オーデコロン

今日は雨かしら。音を聞いて私は感じる。ザァ、と窓に叩きつける水は一つ一つが区別のつかないものとなり、地面に落ちていく。

激しい雨により鬱陶しくなってしまった雨に気分が沈み肩を落とす。布団を退けようとしても体は動こうとしない。ふと窓を見れば灰色が目立つ。そんな天気では自分のしていることも全て無駄であるとさえ感じてしまう。


「会社に、いくか…」


虚しく響き渡る声。重くてだるくて孤独だった。


「行きたくないなぁ。でも、行かなきゃいけないや。本当に最悪。」


そうであっても息のしにくい空気に耐えかねて声を出す。が、それもただ空気に溶けていき、周りに伝わっているかも怪しい。


「…起きよ。」


重い空気の中で冷たい床を感じる。さっきまで包んでいた毛布よりもはるかに冷たく、湿っぽい。そんなことに苛立ちながらも大人しく身支度を整えていた。


意識がはっきりしてきたと同時に私は気がついた。


「そういえば今日、会社ないじゃん。」


自室に戻り、ベタベタとした紙質に嫌悪感を覚えつつも、手帳を広げると「会社、会議なし」と無造作な文字があった。


「なんなら、会議もない…誰とも会わないんだ…」


リモートやらなんやらで出勤が制限される中、会うことは許されない。会社のチャットではお話しするものの、情報量が少ないお話はお粗末なものであり、会話とは言い難い。なら、今の時間や行ったことは全て無駄だったと言うことか。再び鏡を見ると人と会うように飾られた自分が写っている。目を逸らせばそこには自分を飾った整髪剤などが置かれている。もう逃げ場はない、そう言われているように感じた。もう、どうしようもなかった。最悪な気分を振り払いたくて私はただ無表情で整髪剤を台から落としていく。


ぱりん


不意に耳をつくような音が聞こえた。足元には割れたガラスの破片。あぁ、あの人のオーデコロンか。別に香水が好きではなかったが彼女からもらったと言うことで置いてあったオーデコロン。私はその香水の居場所に困っていたのだ。丁度いい。これで一件落着だ。


そんなことを考えながら柑橘系の甘酸っぱい匂いで落ち着きが戻ってきた。ただ、すぐに、消えてしまうが。


「あの人も、そうだったなぁ…」


私はどうしようもない彼女のことを思い出して呟く。彼女はこの香水を好んでいた。彼女の纏ういつもの香りそのものだった。怖くて今まで嗅ぐことができなかった、落ち着いた匂い。不意に涙が溢れる。君は、なぜそんなにも遠いところにいるの。訴えようにも声に出すことはできない。それを言ってしまったら彼女がここから本当に消えてしまうような気がして。


せめて、この1〜2時間ここで浸っていたい。


1時間は立っただろうか。消えかかってしまうであろう匂いに耐えきれそうもなくて私は洗面所を後にした。


リビングで在りあわせの食事を済ませる。


「仕事もないなぁ…」


これは困った。することがない。私はリビングを見渡した。暇を潰せるものはこれしかない。本棚に手をやり、何度も読んでしまった本に手をかけ何も考えずに字を目で追う。


時間が少しばかりすぎた頃、私はまた、洗面所に向かった。歯磨きをしていなかったことに気がついたのだ。どうも、会社がないと調子が狂う。洗面台の扉をゆっくりと開けた。


刹那、柑橘系の甘酸っぱい空気が流れてきた。いや、もう効果時間はとっくに過ぎているはずだ。私は混乱している頭を必死に回す。


そうだ、今日は雨ではないか。オーデコロンでさえ長持ちするぐらいの、鬱陶しい湿度だった。



私は必死にガラスの破片を拾い集めて、その銘柄を確認する。彼女が教えてくれた、あの店。

服装なんて考えずに玄関を飛び出す。軽やかな足取りで道をゆく。さっきまで鬱陶しかった雨は音楽にさえ聞こえる。私は久しぶりに笑みを浮かべた。


「今日は雨なんです。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る