味なしキャロット

 茹でたニンジンをひと齧り。すると口いっぱいにドレッシングの味が広がる。ニンジンの味というのはよく分からないが、ドレッシングが美味しいことには変わりないのだろう。ニンジンをまたサクッと口の中に放り込む。

 ポリポリと振動するニンジンが自身の歯に衝撃を与え、口の周りの筋肉が作用していることを強制的に感じさせる。

 それらを噛み砕いて私は息を吐いて、虚空を見つめる。

「味なしキャロット。」

 その語呂があまりにも口に合いすぎて、一瞬のうちに笑いが込み上げてきた。そして冷静になって、再び虚空を見つめる。




 あの頃のニンジンは確かに甘かった。小学校に上がる前の頃、いつだかの他人が育てたニンジンを収穫する行事で引き抜いたものを思い出す。

「今日はシチューにしましょう。」

 そう言って母は新聞に包まれたまだ新鮮な土色のニンジンを大事そうに抱えていった。その時、丁度好奇心旺盛な時期であった私は、ニンジンが捌かれて行くのをじっと見つめていた。

 まず土を粗方落とす。褪せた橙色を少し覗かせた後、蛇口を捻り、綺麗な水が流れている途中の水流にそのニンジンを差し込み、サッと色褪せたニンジンを撫でる。すると、そこには絵の具のような鮮やかさを持つ赤色のニンジンが現れる。白と銀色の無機質な色の台所の中に、ぱっとそこだけ明るくなって行く。また同じく鮮やかになった土色の土を手慣れた手つきで取り除き、バサっとそれを振るって、水を落とす。そしてまな板の上にそれを置き、ピーラーを持って、その鮮やかなニンジンを剥いでいく。それを見ているとニンジンが悲鳴をあげているようにも、またサッパリした、と満足そうに微笑んでいるようにも見えた。

「危ないからあっちへ行ってなさい。出来たら呼んであげるから。」

 母はそう言って私をおもちゃがある部屋へと誘導する。母が部屋を閉めた後、私はその部屋の中で一人、あのニンジンについて思案する。

 引き抜かれても尚、変化し続けるニンジンの様子に心惹かれたのかも知れない。土色から鮮やかな赤色へ。私の視界に突如と現れた絵の具が、そこに間違えて色を乗せたかのように不自然な色合い。はて、いつも、シチューの中にあるニンジンはどんな色で、どんな硬さで、どんな味だっただろうか。


「ご飯よー。」

 母の声が聞こえて、私は即座に腰を上げ、パタパタとそちらに向かった。盛られていくシチューを見て、私は困惑する。ニンジンが入っていない。

「ニンジンさんは?」

 母にそういうと、柔らかい笑みを浮かべながら母はシチューをテーブルに置き、スプーンを取り出して、シチューに突っ込み、白い物体を持ち上げる。

「これがにんじんさんよ。」

 ニンジンは白くなっていた。

「さぁ、冷めちゃう前に食べましょう。」

 そう言って、母はそのニンジンを再び白い海へと沈める。再び無機質な白になったと思って、若干の寂しさを感じるものの、何となくそれはいけないことのような気がしてしまう。素早く椅子によじ登り、スプーンを使ってシチューを食べる。ゴロゴロと野菜が入ったシチューは私の好物であるが、その時は物悲しいと言う方が近かった。

「ん。」

 急に、にんじんの味が広がる。ほんのり甘くて、暖かくて、ちょっと粘り気があり、一回噛むとジュワッとその風味が広がる。それを感じながら私は口の中であの鮮やかな赤を連想する。

「ニンジンさん。」

 まだ口に赤を留めながら、私は母に向かってそうやって言う。

「ニンジンさん、採れたてだから美味しいね。」

 母はそうやっていった後、ニンジンのことについて色々話した。どうやって収穫したのかとか、誰と収穫したのかとか、にんじんの美味しい時期はいつだとか、ニンジン料理の話だとか。

 そんなことを聞きながらシチューを食べていると、気がつけばシチューは無くなっていた。

「ごちそうさまでした。」

「はい、お粗末さまでした。」

 自分がどれだけニンジンを食べたかは、もうよく分かっていなかった。




 私はそばにあるチョコレートを摘みながらぼーっとそれらを思い返す。

 味なしキャロット。

 繊維が強く、冷たくて、硬いニンジン。

 あの感性は母の料理の手腕か、それとも幼い記憶の美化か、それとも無知か。もうチョコレートの甘味で満たされた口の中ではあの甘味は想起し難い。


 そんなつまらない人間に、私は失笑した。

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ショートストーリー 普遍物人 @huhenmonohito

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