをした。
視界の半分が、長い前髪に覆われている。何ヶ月かに一度、自分で切っているのだが、近ごろは忘れていた。結べば良いや、と思っていたが、こういうときは困る。
赤い髪をぐいと掻き上げ、テオドアは顔を上げた。
何が面白いのか、犯人たちは笑っている。少し下品な笑いかたは、取り巻きの召使いたち。
その中心で腹を抱えているのは、血縁上、自分の兄にあたる少年だった。
「ああ、お前だったのか、テオドア。惨めに這いつくばっていたものだから、虫か何かだと勘違いしてしまった」
そんなわけないだろう、と思いながら、目の前の兄を眺める。
美しい顔をしているが、高慢な物言いと態度が滲んだ表情は、あまり褒められたものではない。
十六歳にもなって、三歳年下の異母弟にこんな絡み方をしているのだから、まあ妥当な評価であろう。
召使いの一人が、空になった桶をこちらに放り投げた。がらん、と音を立てて、テオドアの足元に転がる。
――外出先から母のもとへ戻る最中、後ろからぶつかられて転んだ。そうして立ち上がったところに、追い打ちで大量の水が降る。おそらく、召使いたちが兄の指示で行ったのだろう。
兄はニヤニヤしながら、「服を乾かすのも一苦労だろう」と言った。
「魔道具すらろくに使えないものな? 間違って迷惑をかけた詫びだ、この俺が乾かしてやる」
「いいえ、結構です」
兄の右手に光が集まっていくのを見ても、テオドアは怯えず、淡々と返した。これ見よがしに魔法を使ってくるのは、いつものことだったからだ。
そんなに、魔法を使えることが、良いことなのだろうか。
前世でも今世でも〝魔力無し〟のテオドアには、どうしても理解できない価値観だった。
しかし、その態度すら、どうやら癪に触ったようで。兄はこちらをぎっと睨み、吐き捨てるように言った。
「ヴィンテリオの恥め。魔力もない穀潰しなど、下賎の母親とともにどこぞへ消えてしまえ」
「……」
あくまでも無反応を貫いていると、兄は苛立ち紛れに小さな炎球を撃ち込んできた。その行く末も見ないまま、踵を返して去っていく。
周囲の取り巻きたちが慌てて追っていくのを見送り、テオドアはようやく動いた。
「水を掛けられはしたけど、そのおかげで助かったな……」
水を吸った服の裾を絞り、溜め息をつく。
炎球は
おそらく、ぶち撒けられた水と相殺されたのだろう。
魔法の理論はよく分からないため、なんとなくそう当たりをつける。
テオドアは再び、母の――公爵家当主第二夫人の待つ小屋へ向けて、歩き出した。
ヴィンテリオ公爵家。
それは、誉れ高き国家、『アルカノスティア王国』にて、王家のお覚えめでたい家柄である。
貴族のご多分に洩れず、代々優秀な魔法の使い手を輩出し、国家の繁栄に大きく寄与した。
その中でも、現在の当主であるベルンド・ヴィンテリオは、歴代最高と謳われるほどの実力を有している。
魔法にも長け、剣術にも長けた公爵の子どもに、周囲は大きく期待を掛けた。
おそらく、公爵本人も。
魔法の素質は、親から受け継がれることがほとんどだからだ。
公爵は、妻を二人娶った。
一人は、ヴィンテリオ公爵家の親戚筋に当たる家の娘。王家の分家でもあるため、正真正銘、由緒正しい血筋だ。
もう一人は、平民出身の娘。貴族のご
しかし、彼女には、膨大な魔力があった。
基本的に魔法を使えるほど魔力を持つのは、ひと握りの貴族と王族のみで、平民は魔力がまったく無いか、微量であることがほとんどだ。
だが、ごく稀に、平民階級にも一定以上の魔力保持者が生まれることがある。
そのうちのさらに希少な、莫大な魔力の持ち主――。平民から一足飛びで貴族の妻に迎えられても、ほとんど文句は出なかったそうだ。
だが、生命は得てして、思うようにいかないもの。
第一夫人の四人の子は、父親を越えることはできず。
第二夫人の一人息子は、魔力を得ることすらできなかった。
落胆したのか、当主は公爵家の本邸に、いつしかほとんど帰らなくなった。
代わりに家内の実権を握ったのは、王家の血を引く第一夫人。もとより〝元平民と同じ立場〟という状況は、彼女のプライドが許していなかったのだろう。すぐに第二夫人とその息子を迫害し、部屋すら奪い、屋敷の裏に建てさせたみすぼらしい小屋に追いやった。
第一夫人の子どもたち、特に男子の二人も、母親の態度を幸いと、第二夫人たちに辛く当たっている。
屋敷の使用人も、ほとんどが第一夫人の味方だ。
ごく僅かな人間を除いては。
「テオ、ずいぶん遅かったわね」
小屋の裏手に回ると、母が穏やかに振り返った。
「奥さま、ほんとにこれで合ってるんす……ですか?」
母とともにしゃがみ込んで、なにやら熱心に作業台を覗き込んでいるのは、この小屋へよく遊びに来る下働きの少年だった。
彼は拙い手つきで壊れたランプを組み合わせ、再びバラバラにならないようにぎゅっと押さえつける。
母は目線を戻して頷き、なにごとか小さく呟きながら、手にした小枝で宙に線を描く。
枝先の軌跡が光となって残り、小さな魔法陣となった。
「……はい、これで直ったはずよ。久しぶりだから、ちゃんとできてるかはわからないけど」
「あ、すげえ! ほんとに直ってる!」
「今度は、小さい子たちの届かないところへ置いておきなさいね、リュカ」
「はいっ! ありがとうございます!」
リュカ、と呼ばれた少年は、新品同然のランプを掲げて笑った。
その様子を微笑ましそうに見て、母は立ち上がる。擦り切れて色褪せたドレスに、薄汚れた前掛けをつけた姿は、とても公爵家の第二夫人とは思えない。
けれど、豊かに長い亜麻色の髪は艶やかで、ほつれのひとつもない。歳を重ねても、ろくに手入れされていなくとも、公爵を射止めた美貌は少しの
母は、テオドアのもとへ行こうとして、異常に気がついたらしい。怪訝そうに眉を寄せ、テオドアの姿を上から下まで眺めた。
「どうしてそんなに濡れているの?」
「ああ……途中で水運びを手伝ってきたんだ。使用人たちと一緒に。それで、転んだんだよ」
嘘をつくのも慣れたものだ。テオドアはしれっとした表情で、「桶をひっくり返してしまって」と付け加える。
魔法が使えないので、事前に乾かすこともできない。誤魔化すには嘘しかないのである。
「坊ちゃんって、変なトコでドジっすもんね」
リュカも頷く。目配せをされたので、察するに、話を合わせてくれたのだろう。まだ十も越えない年ごろだというのに、あまりにも機転が利き過ぎる少年だった。
だからこそ、第一夫人派の
母は、何か言いたげだったが、結局は追及を諦めたようである。そうなのね、と沈んだ声で言ったきり、黙り込んでしまった。
ああ、違う。
母を悲しませてしまっては、本末転倒だ。
テオドアが焦って口を開く寸前に、リュカがこちらへと駆け寄ってきた。
「坊ちゃん、濡れたまんまだと風邪ひきますよ」
「……それもそうだね。着替えてこようかな」
重苦しい空気を振り切って、その場を後にする。
小屋に入って着替えながら、外の音を聞くともなしに聞く。
「最近、妹が昔話にハマってて。でもオレ、そんなに知らないんすよ。どんなのがいいと思います?」
「そうね……。あれなんてどうかしら。『三人の女神と愚かな男』」
「え。なにそれ、知らねえです」
「私の故郷では有名だったのよ。地域の違いかしらね。百年前、女神さまに求婚した男性のお話で――」
その昔話は、知っている。
幼いころ、母に何度も寝物語で聞かされた覚えもある。
けれどもテオドアは、母に聞くずっと前から、その話を知っていた。
なにせ、愚かにも女神に求婚して死んだ男は、『前世の自分』だったのだから。
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